聖典の守護者

らむか

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二章 リスカとアルカロイド

That's so SICK !!

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 強く押し付けられた唇が首筋を通って鎖骨を舐めた。

「やめて!」
 少年の腕の中でもがいたが、びくともしなかった。
 一体、どこからこんな力が出てくるのか……。
 鎖骨を這う舌が、さらに南下しようとする。

「これもあなたの師に教わったの?」

 少年はハッとして、シェリスの顔を見た。
 その瞬間、頭突きをまともにくらって後ろによろめいた。
 シェリスは咄嗟にシンクに置いてある水桶をつかみ、少年に浴びせた。
 ダイニングテーブルに片手を付き身体を支えた少年は、顔面に強烈な勢いで水をかけられ、バランスを崩して無様に床に倒れこんだ。

「馬鹿にしないでよね!」
 少年は咳き込みながら、床に片手をつき、激しく頭を振った。
 犬が濡れた体の水分を飛ばす仕草に似て、鮮やかな赤毛から水滴が散った。

「僕の師を知っているのか!」
 僕の師……。
 やっぱりユーゴの言っていたことは真実だったのか……。
 シェリスは戸惑った。

 ーー年端もいかぬ少年を、薬で縛り付け悪魔と契約させた強力な師ーー

 少年は、半ば起き上がろうとした姿勢でシェリスを凝視したが、力尽きて水浸しの床に仰向けに転がった。

「少しは酔いが覚めた? ボトル1本空けるなんて正気の沙汰じゃない。あなたの師は、お酒の呑み方は教えてくれなかったようね」

 両手で空になった水桶を持ち、肩で息をしながら転がる少年を見下ろした。

「そうだよ……。酒は呑むなと言われていた。血液の構成要素が変化してしまうから……」
 (何を説明しているんだ……僕は)

 少年は上半身を起こし、割れたグラスや薬草などが散乱する床を見渡し、最後にシェリスを見上げた。
「それに僕は……、酒乱でもある……」
「そのようね」
 シェリスは精一杯、冷やかに聞こえるように言った。

 水桶をシンクに戻したところで思い出した。
 慌てて床に落としてしまった仕入れたばかりの素材の入った紙袋を拾う。
「良かった~! 濡れてないわ!」
 少年も立ち上がり、床に散乱したものを拾い始めた。

「急いで痛み止めを調薬するわね。これでお酒に頼るなんてバカげた事をしなくても済むわ」

 言い終えたところで、店舗側の両開きのガラスドアが開く音が聞こえた。


 ††


 店舗に入ったは良いが、誰も出てこないので仕方なく商品の薬棚をぶらぶらと眺め、時折、手に取っては戻すを繰り返していた。

 天井までの壁一面に設えられた薬棚は、重厚なあつらえで、少々の衝撃ではびくともしない代物のように見えた。

 試しに、どの棚まで届くのか、腕を伸ばして確かめるが、もちろん天井近くの最上段まで届く筈はない。
 自分は長身な方だと自負しているが、つま先立ちになっても最上段は遥か上にあった。

(イラつくな……)

 “上には上がいる”、などと連想してしまい、見上げること自体が癪に障って薬棚相手に勝手に気分を害した。

「ごめんなさい! お待たせしてしまって……」

 ダイニングキッチンの扉から出てきたシェリスは、急いでカウンターの中へ入った。
 長身の男は片手に薬瓶を持ったまま、さっと振り返った。

「あら……」

 シェリスは、意外な人物が訪問してきたことに、驚きと嬉しさがない交ぜになったような声を出した。
「グレムリンが来ると思っていたけど、まさかあなたが直々に取りにくるなんて……。お久しぶりね、ロイ」

 金色の刺繍が際立つ、真紅のローブコートを身にまとった派手な出で立ちのロイと呼ばれた男は、ぶらぶらとカウンターへ近づいた。

「あいつは別件があって来れないんだ」
「そうなの」
 シェリスは残念そうに呟いた。

 ロイは低めのカウンターに腕を伸ばして両手を付き、顔がほとんどシェリスの真正面に迫るほどにぐっと近づいた。

 シェリスは困惑気味に「なぁに?」と聞いた。

「頼んだ通りに調薬してくれたかい?」
 ロイはシェリスの大きな瞳を真っ直ぐに見据えていた。
 ド派手な装いとは裏腹に、髪も瞳も光を吸い込む漆黒で、それでいてその眼差しは、人を見透かすような冷たい光を反射していた。

「ええ、もちろんよ」
 今日のロイはなんだか……変……。

 落ち着かなげにロイの視線を感じながら、シェリスはカウンターの下に手を伸ばして目当ての物を取り出した。

「薬の効果を強くして欲しいなんて……。薬効成分が効かなくなったのかしら。ご要望通りの効果が出るように調薬し直したわ」
「どうにも……。努力はしてるんだがね。手に入れたい女がいるんだ」
 ロイは唐突に切り出した。
「あなたが?」
 シェリスは驚いて聞き返した。
「どんな女性もお手の物でしょう。プレイボーイさん」

 ロイはからかい半分のシェリスの言葉を、素直に賛辞として受け取った。
「そうでもないさ。情欲の捌け口なら掃いて棄てるほどいるが、まったく昂らないね。おまえのように美しい女なら話は別だが……」
 ロイはそう言って下唇を舐めた。

「な……。何言い出すの……!?」

「今日は格別に妖しい色香を感じるな」
 シェリスは慌てたが、眼前に迫るロイの真っ直ぐな漆黒の瞳から目が離せなかった。

 しんと静まり返る空間に、ロイの滑らかな低い声が鋭く響いた。

「いけないな……。隠しきれていないぞ。気づいていないとでも思っているのか。シェリス……、その首筋の痕はどこまで続いているんだ? 教えてくれ」
 ロイはシェリスの首筋から胸へと続くラインに舐めるような視線を向けた。

「ち……違う違う違う!」

 シェリスは咄嗟に首筋を押さえたが、全身が火のように熱くなり、見るからに動揺していてもはや否定は意味を為さなかった。

「羨ましいぜ。そいつは……、おまえのその柔らかそうな唇に、それともその艶やかな長い髪に欲情したのか?」

 狼狽えるシェリスを尻目に、尚も挑発的な言葉を続けるロイは今や高揚した気分になりつつあった。
 際どいセリフで相手を追い詰める快感と、自分自身の言葉に酔う悪癖は、往々にして彼に関わる様々な人々を困惑と混乱に陥らせた。

 通常であれば、笑って流せる悪ふざけも半ば真実を含んでいるため、シェリスは戸惑うばかりでうまく言葉を返せず、顔は真っ赤で身体は硬直し、潤んだ瞳でロイを見つめることしかできなかった。

「冗談だ」

 シェリスの大きな瞳を見つめていた視線を他へ移すと、薬の入った小さな紙袋を手に持ち踵を返した。
 新しいおもちゃに夢中だった子供が、ふいに興味を失うように。

 両開きのガラスドアを通り抜け、外界の光を受けながら、一瞬シェリスを振り返った。

「それ、飲んだら少しは楽になるんじゃないか?」
「それ???」

 別れの挨拶にしては脈絡の無いピントのずれた言葉に、硬直の解けたシェリスは調子外れな声を出した。

 言葉の真意を確かめようとしたが、彼はすでに外界へ消え、両開きのスイングドアがゆらゆらと揺れているのを目にしただけだった。

「それ……」
 今まで目の前に立っていた長身の影を思い描きながらカウンターに視線を落とすと、薬棚から持ってきたであろう薬瓶が一つ置いてあった。


 ††


「可愛い女だ」
 ガラスのスイングドアを抜け、短い階段を下りながらロイドは呟いた。

「そう思わないか? グラファイト」

 グラファイトと呼ばれた暗灰色のドラゴンは足元にじゃれつく子猫の相手を即座に止め、主の問い掛けに威儀を正してこう答えた。
「真正アルカロイドの臭いがします。無法者アウトローと関わりを持つなど、シェリス・ラヴァ様らしくありません」

 ロイドはしばしグラファイトの意見を吟味した。

無法者アウトローか。アレはたぶん無法者アウトローなどというケチなチンピラではない。コントロールされた狂気を感じた。他人の色恋に興味はないが、制御コントロールされた狂気バーサクには惹かれるね」

 グラファイトは思案げに鈍い光沢のあるダークグレーの瞳を伏せた。

(主の悪い癖がまたもや勃発しそうだ……)

 グラファイトの足にじゃれつく子猫は相手をされなくなって怒ったのか、気を惹こうとぴょんぴょんと跳ねている。

「どうせ暇だ。グラファイト、寄り道しよう」

 主が背に飛び乗ったと同時に、ドラゴンは大きな双翼を一気に広げ、地を蹴り空へ羽ばたいた。

 地を離れる寸前「また遊ぼう」と囁いた。
 グラファイトは子猫に別れの挨拶を忘れなかった。
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