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街道を走る馬車の中で、エリアナは窓の外を眺めていた。王都を離れ、広大な平原が続く。麦畑が風に揺れ、遠くに山脈が見える。自由を感じると同時に、不安も湧き上がってくる。
本当にこれでよかったのだろうか。貴族としての地位を捨て、未知の世界へ飛び込む。失敗したら、全てを失う。
しかし、エリアナは決めたのだ。もう後戻りはしない。
メイベルは隣で、少し緊張した面持ちで座っている。彼女は二十歳で、エリアナより二歳年上。幼い頃からエリアナに仕えてきた、忠実な侍女だ。
「お嬢様、本当に大丈夫でしょうか」
「大丈夫よ。私たちなら、きっとやっていけるわ」
「でも、商売なんて、したことが……」
「私には、知識がある。それを活かせば、必ず成功する」
エリアナの声には、確信があった。前世の経営知識、この世界での経験。それらを組み合わせれば、商人として成功する自信がある。
旅は順調だった。最初の三日間は、何事もなく街道を進んだ。途中の村で食料を調達し、宿に泊まる。エリアナは、村人たちと話をしながら、この地域の経済状況を観察した。
農作物の価格、交易の流れ、物資の需要。全てがビジネスの材料だ。エリアナは、頭の中で情報を整理し、今後の計画を練っていく。
四日目の夕方、事件が起きた。
森の中を通る街道で、突然、数人の男たちが飛び出してきた。粗末な服を着て、武器を手にした盗賊だ。
「動くな! 荷物を全部置いていけ!」
御者は怯えて、手綱を引く。馬車が停止する。
エリアナは冷静に状況を判断した。盗賊は五人。武器はナイフと棍棒。組織的な盗賊団ではなく、おそらく貧しい村の男たちが小遣い稼ぎにやっているレベル。
「お嬢様、どうしましょう」
メイベルが震えながら囁く。
「大丈夫。私に任せて」
エリアナは馬車から降りた。盗賊たちは、貴族の令嬢が出てきたことに驚いている。
「お、お嬢さん、抵抗しなければ命は取らない。金目のものを全部出せ」
「待って。交渉しましょう」
「交渉だと?」
「あなたたちは、お金が欲しいんでしょう? なら、もっと良い方法がある」
盗賊たちは顔を見合わせる。
「私たちを無事にアルトゥーラまで護衛してくれたら、報酬を払うわ。今ここで奪うよりも、ずっと多い金額を」
「本当か?」
「ええ。私は商人になる者。約束は必ず守る」
エリアナの堂々とした態度に、盗賊たちは戸惑う。こんな交渉をする貴族など、見たことがない。
盗賊のリーダー格の男が、しばらく考え込んだ後、頷いた。
「わかった。だが、裏切ったら容赦しないぞ」
「もちろん」
しかし、交渉が成立した直後、さらに大きな問題が起きた。
森の奥から、別の集団が現れた。今度は、本格的な装備をした傭兵団のような男たちだ。十人以上いる。
「おや、獲物がいるじゃないか」
先頭に立つのは、背の高い、鋭い目つきの男だった。黒い髪に、傷だらけの顔。腰には立派な剣を差している。
「これは、俺たちの獲物だ!」
さっきの盗賊たちが叫ぶが、傭兵たちは笑う。
「お前らみたいな素人に、護衛ができるか。さっさと消えろ」
盗賊たちは、怯えて逃げ出してしまった。エリアナは内心で溜息をつく。やはり素人だった。
傭兵のリーダーが、エリアナに近づく。
「お嬢さん、災難だったな。この辺りは物騒でね。護衛なしで旅をするのは危険だ」
「あなたたちは、盗賊ではないのですか?」
「俺たちは傭兵だ。金をもらって、仕事をする。盗賊とは違う」
男の口調は、不思議と誠実さを感じさせた。
「ディアン・フォルテ。フォルテ傭兵団の団長だ」
「エリアナ・ヴァルトハイムです」
「ヴァルトハイム? 侯爵家の?」
「……もう関係ありません」
ディアンは、エリアナの表情から何かを察したようだった。
「なるほど。事情は聞かない。で、どこへ行くんだ?」
「アルトゥーラです」
「遠いな。護衛が必要だろう」
「報酬は払えます。適正な金額なら」
ディアンは、エリアナの目を見つめた。この女は、普通の貴族令嬢ではない。何か、強い意志を持っている。
「いいだろう。アルトゥーラまで、俺たちが護衛する。報酬は到着してからでいい」
「なぜ、そんな条件で?」
「気まぐれさ。それに、お前は面白そうだ」
エリアナは、この男が信用できるかどうか、瞬時に判断した。前世の経験から、人を見る目は養われている。ディアン・フォルテは、粗野だが誠実な男だと感じた。
「では、お願いします」
「任せておけ」
その夜は、森の中で野営することになった。傭兵たちは手際よくテントを張り、焚き火を起こす。エリアナとメイベルには、小さなテントが用意された。
夕食は、傭兵たちが狩った鹿の肉を焼いたもの。質素だが、美味しい。
ディアンは、焚き火の前でエリアナの向かいに座った。
「で、なぜ貴族令嬢が、一人でアルトゥーラなんかに行くんだ?」
「商人になるためです」
「商人?」
ディアンは驚いた表情を見せた。
「貴族が商人になる? 聞いたことがないな」
「私は、もう貴族ではありません。自由な商人として生きていくつもりです」
「面白い。だが、商売は甘くないぞ。特に女一人では」
「わかっています。でも、私には才能があります。必ず成功してみせます」
エリアナの目には、強い決意が宿っていた。ディアンは、思わず見とれてしまう。
「お前、変わった女だな」
「よく言われます」
二人は笑った。焚き火の炎が、二人の顔を照らす。
「まあ、頑張れよ。俺は、お前みたいな奴、嫌いじゃない」
「ありがとうございます」
その後、傭兵たちの一人が、楽器を取り出して演奏を始めた。素朴な旋律が、森に響く。他の傭兵たちも、歌い始める。
エリアナは、久しぶりに心が温かくなるのを感じた。王宮でも、侯爵邸でも、こんな気持ちになったことはなかった。身分も体裁も関係ない、ただ人として接してくれる人たち。
これが、本当の自由なのかもしれない。
翌朝、一行は出発した。傭兵たちは、エリアナの馬車を囲むように護衛する。
道中、ディアンは時折、エリアナに話しかけてきた。世間話から、この世界の情勢、商業の話まで。エリアナは、ディアンが見た目よりもずっと知識豊富なことに気づいた。
「ディアンさんは、どうして傭兵になったのですか?」
「……複雑な事情があってな。まあ、今はこの生活が気に入ってる」
ディアンは、それ以上は語らなかった。エリアナも、深くは聞かなかった。誰にでも、語りたくない過去はある。
六日目、ついにアルトゥーラの街が見えてきた。
大陸最大の自由商業都市。城壁に囲まれた巨大な街で、無数の建物が立ち並んでいる。港からは、多くの船が出入りしている。各国の商人たちが集まり、様々な商品が取引される。
エリアナは、胸が高鳴った。ここが、自分の新しい舞台だ。
街の門をくぐると、活気に満ちた雰囲気が伝わってくる。市場では、様々な言語が飛び交い、商人たちが値段交渉をしている。異国の香辛料、美しい織物、精巧な工芸品。見たこともないものばかりだ。
「すごい……」
メイベルも、目を丸くしている。
「ここが、アルトゥーラか。確かに、凄い街だな」
ディアンも、感心した様子。
街の中心部に向かうと、大きな建物が見えてきた。商人ギルドの本部だ。
「ここで、ギルドに登録しなければ」
「じゃあ、俺たちはここまでだな」
ディアンが言う。
「報酬を払います」
エリアナは、約束通りの金貨を取り出した。かなりの額だが、命を守ってもらった対価として妥当だ。
ディアンは金貨を受け取り、頷いた。
「確かに。商売、頑張れよ」
「ありがとうございました」
ディアンたちは、去っていこうとした。しかし、数歩進んだところで、ディアンが振り返った。
「なあ、エリアナ」
「はい?」
「もし、護衛が必要になったら、いつでも言ってくれ。お前のためなら、安くしてやる」
「……どうして?」
「さっきも言っただろう。お前は面白い。そういう奴を見守るのは、嫌いじゃない」
ディアンは笑って、去っていった。
エリアナは、少し複雑な気持ちになった。また会えるだろうか。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
エリアナとメイベルは、商人ギルドの扉を開けた。
中は広いホールになっていて、多くの商人たちが行き交っている。受付には、厳格そうな男が座っていた。
「あの、商人登録をしたいのですが」
「新規登録か。名前は?」
「エリアナ・ヴァルトハイムです」
「ヴァルトハイム? 侯爵家の?」
受付の男が、驚いた顔をする。周囲の商人たちも、ざわめき始めた。
「貴族が商人に? 珍しいな」
「どうせ、お遊びだろう」
「すぐに諦めて帰るさ」
囁き声が聞こえる。エリアナは、無視して受付に向き直った。
「登録をお願いします」
「ギルドマスターの許可が必要だ。少し待て」
受付の男は、奥へと入っていった。
しばらくして、一人の老人が現れた。白髪に白髭、鋭い目つき。商人ギルドのギルドマスター、オズワルドだ。
「ヴァルトハイム侯爵の令嬢が、商人になりたいだと?」
「はい」
「理由を聞かせてもらおうか」
オズワルドの目は、エリアナを値踏みするように見つめている。
「私は、商売の才能があります。それを活かしたいのです」
「ほう。貴族令嬢が、商売の才能ねえ」
オズワルドは、明らかに懐疑的だ。
「で、何ができる? 帳簿は読めるか? 契約書は書けるか? 値段交渉は?」
「全てできます。そして、この世界にない知識も持っています」
「この世界にない知識?」
オズワルドの興味が、少し引かれたようだ。
「例えば?」
「複式簿記、をご存知ですか?」
「複式簿記? なんだそれは」
エリアナは、前世の知識を説明し始めた。資産と負債、借方と貸方。収支を正確に把握するための会計手法。
オズワルドの目が、徐々に輝き始める。
「それは……確かに、便利だな。今までは、単純な収支記録しかなかった」
「さらに、マーケティングという概念もあります。顧客のニーズを分析し、最適な商品を提供する手法です」
エリアナは、次々とアイデアを披露した。流通網の効率化、ブランド戦略、セット販売の概念。
オズワルドは、完全に引き込まれていた。
「お前、本物だな」
「信じていただけますか?」
「ああ。だが、実績がなければ、誰も認めない。まずは、小さな店を一軒任せよう。そこで結果を出せ」
「わかりました」
オズワルドは、鍵を一つ取り出した。
「市場地区の端に、古い雑貨店がある。もう何年も閉まっていて、誰も買い手がいない。そこを、お前に任せる。三ヶ月で、利益を出せるか?」
「必ず」
エリアナは、鍵を受け取った。
これが、商人エリアナの第一歩だ。
市場地区を歩いて、件の雑貨店にたどり着いた。確かに、古びた建物だ。看板も色褪せ、窓は埃で曇っている。
扉を開けると、中は荒れ放題。棚は埃だらけで、在庫は古くて売れ残った商品ばかり。
メイベルが、がっかりした様子で言う。
「お嬢様、これは……」
「大丈夫。チャンスよ」
エリアナは、目を輝かせていた。
「この店を、大陸一の店にしてみせる」
その言葉には、確かな自信が満ちていた。
新しい挑戦が、今、始まろうとしていた。
本当にこれでよかったのだろうか。貴族としての地位を捨て、未知の世界へ飛び込む。失敗したら、全てを失う。
しかし、エリアナは決めたのだ。もう後戻りはしない。
メイベルは隣で、少し緊張した面持ちで座っている。彼女は二十歳で、エリアナより二歳年上。幼い頃からエリアナに仕えてきた、忠実な侍女だ。
「お嬢様、本当に大丈夫でしょうか」
「大丈夫よ。私たちなら、きっとやっていけるわ」
「でも、商売なんて、したことが……」
「私には、知識がある。それを活かせば、必ず成功する」
エリアナの声には、確信があった。前世の経営知識、この世界での経験。それらを組み合わせれば、商人として成功する自信がある。
旅は順調だった。最初の三日間は、何事もなく街道を進んだ。途中の村で食料を調達し、宿に泊まる。エリアナは、村人たちと話をしながら、この地域の経済状況を観察した。
農作物の価格、交易の流れ、物資の需要。全てがビジネスの材料だ。エリアナは、頭の中で情報を整理し、今後の計画を練っていく。
四日目の夕方、事件が起きた。
森の中を通る街道で、突然、数人の男たちが飛び出してきた。粗末な服を着て、武器を手にした盗賊だ。
「動くな! 荷物を全部置いていけ!」
御者は怯えて、手綱を引く。馬車が停止する。
エリアナは冷静に状況を判断した。盗賊は五人。武器はナイフと棍棒。組織的な盗賊団ではなく、おそらく貧しい村の男たちが小遣い稼ぎにやっているレベル。
「お嬢様、どうしましょう」
メイベルが震えながら囁く。
「大丈夫。私に任せて」
エリアナは馬車から降りた。盗賊たちは、貴族の令嬢が出てきたことに驚いている。
「お、お嬢さん、抵抗しなければ命は取らない。金目のものを全部出せ」
「待って。交渉しましょう」
「交渉だと?」
「あなたたちは、お金が欲しいんでしょう? なら、もっと良い方法がある」
盗賊たちは顔を見合わせる。
「私たちを無事にアルトゥーラまで護衛してくれたら、報酬を払うわ。今ここで奪うよりも、ずっと多い金額を」
「本当か?」
「ええ。私は商人になる者。約束は必ず守る」
エリアナの堂々とした態度に、盗賊たちは戸惑う。こんな交渉をする貴族など、見たことがない。
盗賊のリーダー格の男が、しばらく考え込んだ後、頷いた。
「わかった。だが、裏切ったら容赦しないぞ」
「もちろん」
しかし、交渉が成立した直後、さらに大きな問題が起きた。
森の奥から、別の集団が現れた。今度は、本格的な装備をした傭兵団のような男たちだ。十人以上いる。
「おや、獲物がいるじゃないか」
先頭に立つのは、背の高い、鋭い目つきの男だった。黒い髪に、傷だらけの顔。腰には立派な剣を差している。
「これは、俺たちの獲物だ!」
さっきの盗賊たちが叫ぶが、傭兵たちは笑う。
「お前らみたいな素人に、護衛ができるか。さっさと消えろ」
盗賊たちは、怯えて逃げ出してしまった。エリアナは内心で溜息をつく。やはり素人だった。
傭兵のリーダーが、エリアナに近づく。
「お嬢さん、災難だったな。この辺りは物騒でね。護衛なしで旅をするのは危険だ」
「あなたたちは、盗賊ではないのですか?」
「俺たちは傭兵だ。金をもらって、仕事をする。盗賊とは違う」
男の口調は、不思議と誠実さを感じさせた。
「ディアン・フォルテ。フォルテ傭兵団の団長だ」
「エリアナ・ヴァルトハイムです」
「ヴァルトハイム? 侯爵家の?」
「……もう関係ありません」
ディアンは、エリアナの表情から何かを察したようだった。
「なるほど。事情は聞かない。で、どこへ行くんだ?」
「アルトゥーラです」
「遠いな。護衛が必要だろう」
「報酬は払えます。適正な金額なら」
ディアンは、エリアナの目を見つめた。この女は、普通の貴族令嬢ではない。何か、強い意志を持っている。
「いいだろう。アルトゥーラまで、俺たちが護衛する。報酬は到着してからでいい」
「なぜ、そんな条件で?」
「気まぐれさ。それに、お前は面白そうだ」
エリアナは、この男が信用できるかどうか、瞬時に判断した。前世の経験から、人を見る目は養われている。ディアン・フォルテは、粗野だが誠実な男だと感じた。
「では、お願いします」
「任せておけ」
その夜は、森の中で野営することになった。傭兵たちは手際よくテントを張り、焚き火を起こす。エリアナとメイベルには、小さなテントが用意された。
夕食は、傭兵たちが狩った鹿の肉を焼いたもの。質素だが、美味しい。
ディアンは、焚き火の前でエリアナの向かいに座った。
「で、なぜ貴族令嬢が、一人でアルトゥーラなんかに行くんだ?」
「商人になるためです」
「商人?」
ディアンは驚いた表情を見せた。
「貴族が商人になる? 聞いたことがないな」
「私は、もう貴族ではありません。自由な商人として生きていくつもりです」
「面白い。だが、商売は甘くないぞ。特に女一人では」
「わかっています。でも、私には才能があります。必ず成功してみせます」
エリアナの目には、強い決意が宿っていた。ディアンは、思わず見とれてしまう。
「お前、変わった女だな」
「よく言われます」
二人は笑った。焚き火の炎が、二人の顔を照らす。
「まあ、頑張れよ。俺は、お前みたいな奴、嫌いじゃない」
「ありがとうございます」
その後、傭兵たちの一人が、楽器を取り出して演奏を始めた。素朴な旋律が、森に響く。他の傭兵たちも、歌い始める。
エリアナは、久しぶりに心が温かくなるのを感じた。王宮でも、侯爵邸でも、こんな気持ちになったことはなかった。身分も体裁も関係ない、ただ人として接してくれる人たち。
これが、本当の自由なのかもしれない。
翌朝、一行は出発した。傭兵たちは、エリアナの馬車を囲むように護衛する。
道中、ディアンは時折、エリアナに話しかけてきた。世間話から、この世界の情勢、商業の話まで。エリアナは、ディアンが見た目よりもずっと知識豊富なことに気づいた。
「ディアンさんは、どうして傭兵になったのですか?」
「……複雑な事情があってな。まあ、今はこの生活が気に入ってる」
ディアンは、それ以上は語らなかった。エリアナも、深くは聞かなかった。誰にでも、語りたくない過去はある。
六日目、ついにアルトゥーラの街が見えてきた。
大陸最大の自由商業都市。城壁に囲まれた巨大な街で、無数の建物が立ち並んでいる。港からは、多くの船が出入りしている。各国の商人たちが集まり、様々な商品が取引される。
エリアナは、胸が高鳴った。ここが、自分の新しい舞台だ。
街の門をくぐると、活気に満ちた雰囲気が伝わってくる。市場では、様々な言語が飛び交い、商人たちが値段交渉をしている。異国の香辛料、美しい織物、精巧な工芸品。見たこともないものばかりだ。
「すごい……」
メイベルも、目を丸くしている。
「ここが、アルトゥーラか。確かに、凄い街だな」
ディアンも、感心した様子。
街の中心部に向かうと、大きな建物が見えてきた。商人ギルドの本部だ。
「ここで、ギルドに登録しなければ」
「じゃあ、俺たちはここまでだな」
ディアンが言う。
「報酬を払います」
エリアナは、約束通りの金貨を取り出した。かなりの額だが、命を守ってもらった対価として妥当だ。
ディアンは金貨を受け取り、頷いた。
「確かに。商売、頑張れよ」
「ありがとうございました」
ディアンたちは、去っていこうとした。しかし、数歩進んだところで、ディアンが振り返った。
「なあ、エリアナ」
「はい?」
「もし、護衛が必要になったら、いつでも言ってくれ。お前のためなら、安くしてやる」
「……どうして?」
「さっきも言っただろう。お前は面白い。そういう奴を見守るのは、嫌いじゃない」
ディアンは笑って、去っていった。
エリアナは、少し複雑な気持ちになった。また会えるだろうか。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
エリアナとメイベルは、商人ギルドの扉を開けた。
中は広いホールになっていて、多くの商人たちが行き交っている。受付には、厳格そうな男が座っていた。
「あの、商人登録をしたいのですが」
「新規登録か。名前は?」
「エリアナ・ヴァルトハイムです」
「ヴァルトハイム? 侯爵家の?」
受付の男が、驚いた顔をする。周囲の商人たちも、ざわめき始めた。
「貴族が商人に? 珍しいな」
「どうせ、お遊びだろう」
「すぐに諦めて帰るさ」
囁き声が聞こえる。エリアナは、無視して受付に向き直った。
「登録をお願いします」
「ギルドマスターの許可が必要だ。少し待て」
受付の男は、奥へと入っていった。
しばらくして、一人の老人が現れた。白髪に白髭、鋭い目つき。商人ギルドのギルドマスター、オズワルドだ。
「ヴァルトハイム侯爵の令嬢が、商人になりたいだと?」
「はい」
「理由を聞かせてもらおうか」
オズワルドの目は、エリアナを値踏みするように見つめている。
「私は、商売の才能があります。それを活かしたいのです」
「ほう。貴族令嬢が、商売の才能ねえ」
オズワルドは、明らかに懐疑的だ。
「で、何ができる? 帳簿は読めるか? 契約書は書けるか? 値段交渉は?」
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オズワルドの興味が、少し引かれたようだ。
「例えば?」
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エリアナは、前世の知識を説明し始めた。資産と負債、借方と貸方。収支を正確に把握するための会計手法。
オズワルドの目が、徐々に輝き始める。
「それは……確かに、便利だな。今までは、単純な収支記録しかなかった」
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「信じていただけますか?」
「ああ。だが、実績がなければ、誰も認めない。まずは、小さな店を一軒任せよう。そこで結果を出せ」
「わかりました」
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「市場地区の端に、古い雑貨店がある。もう何年も閉まっていて、誰も買い手がいない。そこを、お前に任せる。三ヶ月で、利益を出せるか?」
「必ず」
エリアナは、鍵を受け取った。
これが、商人エリアナの第一歩だ。
市場地区を歩いて、件の雑貨店にたどり着いた。確かに、古びた建物だ。看板も色褪せ、窓は埃で曇っている。
扉を開けると、中は荒れ放題。棚は埃だらけで、在庫は古くて売れ残った商品ばかり。
メイベルが、がっかりした様子で言う。
「お嬢様、これは……」
「大丈夫。チャンスよ」
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新しい挑戦が、今、始まろうとしていた。
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