聖典の守護者

らむか

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五章 那伽羅闍の落胤

那伽羅闍の末裔

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 窓越しに差し込む暖かい陽光に反して執務室は氷の膜が張ったようにキンと冷え込んだ。
 全身を重い甲冑プレートアーマーで武装した仁王のような男は窓辺に歩み寄ると陽の光に目を細めて呟いた。
「ヴォリスのシロフクロウの知らせをもっと早くに気づいてやれれば助けられた命もあったかもしれん」

 ユーゴはストレイファスの執務机の上で鳴いているシロフクロウの純白の羽根に付いた鮮血を見ながら言った。
「いえ、屍体を検分した限り、殺戮者は殺しに時間をかけていません。爆発的な力で一瞬で粉砕したように思います。このフクロウが閣下の邸の上空へたどり着いたもっと前にことは終わっていました」

 実務に忠実なユーゴの発言だけに、うわべだけの陳腐な慰めではなく実際そうなのだろうと、ストレイファスは思った。
「グラシア、なぜ尒天彪ジーテンドラ小茶彪こちゃとらの異母兄だと思ったのだ」

 ユーゴはシロフクロウから仁王に視線を向けた。
「まず、前提として彼らは捨て子でした。タオルに包まれ別々の場所に捨てられていた」

 ストレイファスはユーゴの言葉の続きを引き受けた。
「そうだ。日は違ったが、側溝に捨てられていたのを連れ帰った。おれには娘がいたが息子がおらず、ヴォリスには子供がいなかった。息子を欲しがっていたヴォリスに捨て子の一方を譲ったのだ。それが尒天彪ジーテンドラだよ」

 ユーゴはひとつ頷くと先を続けた。
「閣下は亜人種デミ・ヒューマンである那伽羅闍ナーガラージャの眷属をご存知でいらっしゃいますか。神話の時代より続く古い種族で、非常に特異で稀有な特徴を持っています」

 にわかに話の筋を変えたユーゴは一息つくとストレイファスの指示を待った。
 ストレイファスは眼顔で“続けろ”と伝えた。

那伽羅闍ナーガラージャの種族には特殊な能力があります。それは長子のみに受け継がれ……、いえ、正確にいうと、特殊能力遺伝因子が父親から長男へと受け継がれます。あくまで長男で、娘や弟たちへは受け継がれません。その特殊能力遺伝因子ですが、とても不安定な要素を持ち合わせています。一生のうち、どの段階で特殊能力が覚醒されるのかが不明です。たいていの場合、覚醒せずに保因者として一生を終えることのほうが多いようですが。この特異な特徴が那伽羅闍ナーガラージャの種族に関する知識が広く世に知れ渡らない原因となっています」

 場の空気を察したのか、シロフクロウは鳴くのをやめていた。

「率直に申し上げます。尒天彪ジーテンドラ小茶彪こちゃとらは、那伽羅闍ナーガラージャの末裔である可能性が高いのです。そして、ヴォリス・アルカージー参謀司令長官邸での殺戮は覚醒した尒天彪ジーテンドラの仕業であると、わたしは考えます」

「まさか……!」
 ストレイファスは食いしばった歯の間から息を吐いた。

「その理由は三つあります。まずひとつめに、使用人で消息不明者は尒天彪ジーテンドラただ一人です。ふたつめに、厩番の青年が尒天彪ジーテンドラらしき人物が馬で走り去るのを目撃しています。その人物は額に第三の眼があった。これは覚醒によって開眼する那伽羅闍ナーガラージャの特筆すべき身体的特徴です。そして最後に名前です。たしか、彼らの名前は将軍と司令長官がお付けになったのではなく、おくるみに付けられた名札に書かれていたのでしたね」

「そうだ、名前にしては珍しい呼び名だと思ったのだが……」

「わたしが尒天彪ジーテンドラ小茶彪こちゃとらの異母兄と申し上げたのはその名前です。“尒”には、小のうえに“ひとやね”がついています。小の上に立つと者と読めなくもありません」

 ユーゴは自身の状況的推論に確信を持ってはいたが、ストレイファスがこの推測の域を出ない憶測の理屈にどう反応するのか予測がつかなかった。
 しかし、最悪の事態を回避するために言っておかねばならない重要なことがまだあった。

「彼らの親が、おそらく父親でしょう。自身が那伽羅闍ナーガラージャの種族であり、かつ特殊能力保因者であると気づいた彼は、本妻と妾に産ませた長子を母親の目を盗んで捨てた。いつどのように覚醒するのかわからない爆弾のような我が子をそばに置いておくのに恐れをなしたのでしょう。名前を付けたのは父親としてのなけなしの最後の愛情だったのかもしれません」

 しんと静まり返る執務室にユーゴの職務的な抑揚のない淡白な声音が響いた。
 その響きはさざなみとなって漂い、ストレイファスの重い甲冑プレートアーマーの隙間から直接肌へと振動となって伝わった。

 ストレイファスは緊迫した室内から切り離された不相応に穏やかな窓外の景色からさっとユーゴに視線を向けると割れ鐘のような声で指示を出した。
尒天彪ジーテンドラを息のある状態で捕獲しろ。ユーゴ・グラシア、やつの逃げた先に予測はつくか」

 “捕獲”と言ったのはわざとだろうか……。
 将軍は意外なほどに自分の憶測の域を出ない状況的推論に信憑性を感じてくれたようだ、とユーゴは半ば胸を撫で下ろした。

「将軍閣下、那伽羅闍ナーガラージャは覚醒とともに開眼した第三の眼で遺伝子に刻まれたいにしえの記憶を見ると言われています。伝説では、覚醒した彼らが八人集まれば世界を統べるという……。おそらく尒天彪ジーテンドラ小茶彪こちゃとらの前に現れます。そして、彼の覚醒に手を貸し、彼を配下につけるでしょう」

 尒天彪ジーテンドラ小茶彪こちゃとらはともに騎士ナイトになるため、幼い頃から一緒に剣術の修行に励んでいた。
 しかし、尒天彪ジーテンドラはまったくふるわず、早々に諦め使用人になる道を選んだ。
 それでも、主人であるヴォリス・アルカージーは彼を可愛がり、放逐するようなことはしなかった。
 その尒天彪ジーテンドラが今や……。

 ストレイファスは懐旧の情にしばしとらわれたが、即座に現実に目を向けると首を振りながら呟いた。

「まさか……あの軟弱な尒天彪ジーテンドラがそのような企みを……」
 “とても信じられん”と続く言葉を呑み込んだ。
 実際に、厩番以外の者はすべて人の所業とは思えぬ形で殺されている。
 ことは急を要した。

「覚醒した尒天彪ジーテンドラは以前の尒天彪ジーテンドラではありません。それ相応の心構えで対峙せねばこちらもただでは済まないでしょう。ところで将軍、小茶彪こちゃとらは今どこに?」

「ロイド・ユーゲンバルトとともにいる」
 ストレイファスは即答した。

 ユーゴはロイドの名を聞いて一抹の不安を覚えた。
 脳裏に血生臭い光景がよぎる。
 彼は瞼を閉じると、その臭いや感触を頭から振り払った。

「北の湿地帯の蛮族がドルイドどもと結託し、再び境界線を越えて侵略してきた。ロイド・ユーゲンバルトが率いる傭兵部隊がその防衛にあたっている。小茶彪こちゃとら騎士ナイトに昇格したデビュー戦としてやつの指揮下に配属された」

 ストレイファスはユーゴに真正面から向き直ると、一寸の妥協も牢として許さぬ態度で厳命した。

「グラシア、行け。ダジェンカの砦へ」


 ††


 北の湿地帯との領土を分ける境界線に、堅牢な稜堡式要砦ダジェンカはあった。

 ――降伏しろ。さもなくば死ね――

 調停官メディエーターが蛮族の言葉で最後通告を出してから五日が経っていた。
 ドルイドどもと結託した北の蛮族は国境線から撤退する素振りも見せず、なおも侵略を繰り返していた。

 ダジェンカ要砦の中は、砂埃にまみれた意気軒昂な傭兵たちでごった返し、粘つく汗と、煙草と、錆びた鉄の鼻をつく臭気に満たされていた。
 砦の広間には守備隊の一団があちこちに小さなグループを作ってたむろしている。

 ネスタロフは仲間とカードをしていた。
 彼は前回カードでロイドに惨敗し、有り金の大半を巻き上げられていたのでその補填をしようと躍起になっていた。

 参戦している仲間は自分より弱そうなやつばかりなので、補填どころか一山稼げそうだ。
 彼はくわえ煙草でカードをきり、ほかに弱そうな雑魚がいないか辺りを見回した。

 広間の出入口にそわそわと落ち着かなげに右往左往している若者が目に入った。
「おい、新人! こっちへ来い!」
 若者はよたよたとネスタロフのカードの輪へ近づいてきた。
「おまえは今回新しく入った新米騎士だな。座れよ。仲間に入れてやる」
 ネスタロフは若者の肩に腕を回すとぐっと引き寄せ、無理矢理に座らせようとした。

「いえ……自分は司令官をお待ちしておりますので……」
 若者はどもりがちに辞退した。
「なに? 司令官殿をお待ちしているだと?」
 ネスタロフは若者に顔を近づけ問い返した。

 彼と輪になって座っている他の三人の兵士もこのやり取りに興味を持ったのか顔を上げた。

「ええ……」
「まさか、おまえは司令官殿のおこぼれを狙っているのではないよな」
 若者はネスタロフの嘲るようなわざとらしい言い方にとまどい、忙しなく視線を泳がせた。
「いえ、司令官はあとで取りに来いと言われました。 自分のあとで良いならくれてやる、と」

「さすが新人だ」
「ネスタロフ、可哀想だぞ」
「トラウマになったらどうする?」
 三人の兵士たちが次々と囃し立てた。

「ほんとうに司令官殿はと言ったのか? ではなくて?」

「はい……」

「なぁ新人。前線の経験はこれが初めてかもしれないが、司令官殿がどういう人物か、噂でも何かしら聞いたことがあるだろう?」

「はい、それはもう。この国で唯一ドラゴンを配下に持ち、戦場では自ら先陣を切って戦う双剣の魔法剣士スペルブレイド……」

 兵士たちのニヤニヤ笑いがさらに広がり、若者を揶揄する言葉を口にしては首を振ったり、指をさしたりしている。

「司令官でありながらどうして先陣を切るのか知っているか?」
 自分がなぜ馬鹿のように扱われているのか理解できず、若者はいよいよ動揺を隠せなくなっていた。

 ネスタロフは彼の耳元で囁いた。
「興奮するからさ」
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