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四章 背徳のクルセイダー
殴られ屋アルバイター
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「良かったわね。配属先が決まって」
「うん。国家制式装備も支給されたよ。僕のは、ユーゴやロイが着ている軍司令官用のロングコートじゃなくてインバネスコートなんだ。今度、シェリスにも見せてあげる」
インパネスコートを身にまとったアッシュの姿を自由に想像したシェリスはクスッと笑った。
「探偵さんみたいな感じね。楽しみにしてるわ。アッシュはこれから軍務で忙しくなるわね。こんな風にお店の仕入れに付き合ってもらうのも、そう頻繁にはできなくなる」
「できる限り手伝うよ。薬の素材ってけっこう重いんだね」
アッシュは腕に抱えた薬草の入った大きな紙袋を抱え直した。
「ああ、そうだ。春女郎花……ロイにあげちゃったんだ。また買いに行ってもいい?」
「ロイにあげちゃったの? またどうして?」
「いろいろあって……」
陽が西の地平に傾き、宵闇が迫りつつある庭園の中をアッシュとシェリスは肩を並べて歩いていた。
茜色を含んだ藍色の夕空が閑静な庭園の上に広がっている。
思いのほか遅くなってしまったな、とアッシュは思った。
シェリスの住む店舗兼平屋は、この国の中枢である宮殿及び軍庁舎からほど良く離れた郊外にあった。
貧困層の居住する過密化したスラムではなく、強いて言えば、それなりの身分ある住民が住んでいる界隈ではあったが、それでも女性の夜の一人歩きは危険だった。
「アッシュの新しい上官の人は、どんな人なの?」
シェリスは悪戯っぽく好奇心に溢れた大きな瞳で尋ねた。
「ああ……。上官……。末広十字とか、聖十字騎士とか呼ばれてる。ある意味、すごい人だよ。今朝、紹介されたんだ」
アッシュは、ストレイファス将軍の執務室で紹介された自身の直属の上官である、“カーマイン・シェルクロス”という名の男のことを思い返した。
襤褸のような僧衣をまとった長身の細身の男だった。
その僧衣は、着古しているのか黄ばみ汚れ、元は何色だったのか判別がつかなかった。
正直なところ、世捨て人のようなその男をひと目見たアッシュの感想は、“うそだろ”、だった。
軍卒を率いる司令官には見えなかった。
ユーゴやロイドとはまったく異なる存在という意味で、一線を画していた。
ひときわ目を引いたのは、短髪の赤毛だった。
自分は、赤毛という共通点だけで適当に配属されたのではないかと思うほど、この采配には疑問を抱いた。
聞けば、この男は配下を持つのも初めてで、そもそも、最近は軍務に携わってもいないということだった。
そして、人事事務官マイヤ・フィディッチ女史が仕事を回してくれない、とぼやいていた。
いったい、今までなにをして生きてきたんだろう。
(先行きが不安だ……)
シェリスに気取られぬよう、ため息をついた。
「クロス・パッティ……? もしかしてその人、鎖骨の下に……」
シェリスがアッシュに問いかけたその時。
進行方向にあるブナの木々が綺麗なアーチを作っている短いトンネルから、一人の男が自分の肩をつかみ、腕を回しながら出てきた。
「待って……! シェリス」
アッシュは腕をシェリスの前方へ出し、彼女の歩みを制止した。
二人が見守るなか、その男は薄暗い庭園のどこかへぶらぶらと歩き去って行った。
「きっと、わたしたちと同じように近道のためにこの庭園を横切っているんだわ」
シェリスはアッシュに無邪気な笑顔を見せた。
「そうだね。僕たちも急ごうか」
昼間ならば、様々な色に満ち溢れた美しい見事なトンネルなのだが、今は暗く薄気味悪い細道で、木々はただ、人を驚かすために植えられたのではないか、と思うほどだった。
「人が倒れてる!」
木々のアーチが並ぶトンネルの出口に、黒い人影が横たわっていた。
シェリスは弾かれたように走り出した。
「待って! シェリス!」
アッシュはシェリスに追い付くと、その腕をつかんだ。
近づいてくる慌ただしい靴音に気がついたのか、横たわる人影はムクッと起き上がった。
「あら? あなたは……」
木のトンネルの中は薄暗く、よく見えなかったが、シェリスは片膝を立てて座り込む人影がどうやら知人であることに気づいた。
「知り合いなの? シェリス」
アッシュはつかんでいたシェリスの腕をそっと離した。
「薬師のシェリス……と、その赤毛のアシンメトリーは……期待のルーキー、アッシュ・ウルフ=レイか」
人影から発せられた声に、アッシュは目を見張った。
その声は、今朝聞いたばかりの己の上官、カーマイン・シェルクロス、その人のものだった。
「シェルクロス閣下!?」
アッシュは狼狽し、自分の声ではないような声を出した。
「ああ、やっぱり。クロス・パッティ、あなただったのね。怪我をしているわ」
シェリスはシェルクロスの傍らにしゃがみこんだ。
「ああ……、唇を少し、切っただけ」
シェルクロスは“なんでもないよ”、と手を振った。
「あの……、シェルクロス閣下。こんなところで何をなさっているのです?」
アッシュはやっとの思いで質問した。
シェリスとの関係は、この閑静な庭園の中で唇を切っているのは何故なのか、疑問が疑問を呼んだ。
「バイト」
シェルクロスは、ブナの木の幹に立て掛けてあるダンボールの立て看板を指さした。
アッシュとシェリスは同時に視線を向けた。
ーー殴られ屋 3min 10billーー
立て看板にはそう書かれていた。
「マイヤ・フィディッチ女史が、仕事を回してくれないのでバイトをしている」
シェルクロスが外国語か何か、知らない言語で話しているかのように、二人は目をパチパチさせた。
「……シェリス」
アッシュは喉から絞り出すような声を出した。
「この方が“クロス・パッティ”こと、僕の上官、カーマイン・シェルクロス閣下だ」
アッシュは、シェルクロスが立ち上がるのに手を貸した。
「アッシュから“クロス・パッティ”と聞いたから、もしかしたら、と思ってたけど。よく傷薬を買いに来るから、貧民街の治安が悪くて怪我をしているのかと思ってた……。でもまさか、こんなアルバイトをしていたなんて」
シェリスは困ったように苦笑いをしながら立ち上がると、スカートの皺を手で伸ばした。
「デート?」
シェルクロスはそんなシェリスとアッシュを交互に見ながら質問した。
「違います」
アッシュの返答に興味も無さそうに、シェルクロスはまったく別の方向を眺めながら、唇の血を手の甲で拭った。
アッシュはシェルクロスを凝視した。
商売といえども、ど素人の平民相手に怪我をするとは……。
この人は本当に練達の軍人なのか。
ストレイファス将軍は、この男を評して、“修道士でありながら、清貧の誓いを立てて生きる戦士、聖十字騎士”だと言った。
“彼の背中に背負われた、八端十字架の鞘に収められた広刃の剣は、どんな敵の肉や骨も切り刻む”と。
“八端十字架の鞘に収められた広刃の剣”
そもそも、そんな武器を背負ってもいないし、その風貌は騎士とはほど遠い。
「アッシュ、おまえも一戦どうだ。お愛想で一発ぐらいは殴られてやる」
その言葉は、アッシュの心頭をかすめ、紺碧の瞳を一閃させた。
一発ぐらいは殴られてやる、だと?
一瞬、戦ってやろうか……という激情が沸き上がったが、意志の力で引っ込めた。
アッシュは首を左右に振ると、小声で「いえ、止めておきます」と言った。
シェルクロスは不意に首を巡らし後方を振り返った。
「今日はもう店じまいだ」
道端に捨てられたボロ雑巾のような僧衣を拾い上げ、擦りきれたヨレヨレのシャツの上にまとうと、ダンボールの看板を小脇に抱え、二人の横を通りすぎた。
よく見るとその僧衣には、血のような赤黒い染みが点々とついていた。
二人は、歩き去るシェルクロスを見送った。
その後ろ姿は、市井にあってボロをまとい、徘徊し、野宿して祈る、幸福を放棄した狂人、“佯狂者”そのものだった。
「鎖骨の下にある末広十字の刺青が印象的でよく覚えてるわ。でも、まさかあの人がアッシュの上官だなんて、なんだか不思議。いつもどこか怪我をしていたし、あの身なりだし……。彼が軍人だったなんて、そんな風には全然見えなかった……」
「僕の上官は、いつもクセが強すぎる」
アッシュは誰に言うでもなしに呟くと、薬草の入った紙袋を抱え直した。
「うん。国家制式装備も支給されたよ。僕のは、ユーゴやロイが着ている軍司令官用のロングコートじゃなくてインバネスコートなんだ。今度、シェリスにも見せてあげる」
インパネスコートを身にまとったアッシュの姿を自由に想像したシェリスはクスッと笑った。
「探偵さんみたいな感じね。楽しみにしてるわ。アッシュはこれから軍務で忙しくなるわね。こんな風にお店の仕入れに付き合ってもらうのも、そう頻繁にはできなくなる」
「できる限り手伝うよ。薬の素材ってけっこう重いんだね」
アッシュは腕に抱えた薬草の入った大きな紙袋を抱え直した。
「ああ、そうだ。春女郎花……ロイにあげちゃったんだ。また買いに行ってもいい?」
「ロイにあげちゃったの? またどうして?」
「いろいろあって……」
陽が西の地平に傾き、宵闇が迫りつつある庭園の中をアッシュとシェリスは肩を並べて歩いていた。
茜色を含んだ藍色の夕空が閑静な庭園の上に広がっている。
思いのほか遅くなってしまったな、とアッシュは思った。
シェリスの住む店舗兼平屋は、この国の中枢である宮殿及び軍庁舎からほど良く離れた郊外にあった。
貧困層の居住する過密化したスラムではなく、強いて言えば、それなりの身分ある住民が住んでいる界隈ではあったが、それでも女性の夜の一人歩きは危険だった。
「アッシュの新しい上官の人は、どんな人なの?」
シェリスは悪戯っぽく好奇心に溢れた大きな瞳で尋ねた。
「ああ……。上官……。末広十字とか、聖十字騎士とか呼ばれてる。ある意味、すごい人だよ。今朝、紹介されたんだ」
アッシュは、ストレイファス将軍の執務室で紹介された自身の直属の上官である、“カーマイン・シェルクロス”という名の男のことを思い返した。
襤褸のような僧衣をまとった長身の細身の男だった。
その僧衣は、着古しているのか黄ばみ汚れ、元は何色だったのか判別がつかなかった。
正直なところ、世捨て人のようなその男をひと目見たアッシュの感想は、“うそだろ”、だった。
軍卒を率いる司令官には見えなかった。
ユーゴやロイドとはまったく異なる存在という意味で、一線を画していた。
ひときわ目を引いたのは、短髪の赤毛だった。
自分は、赤毛という共通点だけで適当に配属されたのではないかと思うほど、この采配には疑問を抱いた。
聞けば、この男は配下を持つのも初めてで、そもそも、最近は軍務に携わってもいないということだった。
そして、人事事務官マイヤ・フィディッチ女史が仕事を回してくれない、とぼやいていた。
いったい、今までなにをして生きてきたんだろう。
(先行きが不安だ……)
シェリスに気取られぬよう、ため息をついた。
「クロス・パッティ……? もしかしてその人、鎖骨の下に……」
シェリスがアッシュに問いかけたその時。
進行方向にあるブナの木々が綺麗なアーチを作っている短いトンネルから、一人の男が自分の肩をつかみ、腕を回しながら出てきた。
「待って……! シェリス」
アッシュは腕をシェリスの前方へ出し、彼女の歩みを制止した。
二人が見守るなか、その男は薄暗い庭園のどこかへぶらぶらと歩き去って行った。
「きっと、わたしたちと同じように近道のためにこの庭園を横切っているんだわ」
シェリスはアッシュに無邪気な笑顔を見せた。
「そうだね。僕たちも急ごうか」
昼間ならば、様々な色に満ち溢れた美しい見事なトンネルなのだが、今は暗く薄気味悪い細道で、木々はただ、人を驚かすために植えられたのではないか、と思うほどだった。
「人が倒れてる!」
木々のアーチが並ぶトンネルの出口に、黒い人影が横たわっていた。
シェリスは弾かれたように走り出した。
「待って! シェリス!」
アッシュはシェリスに追い付くと、その腕をつかんだ。
近づいてくる慌ただしい靴音に気がついたのか、横たわる人影はムクッと起き上がった。
「あら? あなたは……」
木のトンネルの中は薄暗く、よく見えなかったが、シェリスは片膝を立てて座り込む人影がどうやら知人であることに気づいた。
「知り合いなの? シェリス」
アッシュはつかんでいたシェリスの腕をそっと離した。
「薬師のシェリス……と、その赤毛のアシンメトリーは……期待のルーキー、アッシュ・ウルフ=レイか」
人影から発せられた声に、アッシュは目を見張った。
その声は、今朝聞いたばかりの己の上官、カーマイン・シェルクロス、その人のものだった。
「シェルクロス閣下!?」
アッシュは狼狽し、自分の声ではないような声を出した。
「ああ、やっぱり。クロス・パッティ、あなただったのね。怪我をしているわ」
シェリスはシェルクロスの傍らにしゃがみこんだ。
「ああ……、唇を少し、切っただけ」
シェルクロスは“なんでもないよ”、と手を振った。
「あの……、シェルクロス閣下。こんなところで何をなさっているのです?」
アッシュはやっとの思いで質問した。
シェリスとの関係は、この閑静な庭園の中で唇を切っているのは何故なのか、疑問が疑問を呼んだ。
「バイト」
シェルクロスは、ブナの木の幹に立て掛けてあるダンボールの立て看板を指さした。
アッシュとシェリスは同時に視線を向けた。
ーー殴られ屋 3min 10billーー
立て看板にはそう書かれていた。
「マイヤ・フィディッチ女史が、仕事を回してくれないのでバイトをしている」
シェルクロスが外国語か何か、知らない言語で話しているかのように、二人は目をパチパチさせた。
「……シェリス」
アッシュは喉から絞り出すような声を出した。
「この方が“クロス・パッティ”こと、僕の上官、カーマイン・シェルクロス閣下だ」
アッシュは、シェルクロスが立ち上がるのに手を貸した。
「アッシュから“クロス・パッティ”と聞いたから、もしかしたら、と思ってたけど。よく傷薬を買いに来るから、貧民街の治安が悪くて怪我をしているのかと思ってた……。でもまさか、こんなアルバイトをしていたなんて」
シェリスは困ったように苦笑いをしながら立ち上がると、スカートの皺を手で伸ばした。
「デート?」
シェルクロスはそんなシェリスとアッシュを交互に見ながら質問した。
「違います」
アッシュの返答に興味も無さそうに、シェルクロスはまったく別の方向を眺めながら、唇の血を手の甲で拭った。
アッシュはシェルクロスを凝視した。
商売といえども、ど素人の平民相手に怪我をするとは……。
この人は本当に練達の軍人なのか。
ストレイファス将軍は、この男を評して、“修道士でありながら、清貧の誓いを立てて生きる戦士、聖十字騎士”だと言った。
“彼の背中に背負われた、八端十字架の鞘に収められた広刃の剣は、どんな敵の肉や骨も切り刻む”と。
“八端十字架の鞘に収められた広刃の剣”
そもそも、そんな武器を背負ってもいないし、その風貌は騎士とはほど遠い。
「アッシュ、おまえも一戦どうだ。お愛想で一発ぐらいは殴られてやる」
その言葉は、アッシュの心頭をかすめ、紺碧の瞳を一閃させた。
一発ぐらいは殴られてやる、だと?
一瞬、戦ってやろうか……という激情が沸き上がったが、意志の力で引っ込めた。
アッシュは首を左右に振ると、小声で「いえ、止めておきます」と言った。
シェルクロスは不意に首を巡らし後方を振り返った。
「今日はもう店じまいだ」
道端に捨てられたボロ雑巾のような僧衣を拾い上げ、擦りきれたヨレヨレのシャツの上にまとうと、ダンボールの看板を小脇に抱え、二人の横を通りすぎた。
よく見るとその僧衣には、血のような赤黒い染みが点々とついていた。
二人は、歩き去るシェルクロスを見送った。
その後ろ姿は、市井にあってボロをまとい、徘徊し、野宿して祈る、幸福を放棄した狂人、“佯狂者”そのものだった。
「鎖骨の下にある末広十字の刺青が印象的でよく覚えてるわ。でも、まさかあの人がアッシュの上官だなんて、なんだか不思議。いつもどこか怪我をしていたし、あの身なりだし……。彼が軍人だったなんて、そんな風には全然見えなかった……」
「僕の上官は、いつもクセが強すぎる」
アッシュは誰に言うでもなしに呟くと、薬草の入った紙袋を抱え直した。
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