聖典の守護者

らむか

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四章 背徳のクルセイダー

生と死のジレンマ

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 軍庁舎に戻ったロイドは、真っ直ぐに人事事務官マイヤ・フィディッチのオフィスへ向かった。

 ノックもせずに扉を開ける。

 翳りを見せ出した午後の陽光の差し込む部屋の中、事務机に向かうマイヤは書類の束から顔も上げずに一枚の紙を掲げて見せた。

「ちょうど良かった。ロイ、次のミッションよ」
 ノックもせずに入ってくる人間は、ロイドぐらいしかいない。

「待て。どうして俺に振る? 今朝、愉快なユニットが結成されただろ」

 マイヤはパッと顔を上げると、サッと立ち上がった。
 ロイドはマイヤの全身にすばやく視線を走らせた。

 身体の線にぴったりとした白いシャツと黒のスラックスのオフィスコーディネートは、シンプルで機能的でありながらその身体が官能的な曲線を次々と描いていることを嫌でも想像させた。

 マイヤと“あわよくば……”を狙っている男は大勢いる。

 ロイドはその中の一人に認定される前に、彼女の明るいブルネットの髪と淡褐色ヘーゼルの瞳へ視線を集中させた。

「あんなお粗末な部隊にミッションは任せられない。アッシュを彼の下につけるなんて無茶苦茶よ! わたしは反対したのに、ストレイファス将軍がゴリ押しで決定してしまった」

「なにをイラついている? なぜ反対なんだ? 聖十字騎士クルセイダーが部下を持ってはいけないのか? なぜヤツに任務を回さない?」

 ロイドは三歩で部屋を横切ると、事務机の前で立ち止まった。
 窓から差し込む光がロイドの片方の頬をオレンジ色に染めた。

 マイヤは腕を組むと、わずかにうつむいた。
 長いまつげが小刻みに震えている。
「彼を……戦わせたくない」

 その言葉にロイドは即座に反応した。
「なんだって? 俺たちは軍人だぞ。戦わずしてどうやって国を守る? それとも……、それは個人的な感情なのか? 惚れているのか、あの男に?」

 マイヤが聖十字騎士クルセイダーに特別な感情を抱いていることは薄々感じていた。

「やめて。そんなんじゃない」
 マイヤは固く目を閉じると首を左右に振り否定した。
 組んだ両腕と細い肩に力が入った。

「そうか……、なら、聞かせてくれ、マイヤ。それはいったいどうゆう感情なんだ?」

「廊下に声がだだ漏れだぞ。せめて扉を閉めてから話したらどうだ」
 ユーゴはそう言うと後ろ手で扉を閉め、オフィスに入ってきた。
 そして、わずかに張り詰めた空気の中、無言で対峙する二人を見つめた。

「なんだ、おまえも来たのか」
 ロイドは見向きもせずに言った。
「ほんの通りすがりだ」
 ユーゴは短く答えた。

「ちょうどいい。聞いてくれ、ユーゴ。マイヤは聖十字騎士クルセイダーを戦地に送り込みたくないそうだ。愛する男が傷つくのが耐えられないのだろう。そして、俺を殺そうとしている」

「殺すだなんて! そんなこと……!」
 マイヤは両手を事務机へ勢いよく置くと、身を乗り出した。
「任務を俺にばかり押し付けている。それで聖十字騎士クルセイダーを守っているつもりか。どこが良いんだ、あんなおっさん」
 ロイドは唇に意地の悪い笑みを浮かべた。
「彼はおっさんじゃない!」

 マイヤは、以前から聖十字騎士クルセイダーに対する人々の誹謗中傷にいちいち反論してきた。
 そのくせ、実生活において仕事をさせない、というまるで正反対とも取れる行動をしている。
 ロイドにはそこが不可解でならなかった。
 実際に、働き、給料を貰わなければ、生きていけないではないか。

他人ひとのことばかり言って……」
 マイヤは唇を噛み、ロイドを睨んだ。

「ロイ、そういうあなたはどうなのよ。派手な女遊びで名をはせたあなたが、ここ最近は酒場にも寄り付かないってもっぱらの噂よ。下士官のお楽しみ・・・・のお誘いも、取り付く島もなく“NO”。心配していたわよ。我らがさまよえる軍司令官WAR LORD殿が、不治の病EDにでもかかっているじゃないかって」

「誰がそんなことを!?」
 マイヤの皮肉たっぷりな挑発に、ロイドは見事なまでに乗っかり、憤慨した。

「ネスタロフの野郎か!? あいつ……! 俺にカードで負けた腹いせに陰で妙な噂を……」
 ロイドはそう吐き捨てるとマイヤの顎に手をかけ、挑発的にこちらを向かせた。

「マイヤ、試してみるか? 俺が本当にデキないかどうか。その身体で」

「やめろ」
 ユーゴが割って入った。

「くそ……、あの野郎が。次は、有り金全部巻き上げてやる」
 ロイドは短く息を吐くとマイヤの顎から手を離し、額にかかる漆黒の前髪をさっとかき上げた。

「ネスタロフは関係ない。憶測で決めつけるのはよせ」
 ユーゴの窘めるような口調を疎ましく感じたロイドは、窓枠にもたれかかり、暮れなずむ夕日に視線を向けた。
 そして、一線を離脱したかのようにふいに口を閉ざした。

「マイヤ」ユーゴは一歩前に進み出た。

 典型的な北欧人ノルディックの特徴である金髪碧眼に、石膏でできた彫刻のような雰囲気を持つユーゴは、思惑の裏づけがありそうな神経質な表情でマイヤを見た。

 マイヤは視線をそらした。

 ユーゴは一軍を率いる軍司令官WAR LORDでありながら、精霊エレメンタル魔法研究者でもある。
 その才知と先天的資質の高さは群を抜いており、肩を並べられる者はいない。
 彼はこの国にとって、なくてはならない存在だった。
 軍上層部からの信頼も篤く、アンガー・ストレイファス将軍の覚えも特にめでたい。

 マイヤの後見人でもある将軍と近しい位置に座を占める彼だからこそ、マイヤは彼の視線を避け、なおかつ彼の直視に苦痛を感じた。

「過去はさておき、彼は今やこの国の軍人、ましてや配下を持つ将校だ。特別扱いは如何いかがなものか」

 マイヤは伏せ目がちに何度か瞬きすると、なにもない宙を見つめながら言った。
「彼は与えられた任務を必ず遂行する。完全に完璧に。でもその報酬はすべてわたしに支払われる」

 夕日を眺めていたロイドは、マイヤに注意を向けた。
 ユーゴもまた、思いもよらないマイヤの言葉に口をつぐんだ。

「わたしが5歳の頃からよ。彼が果たした任務の報酬はすべてわたしに入るの。そうゆうシステムになっているのよ。わたしがそれに気づいたのは二年前。人事事務官に採用されてからよ。そもそも、孤児院での待遇が良かったのも、わたしが防衛士官大学に行けたのも、そして軍属の事務官になれたのも、もっと言えば、わたしが今住んでるフラットも彼のお金があったから。彼のお金のお陰で今のわたしがあるのよ」

 マイヤはいったん言葉を切ると、鋭い視線を二人に向けた。

「でも……! そんなこと……もううんざりなの! 彼の過去の贖罪に付き合わされるのは。わたしはわたしよ。もう一人でも生きていける。成人したひとりの女なの」

「……それは知らなかったな。なるほど、それで君は、聖十字騎士クルセイダーに仕事を回さないわけか」
 ユーゴは腑に落ちたように小さくうなずいた。

 マイヤは“深く話し過ぎてしまった”と、後悔したと同時に、自分の気持ちがギリギリのラインで右往左往している緊迫した状況であることに気づかされた。

 柔らかな綿のような繊維ひとつでも、均衡を保っていた天秤は一方へ傾く。

「なんなんだそれは? 過去の贖罪って?」

 ロイドは思いもよらない展開に、混乱にも似た好奇心を覚えた。

 贖罪ーー犠牲や代償を捧げて罪をあがなうこと。

 聖十字騎士クルセイダーの罪とは。
 ロイドはいたく興味をそそられた。

 促すように二人を交互に見るロイドにユーゴがこたえた。
聖十字騎士クルセイダーの贖罪……。それは、マイヤの両親を見殺しにした自責の念だ」

 マイヤはすかさず否定した。
「ちがう。見殺しになんてしていない。わたしは5歳だったけど……あの時・・・のことは鮮明に覚えているわ」
 マイヤの心はあの時・・・へと舞い戻った。

「そう、それがこの問題の最大の根幹・・・・・だ」
 そう言うと、ユーゴは踵を返した。

 絡み合った糸をほどくには、糸口を探さなければならない。
 関係のない糸を引っ張ると、よけいに絡まり誰も望まぬ結果になりかねない。
 この問題に関して、自分にできることはそれほどない、とユーゴは思った。

 ロイドは、マイヤのオフィスを退出するユーゴの背中を見送りながら、「だいたいわかった」と、ため息混じりに呟いた。
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