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五章 那伽羅闍の落胤
消えた尒天彪
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五章「那伽羅闍の落胤」が始まりました。
苛烈な暴力描写を含みます。
引き続き宜しくお願い致します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
真新しいメイド服を着た少女が仰向けで死んでいる。
驚きに見開かれた目と、悲鳴の形に開いて硬直した口。
ユーゴはかがみ込んで少女の瞳を覗いた。
彼女がこの世で最期に見た光景……自分を葬った相手がその瞳に映っているのを確かめるかのように。
ユーゴはそこでパッと状態を起こした。
こっちの立場になれば誰もがやりそうな迷信めいた自身の行動に急に馬鹿馬鹿しさを感じた。
この部屋にはあと二体の屍体があった。
三体ともこの邸に奉公に来たばかりの若いメイドのようだった。
木の床は血の海と化し、三体の屍体がそれぞれ離れた場所で浮いている。
片腕がもげ、内臓が飛び出しているもの、頭蓋の上半分が吹き飛ばされているもの、下半身が有り得ない方向に曲がっているもの。
一瞬の出来事だったに違いない。
彼女たちは痛みを感じることもなく、何が起こったかもわからないまま息絶えた。
「そう願いたい……」
短く息を吐くとユーゴは身体の向きを変え扉へと向かった。
殺された、というより粉砕されたといった表現がピッタリな凄惨を極める部屋をあとにし、廊下を歩いた。
数歩と歩かぬうちに、彼の姿を追いかけるように後方から声がした。
「軍司令官! 全検分が終わりました。生き残りは一名のみ。中庭にある厩舎に積まれた藁の中に隠れていました。お話をされますか?」
ユーゴは首を巡らすと指示を出した。
「ああ、しよう。パティオへ連れてきてくれ」
††
壁や柱に囲まれたパティオは、清々しい朝の光に白く照らし出されていた。
この穏やかなオープンスペースは、建物内の凄惨さに無関心に無頓着にただ変わらぬ日常の中に在った。
タイルばりの床も噴水も色とりどりの植栽も、我関せずというふうに。
現実から切り離された空間に、ユーゴは一瞬目が眩んだ。
今回のサディスティックな大量殺戮のただ一人の生存者及び目撃者であろう人物と話をするのにパティオを選んだのは、ここが唯一まともに呼吸ができる場所だからだった。
居住部分の建物内は惨殺屍体と夥しい血で溢れており、屍体を見慣れた軍人である自分でも平常心を保つのがやっとの状態だ。
「連れてきました」
武装した下級兵に連れてこられた人物は、最下層の使用人が着る野良作業服姿の痩せた青年だった。
「名前は?」
「ランス」
ランスはたじろぎ、緊張した面持ちでおずおずと名乗った。
犬が飼い主を見つめるようにユーゴを見つめている。
軍の司令官と直接話をすることに慣れていないのだろう、当然だ。
輝く銀糸で編まれた繊細な刺繍が施されたダークブラウンのローブコートを着た氷のように冷たいサファイアの瞳を持つ軍司令官と直接話をすることなど、この青年の一生のうちではまずもって有り得ないことだった。
ユーゴは、うつむきただ立ちすくむ青年に優しく声をかけた。
「ランス。わたしは軍司令官のユーゴ・グラシアだ。君のこの邸での役割を教えてほしい」
「おれは……ぼくは、下働きの厩番です。いつも厩舎にいます。旦那さまの軍馬に秣をやったり、馬装を整えたり……」
「なるほど。馬の世話係か。なぜ藁の中に隠れていた?」
この質問にランスは突然取り乱し、唾を飛ばして捲し立てた。
「な……なぜって!? あんな雷が落ちたような悲鳴を聞いて隠れないやつなんかいない! おれは寝床から叩き起こされたんだ! お邸で何が起こったかなんて知らない! 殺されるかと思ったんだ!」
混乱しているのか、すべてを否定したいのか、青年は頭を左右に激しく振った。
「口を慎め無礼者が。身分をわきまえろ」
ランスの背後に立つ下級兵が彼の首根っこをつかんで恫喝した。
ランスは明らかに動揺しており、しきりに自分はこの件に無関係だと訴えている。
ユーゴは小さくため息をついた。
領地の治安を守る民警の間では不法逮捕が横行している。
彼らは社会に影響を与えない――最下層の労働者や精神障害者、徘徊する者、など――人物であれば、誰でも(時にはわざわざ見繕ってでも)逮捕する。
そうやって、さっさと仕事終わりの酒にありつくのだ。
だが、ユーゴは民警ではない。
軍司令官であり、精霊魔法研究者である自身が出向いたのにはそれなりのわけがあった。
「かまわん。離してやれ」
ユーゴが命ずると下級兵はランスをぞんざいに突き放した。
「それでランス。悲鳴を聞いたのはいつ頃だ?」
ランスは何度か咳き込むと首を撫でながら答えた。
「今朝早い時間。夜が明けた頃だった。もの凄い悲鳴と何かが壊れる音……ゴホ……お邸の中から。盗賊に襲われているんだと思って、離れ小屋から出て急いで厩に隠れたんだ」
「君は、邸の中で起こった出来事を見ていないんだね?」
「見ていない。ずっと藁の中で震えていたから。だからおれは……ぼ、ぼくは何も知らないし、何も関わっちゃいないんです!」
「安心していい、ランス。君を疑ってはいない。邸内を検分したが、とても君のような普通の人間が行える所業ではない」
(そう、これは人間業ではない)ユーゴは心の中で呟いた。
「お邸の人たちは、どうなったんですか? 旦那さまは? 女中や使用人たちは?」
「君は新しい職を探した方がいい」
ユーゴは無関心に言った。
この憐れな青年から聞き出せることはほとんどなさそうだった。
“こいつは用済みだ”と、下級兵に指示を出すため片手を上げかける。
ランスはパティオの四方を囲む豪奢な邸を見上げると、唾を呑み込んだ。
「……まさか尒天彪」
自分が疑われていないと知ったランスはうっかり言葉を漏らした。
「なに?」ユーゴは上げかけた手を下ろした。
「いえ……あの……たぶんあれは盗賊の一人だったんだろうと……」
ランスは思い直したようにうつむくと口をつぐんだ。
「見たのか、盗賊を? いや、ジーテンドラと言ったか? 聞かせてくれ」
尒天彪という名前には聞き覚えがあった。
ユーゴは逡巡する痩せた小柄な青年を真正面から見下ろすと、言葉の続きを促した。
「次の働き口を見つけるのに手を貸してやろう」
気を良くした青年はすっかり話す気になった。
「藁の束の中で隠れていた時、お邸の方から出てきた盗賊の一人が馬房から奪った旦那さまのハンターに跨って逃げていくのを見ました。ぼくにはそれは尒天彪のように見えた。でも……違う。尒天彪はあんなんじゃない」
「あんなんじゃない、とは? 君の言う尒天彪とはいったい誰だ?」
「尒天彪は旦那さまがご友人から引き取られた捨て子で、このお邸の使用人です。愚図で使い物になりませんが、旦那さまは可愛がっておられました」
「その尒天彪が司令長官……、君の旦那さまの馬を奪って逃げたと?」
ランスは首を大きく振った。
「いえ、いえ。やっぱりあれは尒天彪じゃない。そんなはずがないです。そいつは全身から阿修羅のようなオーラを放っていました。とても尒天彪みたいなノロマなクズじゃない。今思えばどうして尒天彪だと思ったのか不思議です。そいつには額に眼がありましたし」
「額に眼!?」
「ここに」ランスは人差し指で自身の額の髪の生え際から眉間までをスッとなぞった。
「第三の眼……」
ユーゴはそう呟くと、指を曲げて下級兵を脇に呼び、手短に指示を出した。
††
ヴォリス・アルカージー参謀司令長官のペットであるオスのシロフクロウが甲高い声で鳴いている。
純白の羽根は真っ赤に染まり、片目が潰れていた。
軍の総司令官であるアンガー・ストレイファス将軍は朝から何も手がつかず、ただ自身の執務机に座っていた。
それはそばでひっきりなしに鳴いているシロフクロウのせいではなかった。
将軍は、ユーゴのもたらす報告を固唾を呑んで待っていた。
「ユーゴ・グラシア司令官閣下!」
近衛兵の抑揚のある甲高い声とともに執務室の扉が開き、ユーゴが姿を現した。
ストレイファスはさっと立ち上がった。
重い甲冑が互いに擦れて耳障りな音を立てた。
シロフクロウは鳴くのをやめ、無事な方の眼でユーゴを見つめた。
ユーゴは執務室の中央に進み出ると報告した。
「遅くなり申し訳ありません。厩番の青年に屍体の人物確認をさせたところ、いちいち気絶を繰り返すので手間取りました」
“屍体” “いちいち気絶” の単語にストレイファスは一瞬眉を吊り上げたが、ユーゴがもたらす悪魔のような最悪の報告に超然と構えた。
「ヴォリス・アルカージー参謀司令長官および奥方、以下使用人62名の屍体を確認しました。ですが、最下層の使用人の一人が行方不明です」
「誰だ」
「将軍閣下、あなたの嫡子“小茶彪”の異母兄、“尒天彪”が消えました」
シロフクロウが再びキィキィと鳴き出した。
苛烈な暴力描写を含みます。
引き続き宜しくお願い致します。
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真新しいメイド服を着た少女が仰向けで死んでいる。
驚きに見開かれた目と、悲鳴の形に開いて硬直した口。
ユーゴはかがみ込んで少女の瞳を覗いた。
彼女がこの世で最期に見た光景……自分を葬った相手がその瞳に映っているのを確かめるかのように。
ユーゴはそこでパッと状態を起こした。
こっちの立場になれば誰もがやりそうな迷信めいた自身の行動に急に馬鹿馬鹿しさを感じた。
この部屋にはあと二体の屍体があった。
三体ともこの邸に奉公に来たばかりの若いメイドのようだった。
木の床は血の海と化し、三体の屍体がそれぞれ離れた場所で浮いている。
片腕がもげ、内臓が飛び出しているもの、頭蓋の上半分が吹き飛ばされているもの、下半身が有り得ない方向に曲がっているもの。
一瞬の出来事だったに違いない。
彼女たちは痛みを感じることもなく、何が起こったかもわからないまま息絶えた。
「そう願いたい……」
短く息を吐くとユーゴは身体の向きを変え扉へと向かった。
殺された、というより粉砕されたといった表現がピッタリな凄惨を極める部屋をあとにし、廊下を歩いた。
数歩と歩かぬうちに、彼の姿を追いかけるように後方から声がした。
「軍司令官! 全検分が終わりました。生き残りは一名のみ。中庭にある厩舎に積まれた藁の中に隠れていました。お話をされますか?」
ユーゴは首を巡らすと指示を出した。
「ああ、しよう。パティオへ連れてきてくれ」
††
壁や柱に囲まれたパティオは、清々しい朝の光に白く照らし出されていた。
この穏やかなオープンスペースは、建物内の凄惨さに無関心に無頓着にただ変わらぬ日常の中に在った。
タイルばりの床も噴水も色とりどりの植栽も、我関せずというふうに。
現実から切り離された空間に、ユーゴは一瞬目が眩んだ。
今回のサディスティックな大量殺戮のただ一人の生存者及び目撃者であろう人物と話をするのにパティオを選んだのは、ここが唯一まともに呼吸ができる場所だからだった。
居住部分の建物内は惨殺屍体と夥しい血で溢れており、屍体を見慣れた軍人である自分でも平常心を保つのがやっとの状態だ。
「連れてきました」
武装した下級兵に連れてこられた人物は、最下層の使用人が着る野良作業服姿の痩せた青年だった。
「名前は?」
「ランス」
ランスはたじろぎ、緊張した面持ちでおずおずと名乗った。
犬が飼い主を見つめるようにユーゴを見つめている。
軍の司令官と直接話をすることに慣れていないのだろう、当然だ。
輝く銀糸で編まれた繊細な刺繍が施されたダークブラウンのローブコートを着た氷のように冷たいサファイアの瞳を持つ軍司令官と直接話をすることなど、この青年の一生のうちではまずもって有り得ないことだった。
ユーゴは、うつむきただ立ちすくむ青年に優しく声をかけた。
「ランス。わたしは軍司令官のユーゴ・グラシアだ。君のこの邸での役割を教えてほしい」
「おれは……ぼくは、下働きの厩番です。いつも厩舎にいます。旦那さまの軍馬に秣をやったり、馬装を整えたり……」
「なるほど。馬の世話係か。なぜ藁の中に隠れていた?」
この質問にランスは突然取り乱し、唾を飛ばして捲し立てた。
「な……なぜって!? あんな雷が落ちたような悲鳴を聞いて隠れないやつなんかいない! おれは寝床から叩き起こされたんだ! お邸で何が起こったかなんて知らない! 殺されるかと思ったんだ!」
混乱しているのか、すべてを否定したいのか、青年は頭を左右に激しく振った。
「口を慎め無礼者が。身分をわきまえろ」
ランスの背後に立つ下級兵が彼の首根っこをつかんで恫喝した。
ランスは明らかに動揺しており、しきりに自分はこの件に無関係だと訴えている。
ユーゴは小さくため息をついた。
領地の治安を守る民警の間では不法逮捕が横行している。
彼らは社会に影響を与えない――最下層の労働者や精神障害者、徘徊する者、など――人物であれば、誰でも(時にはわざわざ見繕ってでも)逮捕する。
そうやって、さっさと仕事終わりの酒にありつくのだ。
だが、ユーゴは民警ではない。
軍司令官であり、精霊魔法研究者である自身が出向いたのにはそれなりのわけがあった。
「かまわん。離してやれ」
ユーゴが命ずると下級兵はランスをぞんざいに突き放した。
「それでランス。悲鳴を聞いたのはいつ頃だ?」
ランスは何度か咳き込むと首を撫でながら答えた。
「今朝早い時間。夜が明けた頃だった。もの凄い悲鳴と何かが壊れる音……ゴホ……お邸の中から。盗賊に襲われているんだと思って、離れ小屋から出て急いで厩に隠れたんだ」
「君は、邸の中で起こった出来事を見ていないんだね?」
「見ていない。ずっと藁の中で震えていたから。だからおれは……ぼ、ぼくは何も知らないし、何も関わっちゃいないんです!」
「安心していい、ランス。君を疑ってはいない。邸内を検分したが、とても君のような普通の人間が行える所業ではない」
(そう、これは人間業ではない)ユーゴは心の中で呟いた。
「お邸の人たちは、どうなったんですか? 旦那さまは? 女中や使用人たちは?」
「君は新しい職を探した方がいい」
ユーゴは無関心に言った。
この憐れな青年から聞き出せることはほとんどなさそうだった。
“こいつは用済みだ”と、下級兵に指示を出すため片手を上げかける。
ランスはパティオの四方を囲む豪奢な邸を見上げると、唾を呑み込んだ。
「……まさか尒天彪」
自分が疑われていないと知ったランスはうっかり言葉を漏らした。
「なに?」ユーゴは上げかけた手を下ろした。
「いえ……あの……たぶんあれは盗賊の一人だったんだろうと……」
ランスは思い直したようにうつむくと口をつぐんだ。
「見たのか、盗賊を? いや、ジーテンドラと言ったか? 聞かせてくれ」
尒天彪という名前には聞き覚えがあった。
ユーゴは逡巡する痩せた小柄な青年を真正面から見下ろすと、言葉の続きを促した。
「次の働き口を見つけるのに手を貸してやろう」
気を良くした青年はすっかり話す気になった。
「藁の束の中で隠れていた時、お邸の方から出てきた盗賊の一人が馬房から奪った旦那さまのハンターに跨って逃げていくのを見ました。ぼくにはそれは尒天彪のように見えた。でも……違う。尒天彪はあんなんじゃない」
「あんなんじゃない、とは? 君の言う尒天彪とはいったい誰だ?」
「尒天彪は旦那さまがご友人から引き取られた捨て子で、このお邸の使用人です。愚図で使い物になりませんが、旦那さまは可愛がっておられました」
「その尒天彪が司令長官……、君の旦那さまの馬を奪って逃げたと?」
ランスは首を大きく振った。
「いえ、いえ。やっぱりあれは尒天彪じゃない。そんなはずがないです。そいつは全身から阿修羅のようなオーラを放っていました。とても尒天彪みたいなノロマなクズじゃない。今思えばどうして尒天彪だと思ったのか不思議です。そいつには額に眼がありましたし」
「額に眼!?」
「ここに」ランスは人差し指で自身の額の髪の生え際から眉間までをスッとなぞった。
「第三の眼……」
ユーゴはそう呟くと、指を曲げて下級兵を脇に呼び、手短に指示を出した。
††
ヴォリス・アルカージー参謀司令長官のペットであるオスのシロフクロウが甲高い声で鳴いている。
純白の羽根は真っ赤に染まり、片目が潰れていた。
軍の総司令官であるアンガー・ストレイファス将軍は朝から何も手がつかず、ただ自身の執務机に座っていた。
それはそばでひっきりなしに鳴いているシロフクロウのせいではなかった。
将軍は、ユーゴのもたらす報告を固唾を呑んで待っていた。
「ユーゴ・グラシア司令官閣下!」
近衛兵の抑揚のある甲高い声とともに執務室の扉が開き、ユーゴが姿を現した。
ストレイファスはさっと立ち上がった。
重い甲冑が互いに擦れて耳障りな音を立てた。
シロフクロウは鳴くのをやめ、無事な方の眼でユーゴを見つめた。
ユーゴは執務室の中央に進み出ると報告した。
「遅くなり申し訳ありません。厩番の青年に屍体の人物確認をさせたところ、いちいち気絶を繰り返すので手間取りました」
“屍体” “いちいち気絶” の単語にストレイファスは一瞬眉を吊り上げたが、ユーゴがもたらす悪魔のような最悪の報告に超然と構えた。
「ヴォリス・アルカージー参謀司令長官および奥方、以下使用人62名の屍体を確認しました。ですが、最下層の使用人の一人が行方不明です」
「誰だ」
「将軍閣下、あなたの嫡子“小茶彪”の異母兄、“尒天彪”が消えました」
シロフクロウが再びキィキィと鳴き出した。
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