婚約破棄された私が辺境で薬師になったら、元婚約者が後悔し始めました

たくわん

文字の大きさ
1 / 20

1

しおりを挟む

 春の陽光が窓から差し込む図書室で、リディア・フォルテは分厚い医学書に目を落としていた。ページをめくる音だけが静寂を破る。十八歳になった彼女の顔は青白く、華奢な体つきは貴族の令嬢というより修道女のようだった。

 フォルテ侯爵家の長女として生まれたリディアは、物心ついた頃から病弱だった。些細な風邪でも高熱を出し、冬になれば必ず床に伏す。社交界のデビューも延期され続け、華やかな舞踏会とは無縁の人生を送ってきた。

 だが、リディアは不幸だとは思っていなかった。病床で過ごす時間が多かったからこそ、この図書室で膨大な知識を得ることができた。特に医学書と薬学書は彼女の心を捉えて離さなかった。自分の病を治したいという願いが、いつしか純粋な学問への情熱へと変わっていった。

 リディアは十五歳の頃から、屋敷の裏手にある薬草園で密かに実験を始めていた。古い文献に書かれた薬の調合法を試し、改良を重ねた。失敗も多かったが、成功した時の喜びは何物にも代えがたかった。

「お嬢様、アーサー様がお見えです」

 侍女のマルタが扉を開けて告げた。五十を過ぎた彼女は、リディアが生まれた時から仕えている。

「分かったわ。すぐに参ります」

 リディアは医学書を閉じ、立ち上がった。軽いめまいがしたが、表情には出さない。婚約者のアーサー・ランベール侯爵は、月に一度、形式的に訪問してくる。彼との婚約は十二歳の時に決まったが、リディアが病弱なため正式な発表は延期され続けていた。

 応接室に入ると、アーサーはソファに座り、退屈そうに窓の外を眺めていた。二十二歳の彼は整った顔立ちで、社交界でも人気が高い。金色の髪と青い瞳は、いかにも貴族らしい気品を漂わせていた。

「お待たせいたしました、アーサー様」

「ああ、リディア。相変わらず本を読んでいたのか」

 アーサーの声には、かすかな非難の色が混じっていた。リディアが社交界に出ないことを、彼は快く思っていない。侯爵夫人となる者が、社交術を身につけていないのは問題だと考えているのだ。

「はい。医学書を読んでおりました」

「医学書? そんなものを読んで何になる。女性が学ぶべきは、ピアノや刺繍、社交のマナーだろう」

 リディアは黙って微笑んだ。反論しても無駄だと分かっている。アーサーは、彼女の学問への情熱を理解したことは一度もなかった。

「ところで、リディア。今月末の舞踏会には出席できるのか」

「申し訳ございません。まだ体調が優れず...」

「またか」

 アーサーはため息をついた。その表情には、明らかな失望が浮かんでいた。

「僕も立場がある。婚約者が一度も社交界に姿を現さないというのは、体裁が悪いんだ」

「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」

 リディアは頭を下げた。心のどこかで、この婚約が間違いだと感じていた。アーサーは彼女を愛していない。彼が求めているのは、社交界で輝く美しい妻であり、病弱な学者肌の女性ではない。

 アーサーは短い訪問を終えると、そそくさと帰っていった。彼の後ろ姿を見送りながら、リディアは胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。

 その夜、リディアは薬草園で月光を浴びながら薬草の手入れをしていた。夜の冷気は体に悪いと分かっていたが、ここにいると心が落ち着いた。土に触れ、植物の生命力を感じることが、彼女にとっての癒しだった。

「お嬢様、お風邪を召しますよ」

 マルタが毛布を持って現れた。リディアの肩に掛けながら、老婆は優しく言った。

「アーサー様のことですか」

「...ええ」

「あの方は、お嬢様の本当の価値が分かっていらっしゃらない」

「私に価値なんてあるのかしら、マルタ」

「ございますとも」

 マルタは断言した。

「お嬢様が作られた咳止めの薬、私の古傷の痛み止め、村の子供たちの熱さまし。どれも医師が匙を投げたものを、お嬢様は治してこられました」

「でも、それは表に出せない才能よ。貴族の令嬢が薬師のようなことをしているなんて知れたら、家の恥だと言われるわ」

「お嬢様の才能を認めない方が恥だと、この老いぼれは思いますがね」

 マルタの言葉に、リディアは小さく笑った。せめて一人だけでも、自分を理解してくれる人がいる。それだけで救われる思いだった。

 しかし、リディアの穏やかな日々は、数日後に突然終わりを告げることになる。アーサーから、緊急で会いたいという使いが来たのだ。

 夜の応接室で、アーサーは立ったまま彼女を待っていた。その表情は硬く、これまで見たことのない真剣さを帯びていた。

「リディア、単刀直入に言う」

 アーサーは深呼吸をして、言葉を続けた。

「婚約を破棄させてもらいたい」

 リディアの心臓が一瞬止まったような気がした。予感はしていた。それでも、実際に言葉にされると、衝撃は大きかった。

「...理由をお聞かせ願えますか」

「君は病弱で、子供を産むことも難しいだろう。侯爵夫人として社交界で活動することもできない。はっきり言って、僕の妻としては不適格だ」

 アーサーの言葉は容赦なかった。リディアは唇を噛んだ。

「それに、僕には愛する人ができた」

「...どなたですか」

「シャーロット・ブルーメ嬢だ。君も名前くらいは聞いたことがあるだろう。社交界の花と呼ばれている女性だ」

 リディアは知っていた。シャーロットは美しく、社交的で、貴族社会で完璧な評判を得ている。自分とは正反対の女性だった。

「分かりました。婚約破棄、承諾いたします」

 リディアの声は驚くほど冷静だった。アーサーは少し戸惑った表情を見せた。もっと泣いたり、懇願したりすると思っていたのだろう。

「そうか。分かってくれて助かる」

 アーサーは安堵の表情を浮かべた。

「正式な手続きは後日、両家で行う。では、失礼する」

 彼が去った後、リディアは一人、暗い応接室に座り続けた。涙は出なかった。悲しみよりも、不思議な解放感が胸を満たしていた。

 間違った場所に無理やり押し込められていた自分が、ようやく自由になったような気がした。

 翌日、父のエドワード・フォルテ侯爵に呼び出された。書斎で険しい顔をした父が待っていた。

「リディア、お前のせいで家の恥だ。ランベール家との婚約が破棄されるなど、前代未聞だ」

「申し訳ございません、父上」

「謝って済む問題ではない。お前はこの家にいても無用の長物だ。辺境に小さな領地がある。ローゼンタールという寒村だ。そこを与えるから、静かに暮らせ」

 実質的な追放だった。リディアは静かに頭を下げた。

「かしこまりました」

「一週間後に出発しろ。それまでに準備をしておけ」

 書斎を出ると、廊下でマルタが待っていた。すべてを聞いていたのだろう、老婆の目には涙が浮かんでいた。

「お嬢様...」

「大丈夫よ、マルタ。ついて来てくれる?」

「当然でございます。お嬢様が地の果てへ行かれようと、このマルタは一緒に参ります」

 リディアは初めて、本当の意味で微笑んだ。辺境への追放。多くの者にとっては不幸だろう。しかし彼女にとっては、新しい人生の始まりに思えた。

 社交界の窮屈なしがらみから解放され、自由に薬学を研究できる。病弱だと蔑まれることもなく、自分の才能を存分に発揮できる場所。

 一週間の準備期間、リディアは図書室から医学書と薬学書を選び、密かに持ち出した。薬草の種も集めた。そして、旅立ちの朝が来た。

 屋敷の門の前で、見送りに来たのはマルタと、若い侍女のエマ、そして無口な護衛騎士ガレスだけだった。三人とも、リディアと共に辺境へ行くことを志願してくれた。

 馬車に乗り込む前、リディアは生まれ育った屋敷を振り返った。父も母も兄弟も、誰も姿を見せなかった。

「行きましょう」

 リディアは前を向いた。馬車が動き出す。王都が遠ざかっていく。

 マルタが心配そうに声をかけた。

「お嬢様、本当に大丈夫ですか」

「ええ。むしろ楽しみなの」

 リディアは本心から言った。

「私、ずっと誰かの期待に応えようとしてきたわ。でも、これからは自分のために生きられる。辺境で私の診療所を開くの。病気で苦しむ人々を助けて、薬学を究めたい」

「素敵でございますね」

 若いエマが目を輝かせた。

「私もお手伝いさせてください。お嬢様から薬学を教えていただきたいんです」

「もちろんよ、エマ」

 馬車は王都を離れ、辺境へと向かう道を進んでいく。リディアは窓の外に広がる景色を見つめた。

 病弱で役立たずと言われた令嬢。婚約を破棄された恥さらし。追放された不要な娘。

 世間は自分をそう呼ぶだろう。しかし、リディアは知っていた。自分には誰も気づいていない才能がある。それを証明する時が来たのだ。

「見ていなさい」

 リディアは小さく呟いた。

「私がどれだけの価値を持っているか、いつか必ず思い知らせてあげる」

 馬車は春の陽光を浴びながら、新しい未来へと走り続けた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私より幼馴染を選んだ婚約者に別れを告げたら謝罪に来ましたが、契約を守れない貴族とは取引しませんので

藤原遊
恋愛
祖父が創立した大商会で、跡継ぎとして働いている私。 けれど婚約者は、私より幼馴染を選びました。 それなら構いません。 婚約という契約を守れない相手と、これ以上関係を続けるつもりはありませんから。 祖父の商会は隣国と新たな取引を始めることになりました。 ――その途端、なぜか元婚約者が謝罪に来るようになりましたが、もう遅いです。

はじめまして、私の知らない婚約者様

有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。 見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。 けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。 ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。 けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。 この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。 悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに? ※他サイトにも掲載しています。

「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」と言われたので別れたのですが、呪われた上に子供まで出来てて一大事です!?

綾織季蝶
恋愛
「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」そう告げられたのは孤児から魔法省の自然管理科の大臣にまで上り詰めたカナリア・スタインベック。 相手はとある貴族のご令嬢。 確かに公爵の彼とは釣り合うだろう、そう諦めきった心で承諾してしまう。 別れる際に大臣も辞め、実家の誰も寄り付かない禁断の森に身を潜めたが…。 何故か呪われた上に子供まで出来てしまった事が発覚して…!?

子供のままの婚約者が子供を作ったようです

夏見颯一
恋愛
公爵令嬢であるヒルダの婚約者であるエリックは、ヒルダに嫌がらせばかりしている。 嫌がらせには悪意しか感じられないのだが、年下のヒルダの方がずっと我慢を強いられていた。 「エリックは子供だから」 成人済みのエリックに、ヒルダの両親もエリックの両親もとても甘かった。 昔からエリックのやんちゃな所が親達には微笑ましかったらしい。 でも、エリックは成人済みです。 いつまで子供扱いするつもりですか? 一方の私は嫌がらせで寒い中長時間待たされたり、ご飯を食べられなかったり……。 本当にどうしたものかと悩ませていると友人が、 「あいつはきっと何かやらかすだろうね」 その言葉を胸に、私が我慢し続けた結果。 「子供が出来たんだ」 エリックは勘違いをしていた。 自分は何でも許されていると思い込んでいたエリックは、婿入り予定でありながら別の女性と子供を作ってしまう。 それによりエリック中心だった世界は崩壊し、ヒルダは本来の公爵令嬢としての生活を取り戻していく。 ただ、エリックの過ちは仕組まれたものだった。 エリック自身とエリックを嵌めた者達を繋ぐ糸は、複雑に別のものと絡まり合いながら、ヒルダを翻弄する。 非常識な婚約者に悩まされていたヒルダが、結婚をするまでの物語。 ※体調の関係もあり、更新時間がかなり時間が不定期です。 相当なクズ親が出てきます。ご注意下さい。

白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』

鍛高譚
恋愛
白い結婚の末、「白い結婚」の末、私は冷遇され、夫は愛人を溺愛していた――ならば、もう要らないわ」 公爵令嬢 ジェニファー・ランカスター は、王弟 エドワード・クラレンス公爵 のもとへ政略結婚として嫁ぐ。 だが、その結婚生活は冷たく空虚なものだった。夫は愛人 ローザ・フィッツジェラルド に夢中になり、公爵夫人であるジェニファーは侮辱され、無視され続ける日々。 ――それでも、貴族の娘は耐えなければならないの? 何の愛もなく、ただ飾り物として扱われる結婚に見切りをつけたジェニファーは 「離婚」 を決意する。 しかし、王弟であるエドワードとの離婚は容易ではない。実家のランカスター家は猛反対し、王宮の重臣たちも彼女の決断を 「公爵家の恥」 と揶揄する。 それでも、ジェニファーは負けない。弁護士と協力し、着々と準備を進めていく。 そんな折、彼女は北方の大国 ヴォルフ公国の大公、アレクサンダー・ヴォルフ と出会う。 温かく誠実な彼との交流を通じて、ジェニファーは 「本当に大切にされること」 を知る。 そして、彼女の決断は、王都の社交界に大きな波紋を呼ぶこととなる――。 「公爵夫人を手放したことを、いつか後悔しても遅いわ」 「私はもう、あなたたちの飾り人形じゃない」 離婚を巡る策略、愛人の凋落、元夫の後悔――。 そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。

救国の代償で白髪になった聖女、一度のミスを理由に「無能の戦犯」として追放される ~隣国の覇王に拾われ、愛され、奇跡の力を見せつける~

スカッと文庫
ファンタジー
聖女アリシアは、百年に一度の大氾濫から国を守るため、禁忌の魔力全解放を行い、単身で数万の魔物を殲滅した。その代償として、彼女の美しい金髪は真っ白な「白雪色」に染まり、魔力は一時的に枯渇してしまう。 しかし、その功績はすべて現場にいなかった「偽聖女セシリア」に奪われ、アリシアは「結界を一部損壊させた戦犯」「魔力を失った役立たず」として、婚約者の王太子ギルバートから国外追放を言い渡される。 「失敗したゴミに、この国の空気は吸わせない」 泥の中に捨てられたアリシア。しかし、彼女を拾ったのは、敵対国として恐れられていた帝国の「武徳皇帝」ラグナールだった。彼はアリシアの白髪が「高純度の神聖魔力による変質」であることを瞬時に見抜き、彼女を帝国の宝として迎える。 数ヶ月後。アリシアが帝国の守護聖女として輝きを取り戻した頃、王国では「一度きりの奇跡」だったセシリアの魔力が尽き、本当の滅亡が始まっていた。 「今さら結界が解けたと泣きつかれても、もう私の魔力は一滴も残っていません」

婚約破棄された人たらし悪役令嬢ですが、 最強で過保護な兄たちと義姉に溺愛されています

由香
ファンタジー
婚約破棄のその日、 悪役令嬢リリアーナは――弁明すら、しなかった。 王太子と“聖女”に断罪され、すべてを失った彼女。 だがその裏で、王国最強と名高い三人の兄と、 冷静沈着な義姉が、静かに動き始めていた。 再検証によって暴かれる“聖女の嘘”。 広場で語られる真実。 そして、無自覚に人を惹きつけてしまう リリアーナの優しさが、次々と味方を増やしていく――。 これは、 悪役令嬢として断罪された少女が、 「誰かの物語の脇役」ではなく、 自分自身の人生を取り戻す物語。 過保護すぎる兄たちと義姉に溺愛されながら、 彼女は静かに、そして確実に幸せへ向かっていく。

「地味な婚約者を捨てて令嬢と結婚します」と言った騎士様が、3ヶ月で離婚されて路頭に迷っている

歩人
ファンタジー
薬師のナターリアは婚約者の騎士ルドガーに「地味なお前より伯爵令嬢が ふさわしい」と捨てられた。泣きはしなかった。ただ、明日から届ける薬が 一人分減るな、と思っただけ。 ルドガーは華やかな伯爵令嬢イレーネと結婚し、騎士団で出世する——はずだった。 しかしイレーネの実家は見栄だけの火の車。持参金は消え、借金取りが押し寄せ、 イレーネ本人にも「稼ぎが少ない」と三行半を突きつけられた。 3ヶ月で全てを失ったルドガーが街角で見たのは、王宮薬師に抜擢された ナターリアが、騎士団長と笑い合う姿だった。 「なあ、ナターリア……俺が間違っていた」 「ええ、知ってます。でも、もう関係のない話ですね」

処理中です...