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しおりを挟む春の陽光が窓から差し込む図書室で、リディア・フォルテは分厚い医学書に目を落としていた。ページをめくる音だけが静寂を破る。十八歳になった彼女の顔は青白く、華奢な体つきは貴族の令嬢というより修道女のようだった。
フォルテ侯爵家の長女として生まれたリディアは、物心ついた頃から病弱だった。些細な風邪でも高熱を出し、冬になれば必ず床に伏す。社交界のデビューも延期され続け、華やかな舞踏会とは無縁の人生を送ってきた。
だが、リディアは不幸だとは思っていなかった。病床で過ごす時間が多かったからこそ、この図書室で膨大な知識を得ることができた。特に医学書と薬学書は彼女の心を捉えて離さなかった。自分の病を治したいという願いが、いつしか純粋な学問への情熱へと変わっていった。
リディアは十五歳の頃から、屋敷の裏手にある薬草園で密かに実験を始めていた。古い文献に書かれた薬の調合法を試し、改良を重ねた。失敗も多かったが、成功した時の喜びは何物にも代えがたかった。
「お嬢様、アーサー様がお見えです」
侍女のマルタが扉を開けて告げた。五十を過ぎた彼女は、リディアが生まれた時から仕えている。
「分かったわ。すぐに参ります」
リディアは医学書を閉じ、立ち上がった。軽いめまいがしたが、表情には出さない。婚約者のアーサー・ランベール侯爵は、月に一度、形式的に訪問してくる。彼との婚約は十二歳の時に決まったが、リディアが病弱なため正式な発表は延期され続けていた。
応接室に入ると、アーサーはソファに座り、退屈そうに窓の外を眺めていた。二十二歳の彼は整った顔立ちで、社交界でも人気が高い。金色の髪と青い瞳は、いかにも貴族らしい気品を漂わせていた。
「お待たせいたしました、アーサー様」
「ああ、リディア。相変わらず本を読んでいたのか」
アーサーの声には、かすかな非難の色が混じっていた。リディアが社交界に出ないことを、彼は快く思っていない。侯爵夫人となる者が、社交術を身につけていないのは問題だと考えているのだ。
「はい。医学書を読んでおりました」
「医学書? そんなものを読んで何になる。女性が学ぶべきは、ピアノや刺繍、社交のマナーだろう」
リディアは黙って微笑んだ。反論しても無駄だと分かっている。アーサーは、彼女の学問への情熱を理解したことは一度もなかった。
「ところで、リディア。今月末の舞踏会には出席できるのか」
「申し訳ございません。まだ体調が優れず...」
「またか」
アーサーはため息をついた。その表情には、明らかな失望が浮かんでいた。
「僕も立場がある。婚約者が一度も社交界に姿を現さないというのは、体裁が悪いんだ」
「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
リディアは頭を下げた。心のどこかで、この婚約が間違いだと感じていた。アーサーは彼女を愛していない。彼が求めているのは、社交界で輝く美しい妻であり、病弱な学者肌の女性ではない。
アーサーは短い訪問を終えると、そそくさと帰っていった。彼の後ろ姿を見送りながら、リディアは胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。
その夜、リディアは薬草園で月光を浴びながら薬草の手入れをしていた。夜の冷気は体に悪いと分かっていたが、ここにいると心が落ち着いた。土に触れ、植物の生命力を感じることが、彼女にとっての癒しだった。
「お嬢様、お風邪を召しますよ」
マルタが毛布を持って現れた。リディアの肩に掛けながら、老婆は優しく言った。
「アーサー様のことですか」
「...ええ」
「あの方は、お嬢様の本当の価値が分かっていらっしゃらない」
「私に価値なんてあるのかしら、マルタ」
「ございますとも」
マルタは断言した。
「お嬢様が作られた咳止めの薬、私の古傷の痛み止め、村の子供たちの熱さまし。どれも医師が匙を投げたものを、お嬢様は治してこられました」
「でも、それは表に出せない才能よ。貴族の令嬢が薬師のようなことをしているなんて知れたら、家の恥だと言われるわ」
「お嬢様の才能を認めない方が恥だと、この老いぼれは思いますがね」
マルタの言葉に、リディアは小さく笑った。せめて一人だけでも、自分を理解してくれる人がいる。それだけで救われる思いだった。
しかし、リディアの穏やかな日々は、数日後に突然終わりを告げることになる。アーサーから、緊急で会いたいという使いが来たのだ。
夜の応接室で、アーサーは立ったまま彼女を待っていた。その表情は硬く、これまで見たことのない真剣さを帯びていた。
「リディア、単刀直入に言う」
アーサーは深呼吸をして、言葉を続けた。
「婚約を破棄させてもらいたい」
リディアの心臓が一瞬止まったような気がした。予感はしていた。それでも、実際に言葉にされると、衝撃は大きかった。
「...理由をお聞かせ願えますか」
「君は病弱で、子供を産むことも難しいだろう。侯爵夫人として社交界で活動することもできない。はっきり言って、僕の妻としては不適格だ」
アーサーの言葉は容赦なかった。リディアは唇を噛んだ。
「それに、僕には愛する人ができた」
「...どなたですか」
「シャーロット・ブルーメ嬢だ。君も名前くらいは聞いたことがあるだろう。社交界の花と呼ばれている女性だ」
リディアは知っていた。シャーロットは美しく、社交的で、貴族社会で完璧な評判を得ている。自分とは正反対の女性だった。
「分かりました。婚約破棄、承諾いたします」
リディアの声は驚くほど冷静だった。アーサーは少し戸惑った表情を見せた。もっと泣いたり、懇願したりすると思っていたのだろう。
「そうか。分かってくれて助かる」
アーサーは安堵の表情を浮かべた。
「正式な手続きは後日、両家で行う。では、失礼する」
彼が去った後、リディアは一人、暗い応接室に座り続けた。涙は出なかった。悲しみよりも、不思議な解放感が胸を満たしていた。
間違った場所に無理やり押し込められていた自分が、ようやく自由になったような気がした。
翌日、父のエドワード・フォルテ侯爵に呼び出された。書斎で険しい顔をした父が待っていた。
「リディア、お前のせいで家の恥だ。ランベール家との婚約が破棄されるなど、前代未聞だ」
「申し訳ございません、父上」
「謝って済む問題ではない。お前はこの家にいても無用の長物だ。辺境に小さな領地がある。ローゼンタールという寒村だ。そこを与えるから、静かに暮らせ」
実質的な追放だった。リディアは静かに頭を下げた。
「かしこまりました」
「一週間後に出発しろ。それまでに準備をしておけ」
書斎を出ると、廊下でマルタが待っていた。すべてを聞いていたのだろう、老婆の目には涙が浮かんでいた。
「お嬢様...」
「大丈夫よ、マルタ。ついて来てくれる?」
「当然でございます。お嬢様が地の果てへ行かれようと、このマルタは一緒に参ります」
リディアは初めて、本当の意味で微笑んだ。辺境への追放。多くの者にとっては不幸だろう。しかし彼女にとっては、新しい人生の始まりに思えた。
社交界の窮屈なしがらみから解放され、自由に薬学を研究できる。病弱だと蔑まれることもなく、自分の才能を存分に発揮できる場所。
一週間の準備期間、リディアは図書室から医学書と薬学書を選び、密かに持ち出した。薬草の種も集めた。そして、旅立ちの朝が来た。
屋敷の門の前で、見送りに来たのはマルタと、若い侍女のエマ、そして無口な護衛騎士ガレスだけだった。三人とも、リディアと共に辺境へ行くことを志願してくれた。
馬車に乗り込む前、リディアは生まれ育った屋敷を振り返った。父も母も兄弟も、誰も姿を見せなかった。
「行きましょう」
リディアは前を向いた。馬車が動き出す。王都が遠ざかっていく。
マルタが心配そうに声をかけた。
「お嬢様、本当に大丈夫ですか」
「ええ。むしろ楽しみなの」
リディアは本心から言った。
「私、ずっと誰かの期待に応えようとしてきたわ。でも、これからは自分のために生きられる。辺境で私の診療所を開くの。病気で苦しむ人々を助けて、薬学を究めたい」
「素敵でございますね」
若いエマが目を輝かせた。
「私もお手伝いさせてください。お嬢様から薬学を教えていただきたいんです」
「もちろんよ、エマ」
馬車は王都を離れ、辺境へと向かう道を進んでいく。リディアは窓の外に広がる景色を見つめた。
病弱で役立たずと言われた令嬢。婚約を破棄された恥さらし。追放された不要な娘。
世間は自分をそう呼ぶだろう。しかし、リディアは知っていた。自分には誰も気づいていない才能がある。それを証明する時が来たのだ。
「見ていなさい」
リディアは小さく呟いた。
「私がどれだけの価値を持っているか、いつか必ず思い知らせてあげる」
馬車は春の陽光を浴びながら、新しい未来へと走り続けた。
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