もう、あなたには何も感じません

たくわん

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エルヴィン辺境伯領での一ヶ月は、瞬く間に過ぎた。

クラリッサの指揮の下、井戸が十箇所掘られ、灌漑用の水路が整備された。食料も十分に確保され、領民たちは冬を越せる見込みが立った。

さらに、クラリッサは土壌改良の準備も始めていた。

堆肥作りを指導し、来年の春に向けた計画を立てた。辺境伯領の執事たちに、詳細な指導書を残した。

「これで、来年は必ず豊作になります」

クラリッサは、辺境伯に報告した。

「本当に、ありがとう」

老辺境伯は、涙を流した。

「あなたがいなければ、この領地は終わっていた」

「いいえ。皆が協力してくれたからです」

クラリッサは、謙虚に答えた。

出発の日、領民たちが見送りに来た。

「お嬢様、ありがとうございました」

「必ず、来年また来てください」

「私たち、お嬢様のことを忘れません」

クラリッサは、一人一人に挨拶をした。

馬車が動き出すと、領民たちは手を振り続けた。

クラリッサも、窓から手を振り返した。

馬車の中で、クラリッサは疲れ果てていた。

一ヶ月、休む間もなく働き続けた。でも、充実していた。

オスカーが、向かいの席に座っていた。

告白の日以来、二人の間には微妙な空気があった。

だが、仕事では以前と変わらず協力し合った。

「お疲れ様でした」

オスカーが、静かに言った。

「あなたもよ。本当に、助かったわ」

クラリッサは、微笑んだ。

「オスカー」

「はい」

「あの日のこと」

クラリッサは、言葉を選んだ。

「私、まだ答えられないの」

「分かっています」

オスカーは、優しく頷いた。

「急かすつもりはありません。ゆっくり、考えてください」

「ありがとう」

クラリッサは、安堵した。

「でも、一つだけ言わせてください」

オスカーは、彼女を見つめた。

「私は、待ちます。どれだけ時間がかかっても」

クラリッサの胸が、温かくなった。

一週間後、王都に到着した。

クラリッサは、すぐに王太子に報告に行った。

「エルヴィン辺境伯領は、危機を脱しました」

「詳しく聞かせてくれ」

クラリッサは、この一ヶ月の活動を詳細に報告した。

王太子は、真剣に聞いていた。

「素晴らしい仕事だ」

彼は、感嘆の声を上げた。

「君がいなければ、あの領地は崩壊していただろう」

「恐れ多いことです」

「いや、事実だ」

王太子は、立ち上がった。

「クラリッサ・フォンテーヌ。君を、王国農政総監に任命する」

「農政総監、ですか」

「ああ。王国全体の農業政策を統括する役職だ」

クラリッサは、驚きを隠せなかった。

「私のような若輩者が」

「年齢は関係ない。能力だ」

王太子は、断言した。

「君には、その能力がある。いや、君にしかできない」

クラリッサは、深く一礼した。

「お引き受けします」

「頼んだぞ」

王太子は、にこやかに微笑んだ。

王宮を出ると、オスカーが待っていた。

「おめでとうございます」

「ありがとう」

クラリッサは、まだ実感が湧かなかった。

「農政総監。王国で最も重要な役職の一つですよ」

「重責だわ」

「でも、あなたなら務まります」

オスカーは、確信を持って言った。

二人は、自分の屋敷へと向かった。

屋敷では、セバスチャン、ヘンリー、トマスが出迎えた。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

「ただいま」

クラリッサは、安堵の表情を浮かべた。

「領地の様子は?」

「順調です」

トマスが、報告した。

「学校も、子供たちが熱心に通っています」

「そう。良かった」

クラリッサは、微笑んだ。

夕食後、書斎に集まった。

クラリッサは、王太子からの任命について報告した。

「農政総監」

ヘンリーは、興奮していた。

「お嬢様、これは歴史的な任命ですよ」

「女性が農政総監に就くのは、王国史上初めてです」

「そうなの?」

クラリッサは、驚いた。

「ええ。前例がありません」

セバスチャンも、感慨深そうだった。

「あなたは、歴史を作ったのです」

その夜、クラリッサは一人で畑を歩いた。

月明かりの下、作物が静かに育っている。

一年半前、絶望の中で始めた戦い。

婚約破棄、借金、荒廃した領地。

全てが、遠い昔のことのようだった。

今、自分は王国農政総監だ。

誰が、こんな未来を予想しただろう。

「クラリッサ」

声がして、振り返るとオスカーが立っていた。

「眠れないのですか」

「ええ、少しね」

二人は、並んで畑を歩いた。

「あなたは、本当に遠くまで来ましたね」

オスカーが、静かに言った。

「私が初めて会った時、あなたは一人で畑を耕していた」

「覚えているわ」

「あの時から、私はあなたに惹かれていたのかもしれません」

オスカーは、立ち止まった。

「クラリッサ、私の気持ちは変わりません」

「オスカー」

「でも、今のあなたは王国農政総監だ。私は、ただの次男坊の騎士」

オスカーの声には、少し寂しさが滲んでいた。

「釣り合わないかもしれません」

「何を言っているの」

クラリッサは、彼の手を取った。

「地位や身分なんて、関係ないわ」

「でも」

「オスカー、あなたがいなければ、私はここまで来られなかった」

クラリッサの目には、涙が光っていた。

「あなたは、私の最も大切な仲間よ」

「仲間」

オスカーは、その言葉に複雑な表情を見せた。

「ごめんなさい」

クラリッサは、彼の手を離した。

「私、まだ答えられない。でも」

「はい」

「あなたのことは、とても大切に思っているの」

クラリッサは、正直に言った。

「ただ、今の私には、やるべきことがたくさんある」

「分かっています」

オスカーは、微笑んだ。

「私は、待っています。あなたが準備できるまで」

二人は、再び並んで歩き始めた。

沈黙が続いたが、それは心地よいものだった。

翌日、クラリッサの元に驚くべき知らせが届いた。

グレイソン侯爵領が、深刻な財政難に陥っているという。

イザベラの浪費が止まらず、領地経営も悪化している。債権者たちが、侯爵家に返済を迫っているとのことだった。

「まあ」

クラリッサは、手紙を読んで複雑な表情を浮かべた。

「お嬢様、どうなさいますか」

ヘンリーが、尋ねた。

「何もしないわ」

クラリッサは、きっぱりと答えた。

「それは、彼らの問題よ」

「でも、もし助けを求めてきたら?」

「その時は、考えるわ」

クラリッサは、手紙をしまった。

「でも、特別扱いはしない。他の領地と同じように、対価を求める」

その週末、クラリッサは村の祭りに参加した。

収穫祭だ。

村人たちは、豊かな収穫を祝っていた。今年の収量は、去年をさらに上回った。

「お嬢様のおかげです」

村長のトーマスが、演台の上で宣言した。

「私たちの村は、王国で最も豊かになりました」

村人たちから、歓声が上がった。

クラリッサは、その光景を見ながら思った。

これが、本当の成功だ。

地位でも、財産でもない。

人々の笑顔。それこそが、最大の報酬だった。

夜、焚き火を囲んで人々が踊っている。

オスカーが、クラリッサに手を差し伸べた。

「踊りませんか」

「ええ」

二人は、輪の中に入った。

音楽に合わせて、踊る。

オスカーの手は、温かかった。

クラリッサは、ふと思った。

もしかしたら、自分の答えは既に決まっているのかもしれない。

ただ、それを認める勇気が、まだないだけなのかもしれない。

「オスカー」

「はい」

「もう少しだけ、待っていて」

クラリッサは、小さく呟いた。

「もちろんです」

オスカーは、優しく微笑んだ。

二人は、星空の下で踊り続けた。

幸せな夜だった。

そして、クラリッサは確信していた。

これから、もっと素晴らしい未来が待っている。

過去の痛みは、全て意味があった。

あの絶望があったからこそ、今の幸せがある。

ロベルトへの復讐など、もう遠い昔の夢だった。

今の彼女には、もっと大切なものがあった。

愛する領地。信頼できる仲間。そして、新しい可能性。

クラリッサの物語は、まだ続く。

もっと輝かしい、もっと美しい未来へと。
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