聖典の守護者

らむか

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二章 リスカとアルカロイド

今すぐ死ぬか、地獄で生きるか

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「冬眠から覚めた熊みたいだぞ」

 ユーゴは落ち着かない子供をたしなめるように、うろうろと執務室を歩き回るロイドに声を掛けた。

 広い執務室の中央には、ウォルナット材質の木目が美しい甲板に、寄木細工で模様が画かれたオーバル型の飾り板があしらわれた大きなテーブルが置かれていた。

 そのテーブルを周回しているロイドは立ち止まり、今度はテーブルの上に鎮座するオーロラのように輝く大きな地球儀らしき物をぐるぐると回し出した。

 その様子を少し離れた肘掛け椅子に座り、サイドテーブルに肘を付いて、羽ペンで机をとんとんと打ち付け見ていたユーゴはハッとした。

 自身もイライラとペンを打ち付けている。
(落ち着かないのはお互い様だな……)

「おい、いったいいつになったら目が覚めるんだ!」
 ロイドは痺れを切らして怒鳴った。

「いや、おまえが悪い。いったいグラファイトにどういう指示を出したんだ?」
「俺は連れて来いと言っただ……」

 噛み付きかねない勢いで言い返そうとしたところで、少年が呻いた。

「起きたぞ」
 ユーゴは椅子の背から身を乗り出した。

 皮のソファーで寝かされていた赤毛の少年は、肘を付いて上体を起こし、頭を振った。

「おはよう。気分はどうだ?」
「あんまり」

 少年は、まだ焦点がうまく合わない瞳で部屋を見回した。

「グラファイトが少々手荒な真似をしたようだ。彼の血液には毒が多量に混じっていてね。君に耐性があって良かったよ。普通の人間なら死んでいたからな。気付けに呑むか?」

 ユーゴは傍らにあったワインボトルからワインを少しグラスに注ぎ、少年の方へ押しやった。

「ガキに酒なんか呑ますな」

 ロイドは引ったくるようにしてグラスをつかむと、一息に呑み干した。
 グラスをサイドテーブルへ投げるようにして置く。
 空になったグラスは不安定に回転したが、やがて落ちついた。

「おまえか。噂の薬中のリスカ野郎ってのは。この間はコソコソと隠れていたな。この俺を覚えているか?」

 少年はロイドを上から下まで眺めたが、すぐに視線を逸らせた。

 忘れるはずがない……。あからさまな殺気で自己主張してきたドラゴンを使役するド派手な男だ。

 ロイドは少年から満足な反応が返ってきた事に気分を良くした。

 ユーゴはロイドを無視して話を進める事にした。
 ロイドこいつ自由野放しにしていると、何時まで経っても少年の名前すら判明しないだろう。

「わたしはユーゴ・グラシア。我が国の王国軍第1弓騎兵師団を統率する軍司令官だ。精霊エレメンタル魔法研究者でもある。そしてこっちは……」

 ユーゴはちらっとロイドを見て、こう言った。

「ロイド・ユーゲンバルト。我が国きってのスーパースターだ。未だかつてその戦闘能力の右に出た者はいない。さぁ、君の番だ。名前を教えてくれ」

 聞いているのかいないのか、少年は周囲に目を走らせていた。
 広い執務室の壁という壁は天井までの書棚で埋め尽くされている。

 中央にはバカでかいウォルナットの重厚なテーブルがあり、そのエッジに寄りかかるようにして立つロイドがいた。
 漆黒に光る瞳は、何事も無逃さぬかのように真っ直ぐに少年を見つめている。

 さらに奥には中二階に続く階段があり、その先は暗くて見えない。
 自身の置かれている状況を見極めようとしきりに警戒する少年の姿を見て、ユーゴは(野良猫みたいだな…)、と思った。

 さながら母猫とはぐれた子猫だ。
 子猫といえども、野良猫は無闇に鳴かぬ。

「断薬による離脱症状は今やほぼ緩和されただろう」
 少年は"断薬"のワードに反応してユーゴに注意を向けた。

「君の血を調べて成分を解明した。シェリスに栄養剤として渡された薬を毎日飲んでいただろう? 断薬による副作用が出ないように調薬のアドバイスをしたのはわたしだ。見たところ君は裏家業ダークサイドの人間のようだが」

 少年は自身の両腕に視線を這わせた。
 まさか気を失っている間に血を抜かれていたなんて……。
 しかも複雑に合成された薬物アルカロイドの混ざった血液を、わずかな時間で解明された。

「理由はどうあれ、逃亡の身なのだろう? 旧知の友人宅に長居をされると困るんだ。君自身も良くわかっているはずだよ。一度は自ら出て行こうとしたのだから」

「シェリス……。あの女性ひとは凄いな……」
 少年は小さく呟いた。

 "類は友を呼ぶ" 
 彼女の周りにいる友人達はどれも豪華揃いで驚く事ばかりだ。

「彼女は……、少し天然なんだ」
 ユーゴは少年の"凄い"の意味を履き違えて、シェリスをフォローするかのように補足した。

「他の追随を許さぬほどのド天然だ」
 ロイドが口を挟んだ。
「でなければ、おまえのような奴を匿ったりはしない」

 少年はその通りだと思った。
 シェリスに施された自身に対する数々の恩恵は、通常の神経の持ち主なら有り得ないことで、あの店舗付き平屋での数日間の全ては、自身の生い立ちからして初めての経験ばかりだった。

 驚く事に、居心地が良いとすら感じて逃亡の身である現実を忘れる瞬間が何度かあった!

 ずっと平屋に居れるはずもないし、だからといってずっと逃げ切れるはずもない。

 ユーゴとロイドが注目するなか、ごくごく近い未来に到達するであろう自身の凄惨な末路を想像し、少年は両腕で体を抱き締めるようにして震え出した。

「助けてあげられるかも知れない」
「おい……」ロイドが身動ぎしたのを片手を挙げて静止しながらユーゴは静かに言った。
 ロイドは抗議しようとしたが、ユーゴの挙げた手が「黙ってろ」と主張している。

「君の選択肢は二つに一つだ。沈黙を通すなら、今すぐ死ぬか、地獄で生きるか。助けて欲しくば素性を明かせ。君の名は?」

 少年はうつむき固く目を閉じた。
 重い沈黙が流れるなか、(やはり野良猫は鳴かぬ……)、とユーゴが諦め、ロイドが両袖をおもむろにまくり上げた、その時。

 自分で自分を抱き、捨て猫の様に打ち震えていた少年は意を決したように顔を上げ、紺碧の瞳で二人を見つめた。
「僕の名は、アッシュ・ウルフ=レイだ」

 ††


 ユーゴの邸の荘厳な庭園は、この国でも屈指の美しさで、特に薔薇のコレクションは他に類を見ない。

 グラファイトはこの庭が好きだった。

 遂行する数々の任務は精神的な負担も多く、美しい物や光景を見ることは心の癒しに繋がった。
 月明かりが、薔薇の美しさに蠱惑的な魅力を加える。

 しゃがんで薔薇の花びらに触れると、その根元にブルーに光る二つの瞳を持った白い毛玉を見つけた。
 一瞬、顔がほころびかけた時、背後で声がした。

「迷子の迷子の子猫ちゃん」

 背筋に戦慄が走り、グラファイトはとっさに振り返った。

 絶妙な間合いに立つ声の主に微塵も気配を感じなかった事に、グラファイトは狼狽した。

 黒のしのびのような出で立ちに、黒の手拭いで両目を隠している銀髪が目立つその男は、まるで静止画のように微動だにせずこちらを見つめている・・・・・・

「あなたのおうちはどこですか」

 男のふざけた口調は、その影のような存在感の無さと相まって不気味さを際立たせた。
 咲き乱れる魅惑的な薔薇に囲まれた黒の手拭いで両目を隠した銀髪の男。

 まったく場違いな光景だ。

「一撃で仕留めるのは興がない」
 男の声色が変わった。

 その言葉セリフにグラファイトは悟った。
 今、まさに目の前に立つこの男こそが、くだんの"師"。

 だらんと下げた男の両手には、いつの間にか柄に長い鎖の付いた忍刀しのびがたなが握られていた。

「おまえは己の血に多大な自信があるようだな」
 抑揚も感情も無い低く乾いた言葉が、グラファイトの胸に冷たく響いた。

 磁石のプラスとマイナスが引き合うように、忍刀しのびがたなの柄から長くぶら下がっていた2本の鎖の先が繋がった。
 グラファイトは未だかつてそのような武器を見たことが無かったし、冷たい汗もかいた事が無かった。

 レベルが違う……。

「そうだ、おまえの選択肢は間違ってはいない」
 男はグラファイトの心を読んだかのように、小声で呟いた。

 グラファイトは真の姿であるドラゴンに変身しようと身構えたが、男の投げた忍刀しのびがたなの鎖が首に幾重にも巻き付き、完全に変体する事ができずに、再び人間の姿に戻った。

「逃げられなかったな」
 グラファイトの背後に影のように立つ男は耳元で囁いた。

「賢い選択だったが、遅すぎる。まるでスローモーションだ」
 首に巻き付いた鎖はまるで生き物のように食い込み続け、グラファイトは息ができず声も出せずに無様にもがいた。

 ドラゴンに変身し空へ飛び立てば逃げられると思ったが、浅はかだった。

 暗灰色の髪をつかまれ、背中越しに視線が合う。
 男は両目を覆った手拭いをわずかにずらし、多重瞳の右目でグラファイトをまともに見た。

「おまえの師に……、あー違う。違うな。おまえは"我が主"と言っていたな。おまえの主に伝えろ。俺からのメッセージだ」
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