婚約破棄された私が辺境で薬師になったら、元婚約者が後悔し始めました

たくわん

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辺境への旅は三日間続いた。王都から離れるほど、道は荒れ、景色も殺風景になっていく。華やかな街並みは消え、広大な荒野と疎らな森が広がるばかりだった。

 馬車の中で、リディアは医学書を読み続けた。辺境での生活に備え、特に外傷の治療や感染症についての知識を再確認していた。都会の贅沢な医療設備はない。限られた資源で最大限の治療効果を上げる必要がある。

「お嬢様、まもなくローゼンタールに到着するようです」

 御者台から護衛騎士のガレスが声をかけた。四十代の彼は無口だが、実直で信頼できる男だった。かつて戦場で重傷を負い、リディアの調合した薬で一命を取り留めたことがある。その恩義から、彼女に付き従うことを選んだ。

 馬車が止まり、リディアは外に降り立った。目の前に広がるのは、想像以上に小さな村だった。粗末な家屋が二十軒ほど、まばらに点在している。村人たちは馬車を遠巻きに眺めているが、誰も近づいてこない。

 村の奥に、少し大きな建物が見えた。それが領主館らしい。だが、屋根は一部崩れ、壁には亀裂が走っている。長年放置されていたことが一目で分かった。

「これは...」

 マルタが絶句した。エマは不安そうにリディアを見上げる。

「大丈夫よ。修繕すれば住めるようになるわ」

 リディアは努めて明るく言った。内心では驚いていたが、ここで弱気を見せるわけにはいかない。

 村人の一人、白髪の老人がゆっくりと近づいてきた。腰は曲がり、杖をついている。

「あんたが新しい領主様かい」

「はい。リディア・フォルテと申します。至らぬ点も多いでしょうが、どうぞよろしくお願いいたします」

 リディアは丁寧に頭を下げた。老人は驚いた表情を浮かべた。貴族が平民に頭を下げるなど、前代未聞だったのだろう。

「わしは村長のハンスじゃ。まあ、村長といっても、この小さな村では名ばかりだがな」

「ハンス様、この村の状況を教えていただけますか」

「状況も何も、見ての通りじゃよ。人口は三百人ほど。みな貧しい。土地は痩せていて、作物もろくに育たん。冬は厳しく、毎年何人かが寒さと飢えで死ぬ」

 ハンスの言葉は淡々としていたが、その中に深い諦めがあった。

「医師はいますか」

「いるわけがない。こんな辺鄙な場所に来る医者なんぞおらんよ。病気になったら、村の婆さんが作る怪しげな薬草茶を飲むだけじゃ。効かんことの方が多いがな」

 リディアの胸に希望の灯が灯った。ここには医師がいない。つまり、自分の知識が必要とされる場所なのだ。

「分かりました。まずは領主館を整備してから、改めてご相談させてください」

「好きにすればいい。期待はしておらんがな」

 ハンスはそう言い残して去っていった。他の村人たちも、興味を失ったように散っていく。

 リディアたちは領主館に入った。内部も外観同様に荒れ果てていた。埃が積もり、家具は壊れ、窓ガラスは割れている。

「お嬢様、まずは掃除からですね」

 マルタが袖をまくった。エマも黙って箒を手に取る。ガレスは壊れた家具を外に運び出し始めた。

 リディアも一緒に働いた。貴族の令嬢が掃除をするなど、かつての生活では考えられなかったが、今は違う。ここでは誰も彼女を特別扱いしない。それが心地よかった。

 夕暮れまでかかって、何とか寝室と居間を使える状態にした。簡素な夕食を終え、リディアは一人で館の外に出た。

 村を見下ろす小高い丘に登ると、夕日が地平線に沈んでいくのが見えた。赤く染まった空は美しかったが、村の家々からは不安と疲労の気配が漂ってくるようだった。

「ここから始めるのね」

 リディアは呟いた。婚約破棄されて追放された令嬢。誰も期待していない。誰も助けてくれない。しかし、それでいい。

 自分の力だけで、この村を、そして自分自身を変えてみせる。

 翌朝、リディアは村を歩き回った。村人たちの生活を観察し、どんな問題があるのか把握するためだ。

 井戸の水を汲む女性たち、畑を耕す男性たち、道端で遊ぶ子供たち。みな痩せており、服は継ぎはぎだらけだった。

 ある家の前を通りかかった時、中から激しい咳き込む音が聞こえた。リディアは足を止めた。

「お嬢様、どうなさいました」

 後ろからついてきていたエマが尋ねた。

「あの家の中に、病人がいるわ」

 リディアは躊躇せず、戸を叩いた。しばらくして、疲れた顔の若い女性が出てきた。

「はい...あ、領主様」

 女性は驚いて頭を下げようとしたが、リディアは手で制した。

「大丈夫です。その必要はありません。中から咳の音が聞こえましたが、どなたか病気の方がいらっしゃいますか」

「娘が...もう三週間も咳が止まらないんです」

 女性の目に涙が浮かんだ。

「診させていただいてもよろしいですか」

「えっ、でも領主様が...」

「私は医学の心得があります。もしかしたらお役に立てるかもしれません」

 女性は迷った後、家の中に案内してくれた。薄暗い部屋の隅に、小さな布団が敷かれていた。そこに七歳くらいの少女が横たわっている。顔は青白く、呼吸のたびに胸が大きく上下していた。

 リディアは少女の傍らに膝をついた。額に手を当てる。微熱がある。次に胸の音を聞くために、耳を近づけた。

「ヒューヒューと音がしますね。気管支に炎症があるようです」

「村の婆さんの薬草茶を飲ませたんですが、全然効かなくて...」

 母親は泣きそうになりながら言った。

「大丈夫です。私が薬を作ります。必ず治してみせます」

 リディアは母親の手を握った。その確信に満ちた声に、母親は驚いたように目を見開いた。

 領主館に戻ると、リディアはすぐに薬の調合を始めた。持参した薬草の中から、気管支炎に効果のあるものを選び出す。タイム、ユーカリ、リコリス。それらを正確な比率で混ぜ合わせ、煎じ薬を作る。

「お嬢様、医学書で読んだだけで、本当に薬が作れるんですか」

 エマが不安そうに尋ねた。

「読んだだけじゃないわ。王都にいた時、密かに何年も実験を重ねてきたの。この薬も、試作を十回以上繰り返して完成させたものよ」

 リディアの手は迷いなく動いた。薬草を刻み、煮出し、濾過する。やがて琥珀色の液体が完成した。

「これを朝晩飲ませれば、一週間で治るはずよ」

 リディアは薬を瓶に入れ、少女の家に届けに行った。母親に飲ませ方を丁寧に説明する。

「本当にありがとうございます。でも、お代が...」

「今はいりません。娘さんが元気になってからでいいです」

 母親は涙を流して何度も頭を下げた。

 それから毎日、リディアは少女の様子を見に行った。三日目には咳の回数が減り、五日目には熱が下がった。そして一週間後、少女は笑顔で起き上がることができた。

「ありがとうございました、領主様。娘が...娘が元気になりました」

 母親は泣きながら感謝を述べた。少女も、まだ弱々しいながらも、リディアに抱きついてきた。

「よかったわ。でもまだ完全には治っていないから、もう一週間は薬を飲み続けてね」

 リディアは優しく少女の頭を撫でた。

 この出来事は、すぐに村中に広まった。領主館を訪れる村人が徐々に増えていった。最初は様子見だった者たちも、実際に病気が治る姿を見て、リディアを信じ始めた。

 ある日、村長のハンスが領主館を訪れた。

「領主様、わしの古傷が痛むんじゃが、何とかならんかのう」

「どのような傷ですか」

「十年前、畑仕事中に鎌で足を深く切ってしもうた。治ったと思ったんじゃが、雨の日や寒い日には激しく痛むんじゃ」

 リディアは傷跡を診た。治癒は不完全で、神経が損傷している可能性があった。

「痛み止めの軟膏を作ります。それと、毎日温湿布をしてください。完全には治らないかもしれませんが、痛みは和らぐはずです」

 一週間後、ハンスは驚いた顔で再び訪れた。

「痛みが半分以下になった。長年苦しんできたのに、こんなに簡単に...」

「よかったです。続けて治療すれば、さらに改善するでしょう」

 ハンスは深々と頭を下げた。

「わし、領主様を見くびっておりました。あんたは本物の医者じゃ」

「いえ、私はまだ勉強中の身です」

「謙遜はいらん。あんたのような方がこの村に来てくれたのは、神の恵みじゃよ」

 村人たちの態度が明らかに変わった。最初は疑いの目で見ていた者たちも、今は敬意を持って接してくれる。道で会えば挨拶をしてくれるし、野菜や卵を領主館に届けてくれる者もいた。

 リディアは領主館の一室を診療室に改装することを決めた。簡単な診察台を作り、薬草を保管する棚を設置する。村人たちも手伝ってくれた。

「お嬢様、この村の方々は優しいですね」

 エマが嬉しそうに言った。彼女は最近、リディアから薬学の基礎を学び始めていた。薬草の見分け方、基本的な調合法。エマは熱心に学び、飲み込みも早かった。

「ええ。最初は警戒されていたけれど、誠意が伝わったのね」

 リディアは満足そうに頷いた。

 ある夕方、診療を終えて丘に登ると、村の様子が以前とは違って見えた。家々からは夕餉の煙が上がり、子供たちの元気な声が聞こえる。

「ここが私の居場所なのかもしれない」

 リディアは呟いた。王都での華やかな生活。婚約者との形だけの関係。あれらは全て、本当の自分ではなかった。

 ここで、病に苦しむ人々を救い、薬学を究める。それが自分の使命なのだと、リディアは確信した。

 その夜、マルタが部屋に入ってきた。手に一通の手紙を持っている。

「お嬢様、王都から手紙が届きました」

「王都から?」

 リディアは封を切った。差出人の名前を見て、わずかに眉をひそめた。アーサー・ランベール侯爵からだった。

 手紙には、婚約破棄の正式な手続きが完了したこと、そして来月、彼とシャーロット嬢の婚約が正式に発表されることが書かれていた。最後に、短い一文があった。

「新しい生活がうまくいくことを願っている」

 リディアは手紙を静かに折りたたんだ。胸に痛みはなかった。むしろ、完全に過去と決別できたという解放感があった。

「お嬢様、大丈夫ですか」

「ええ、大丈夫よ。むしろ、すっきりしたわ」

 リディアは窓の外を見た。月明かりに照らされた村は、静かに眠っている。

「私の新しい人生は、ここから始まるのよ。アーサーには感謝しているわ。あの人が婚約を破棄してくれなければ、私は一生、偽りの自分として生きていたかもしれない」

 マルタは優しく微笑んだ。

「お嬢様は強くなられました」

「まだまだよ。これからもっと強く、もっと賢くならなければ」

 リディアは決意を新たにした。いつか、自分を見捨てた者たちに、自分の真の価値を証明する日が来る。その日まで、ここで研鑽を積むのだ。

 翌朝、リディアは村の外れにある森を探索することにした。この辺りには、王都では手に入らない貴重な薬草が自生しているかもしれない。

 ガレスを護衛に、エマを助手に連れて森に入った。朝露に濡れた草木が、朝日を浴びて輝いている。

「お嬢様、これは何という植物ですか」

 エマが青い花をつけた草を指差した。

「それはモンクスフッド。綺麗だけど猛毒よ。触らないで」

「毒があるんですか」

「ええ。でも、適切に処理すれば、強力な鎮痛剤になるの。毒と薬は紙一重なのよ」

 リディアは慎重に手袋をはめて、モンクスフッドを採取した。他にも、止血効果のあるヤロウ、消炎作用のあるカモミール、様々な薬草を見つけた。

 森の奥に進むと、小さな泉があった。透明な水が湧き出ている。

「ここの水は綺麗ね。薬の調合に使えそう」

 リディアが水を掬おうとした時、近くの茂みがガサガサと音を立てた。ガレスが剣に手をかける。

 茂みから出てきたのは、傷ついた鹿だった。後ろ足に深い傷があり、血を流している。鹿はリディアたちを見て、警戒しながらも動けないでいた。

「可哀想に...」

 リディアはゆっくりと近づいた。鹿は逃げようとしたが、傷のせいで動けない。

「大丈夫よ。助けてあげるから」

 リディアは持参していた応急処置用の薬と布を取り出した。鹿を落ち着かせながら、傷を洗浄し、止血薬を塗る。そして丁寧に包帯を巻いた。

 鹿は最初は暴れようとしたが、次第に大人しくなった。リディアの優しい手つきに、敵意がないことを理解したのだろう。

 治療が終わると、鹿はリディアの手を舐めた。それから、ゆっくりと森の奥へ消えていった。

「お嬢様は本当に優しいんですね」

 エマが感動したように言った。

「生き物の命は、人間も動物も同じように大切よ。医学を学ぶ者として、当然のことをしただけ」

 森から戻ると、診療室の前に数人の村人が待っていた。リディアの評判を聞きつけ、隣村からも患者が訪れるようになっていた。

 これから忙しくなるだろう。でも、それがリディアには嬉しかった。自分が必要とされている。自分の知識が人の役に立っている。

 かつて病弱で役立たずと言われた自分が、今は多くの人を救っている。

 リディアは診療室に入り、患者たちを迎え入れた。一人一人に丁寧に向き合い、最善の治療を施す。

 夕暮れ時、最後の患者を送り出した時、リディアは深い充足感に包まれた。

 これが自分の生きる道だ。ここで根を張り、花を咲かせる。そしていつか、自分を見捨てた者たちに、自分がいかに価値ある人間であるかを見せつけてやる。

 その日は、もうそれほど遠くないはずだ。
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