いつか、ふたりで

ゆん

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柑子の香り

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覚えている。確かに約束した。

口に出し、言の葉を交わしたわけではないが、来世生まれ変わったなら、きっと心ゆくまで語り明かそうと──それは確かに私の望みでもあった。


「なー。覚えてんなら、話ははえーじゃん。付き合ってよ」


目の前の男。空海。もとい──海堂かいどう そら。身体強健、天衣無縫、目から鼻に抜ける鬼才、確かに、お前はかつてと変わらない。

だが、しかし──


「覚えているとはいってません。そんな気がすると──」
「気がする、でも構わねーよ。な。付き合って」
「話をするだけなら構いません。ですがそれ以上は──」
「いいよ?じゃあ、話だけ」


絶対、嘘だ。話だけの目じゃない。あわよくば、と目が言っている。


「すみません。やっぱりお断りします」


さっと踵を返し、すたすたと早歩きでその場から立ち去る──そのつもりだったが、かつてそうであったように、この男……そう簡単に、諦めはしない。


「なんでだよ!最澄!話だけでいーからさ!」
「私は三津野みつの真澄ますみです。最澄じゃありません」
「んじゃ、真澄ちゃん」
「馴れ馴れしい──」


まさか、出逢った途端に記憶が戻るなんて。今世でまたこの男に逢うなんて。べつに良かったんだ。あの時代、あの場所でこの男だけが真の理解者だった。だから、すべてのしがらみがなくなった世で存分に語り合ってみたいと、この男の世界に触れてみたいと──そう思ったのは、本心だ。

だが、それは──男に生まれたら、の話だ。


「率直に申し上げますが、あなたといると、身の危険を感じます。話だけ、というその言葉──信じられません」


海堂は、まったく悪びれず、むしろきらきらと子供のような目をして笑った。


「しょーがないじゃん。タイプなんだもん。あの頃からすげー好きだったけど。女に生まれて来てくれるなんてさぁ……こんなチャンス逃すわけねえだろ?」


記憶さえ蘇らなければ……この台風のような男に身をまかせても良かったかもしれない。
だが、そうはならなかった。つまり、返事はNO一択だ。
海堂がもっと弱々しい男なら。私がもっと男勝りの女なら。そんなもしもは考えても仕方がない。だからここはもう走って逃げるしか──

「あ、おい!」

許せ、空海。少し落ち着いて、お前の熱が冷めて、そうだ、私も筋トレでもしよう。そうしてお前に抵抗できる体を作ったら、その時は──はぁはぁ息を切らせて考えも覚束ないほど必死で走っているのに、海堂はゆうゆうと付いてくる。


「なあ、本気で走ってる?」
「~~~っ!ほん…っき…っですっ!!」
「いやぁ、最澄。お前、サイッコーに可愛く生まれてくれて、感謝感謝」


息が切れすぎて走れなくなり、膝に手をついて肩で息をする。無念。運動不足過ぎだ……







記憶が戻る前から、海堂のことは知っていた。

学部こそ知らなかったものの、絵画の世界的なコンクールで金賞を取ったとかで、大学新聞でもテレビでもネットニュースでも見た。

山岳部と言われても信じそうな山男っぽい風貌だが、とにかく明るくどこまでも自由で、恋人がちょくちょく変わるプレイボーイとしても有名だった。

私はといえば、田舎の旧家で文字通り箱入り娘として育てられ、去年大学進学を期に上京。頭の硬い両親に許してもらえず、アルバイトは禁止。門限付きの学生寮と大学の往復で、毎日を淡々と過ごしていた。

そんなある日、親友の光流ひかるが、至極まじめな顔で私を捕まえて言ったのだ。

「真澄。だめよ!このままじゃ!青春は瞬きの間に過ぎ去るの!ウチらが可愛いって言われるのも、今だけなのよ!」

光流も私と同じ田舎から上京してきたお上り組だ。私の家のようにかたくはないけれど、人見知りと緊張しいが災いしてか、念願の初恋人はまだゲットできていない。

「そういうわけで、とあるサークルのパーティに潜入します」
「へ!?」
「友達がおいでって言ってくれたの!かっこいい人が多いんだって。真澄も参加するって言っといたから」
「ええ~!?い、いい、私は──」
「お願い、真澄ぃ~~ひとりじゃ無理ぃ~ついてきて~~」

必死にお願いされたら断り切れず、仕方なく参加したアドベンチャーサークル  ”しーくえんす” のパーティ(ただの飲み会)。

今日こそは絶対に自分から話し掛ける!と意気込んで参加した光流は、飲み会開始直後に話し掛けてきた、ふんわりムードの男の子といい雰囲気になっている。

もうそれだけで、私は自分の使命を果たした気持ちで、ウーロン茶をちびちび飲みつつ、いつここを抜け出して帰ろうかと算段していた。

ところが──

「ね、君、名前なんてーの?」

不意に耳元に聞こえた声に体が跳ねた。振り返るまでの1秒、どこかで聞いたことがある声だ、と感じていた。

振り向いて、目が合った。

その瞬間に、まるで自分が今生きている場所がそっくりそのまま別の世界へ移動してしまったみたいに、この男のことを思い出したのだ。

空海。かつてそう呼ばれていた。

そして自分が、最澄、と呼ばれた僧侶だったことも。



「え……お前、最澄……?」

男は驚いたように目を見開いた。表情の大きな人で、そのあとにはもう、満面の笑みになる。

「えーー最澄じゃん!マジか!久しぶりだなぁ!」

素面の人間が聞いたら、何を言っている?と聞き咎めるところだろうが、宴もたけなわ、誰も私たちのことを気にしていない。

「空海……」
「あっやっぱ覚えてた?」
「い、いえ、そんな気がするなと──」

強すぎる男の圧に、思わず体がのけ反る。男は海堂 空と名乗り、あろうことか肩を抱いて私が持っていたグラスにビールジョッキをぶつけてきた。

「なー積もる話もあるじゃんか。抜け出そうぜ」
「え、」
「おーい松木ー!俺、ちょい抜ける~!」

呆然としている私の手を握り、ぐいぐいと引っ張って店の外に連れ出された。

「ま、待って、ちょっと」
「どこいこっか。俺の知ってる店でいー?」

ともかく、すごいエネルギーだ。海堂の手が私の腰を抱き、かつて同胞だった時の気持ちと、二十歳の男慣れしていない女としての気持ちが混ざって大混乱。

それなのに海堂は、私の動揺も、世間の常識も吹っ飛ばして、付き合ってくれ、と言い出した。

「もー段階踏むのめんどくせぇ。いいだろ?」
「よくありません!」
「なんで。お前も覚えてるよな?こんな奇跡は世界にふたつとないぜ」

そして、冒頭に戻る──というわけだ。

息を切らせて逃げようと試みるも、あえなく撃沈。

しぶしぶ、あそこのコーヒーショップなら!と、駅の改札ちかくにある店を指差した。飲み屋に連れていかれるよりはマシ、と導き出した妥協案だった。


海堂はシンプルにコーヒーを頼み、私は迷ってカモミールティーにした。こんな夜遅くにコーヒーを飲んだら眠れなくなる、という、ルーティン死守の自分が顔を出す。

海堂は、さっきから1ミリもよそ見をしない。私の顔を穴が空くほど見つめている。しかも異様に生き生きした目はすべてを見透かしそうで、私はごくりとお茶を飲み下しながら俯くしかなかった。

「嬉しいなぁ。お前、変わってない」

向かい合わせに座った狭いテーブルに肘をつき、目を細くする。
変わってない?そんなわけがない。まるっきり違うって言っていい。ただ──確かに私は私だ。それだけは間違いない。

「あの頃はさ、お前は7つも上だったし、教団を率いて大忙しだったし、俺の方もお上と地方と南山との行ったり来たりで時間がなかった。
それが今はどうだ。なあ。どれだけだって話せるぞ」

あまりにも懐かし気な、旧友に逢ったことを心から喜んでる声音に、素っ気なくし続けるのが申し訳ない気持ちになって顔を上げた。

声の調子と寸分のズレもない、温かい笑顔。
胸がずきんと切ない音を立てた。
気の遠くなるような時間と、あの軋轢の日々と、交わることが奇跡な縁が絡まりあって、互いを引っ張っている。

逢いたかった──

ただそう言えたら、どんなにいいか──

「私、も──懐かしい」

迷った結果、それだけを告げた。すると海堂は嬉しそうに頷いて、もっと覗き込むようにした。

私が話さなくても、海堂は構わず話を続けた。

聞いていても、海堂ほどはっきりと、出来事を覚えてはいなかった。ただ、学校で習ったことを思い出すのとは明らかに違う、心の奥から沸き上がる感情がつきまとった。



ふと、海堂が口を噤んだ。

聴くことに集中していた耳が声を探して、見つからなくて、思わず目をあげる。

視線が合った途端、体はどちらも動いていないのに、中に入り込まれるリアルな感触がある。それは念動力の一種で、あの頃、この男が面白がって見せた技のひとつだ。

思わず体ごと捩って、その束縛から逃れた。

「流石だな。分かるか」

海堂はニヤリと笑った。

「不躾ですよ。やめてください」
「だっていつもバレねえもん。真澄ちゃんくらいだぜ?抵抗してくんの」

悪びれることなくそう言い放ち、続けざまに「俺さ、あん時も今も、お前が好きだぜ」と、あまりにも真正面から、ブレのない言葉が飛んでくる。

この男の愛情ときたら、底抜けだ。

あの頃だってそうだ。それでいて、愛情に惑わされて妥協をするということがない。だから、ぶつかった。私が見つめる国の未来を同じように見ることが出来た、唯一の男。

道が交わった数年の蜜月ののち、相別れ、互いに千年続くこの国の仏道の礎を築き上げた。

思い浮かべることが出来る記憶はほとんどないのに、溢れそうになるこの想い──それを、海堂のように恋愛のそれへ結びつけるには、私の中の最澄は、かつての最澄でありすぎた。

「あなたのおっしゃる通り、確かに私には最澄だ、という感覚は残ってます。でもそれ以外の記憶はほとんどありませんし、今は三津野真澄なんです。そして、あなたのことは正直、苦手です」

親や友達に「もう少しオブラートに包んで」と注意される口調は、わざとそのまま出した。それは最澄であったときの感覚が、この男にはこれくらいはっきり言わないと伝わらないと直覚させていたからだった。

案の定、海堂はまるっきり気にした様子もなく、口元に笑みを浮かべたまま、私の次の言葉を待っている。

「聞こえました?」
「え、うん。可愛いなぁと思ってた」
「論点がずれてます」
「ふ、ふ、お前……ほんと、変わんねぇな」

圧倒的な存在感と、全肯定の場。それが、もっとも苦手なものなのだ。するりと懐に入り込まれ、何もかも根こそぎ持っていかれてしまうのではないかという不安に襲われる。

私はあの頃、御仏から授かった己の使命のために命を燃やしきった。私には「私個人の想い」や「私の人生」は必要なかったのだ。

一方、お前はあの頃から、お前自身であり続けた。お前自身でありながら、お前を超えたすべてのものと繋がっていた。それこそが菩提であると分かっていたが、私には、すべての人がそこへ辿り着ける道筋を作ると言う役割があった。

『お前は顕教、俺は密教で行くしかないだろう』

同じ道は歩めぬと互いが悟り、お前が苦々しさを隠しもせず手紙を送ってきた時。仏の道を歩む心には一片の曇りもなかったはずなのに、胸の奥がきしんでいた。

私にはない闊達さ。全力をぶつけても一切ぶれない大きさ。お前と一緒にあの高みに行けたなら──それは、あの頃の私が意識の光の当たる場所へは絶対に上らせなかった本音だった。

「あなたも変わりません。不躾で図々しいし、自信過剰だし」
「おいおい、ひでぇ言いぐさだな。いいとこもあるだろ」

海堂が半笑いでコーヒーを口に運ぶ。

むしろ好い所しかないのだ。不躾と言ったものの、当然相手を見極めてのことではあるし、相手が誰であっても物怖じしないところが、この男のこの男たる所以なのだから。

口をつけやすい温度になったカモミールティーを口に運ぶと、少し野性味のあるハーブの香りが鼻の奥に広がる。懐かしい、山の記憶。山岳修行では欠かせぬ山野草の知識は、今はピントの合わない写真のようにぼやけてしまっている。

海堂はカップにはめられていた蓋を外し、上から掴むように持って、コーヒーを一気に煽った。懐かしさが込み上げ、思わず笑みがこぼれる。

「飲み方まで変わりませんね。小椀の薬茶を一気飲みしていたのを思い出します」

すると海堂は、一呼吸ほど真顔になって私を見つめた。

「ナンパとかお前が好きじゃねぇのは分かってっけどさ。俺のマジ、どう言ったら分かってくれる?」

熱量がそのまま表れているこの男の目力に掴まってしまい、言葉に詰まる。あの頃まともに顔を合わせられたのは、私が私でなかったからだ。

仏の手足となり、教えを体系化すること、その教えを広めるための人材を育成するシステムを作り上げること、そのためにのみ、頭脳を使っていた。

そうでなければ人好きのするこの男から向けられた好意を、顔色一つ変えずに受け取れたはずがない。

その証拠に、今、自分の頬が熱くて熱くてたまらない。

「なぁ、さっき苦手とか言ってたけど。俺のこと好きだろ。どう見ても」
「いえ。苦手です。二言はありません」
「いやいや……強情だな。変わんねえな、おい」

思わず、吹き出した。二人揃って。

ああ、本当に懐かしい。乙訓寺おとくにでらで語り明かした夜を思い出す。私にとって、全身全霊でぶつかれる相手はこの男だけだった。そしてこの男にとっても……私はそういう存在だったに違いない。

切望した交わりが、今になって訪れたというのか。

「男女の関係にならないと約束できるなら、お友達になっても構いません」
「男女の関係って……お前が言うとかえって生々しいな」
「わ、わざとです!はっきり言わないとあなたは自分の都合良く──」

私は取り繕ったけれど、海堂のすべてを呑む眼差しを前に、それ以上何も言えなくなる。

カモミールティーも飲み切ってしまっている。カップの底に細く縁取るように残った液体は、束の間の時間稼ぎさえ出来そうにない。

「いいぜ。お前がいいって言うまで手は出さない」

何故か泣きたい気持ちになったけれど、私の中の最澄はそんな素直な男ではなかった。

「いいって言いませんよ」
「うんうん。分かってるって」
「ずっと、言いませんよ」
「分かった分かった。な、この後どこ行く?」

私のカップを自分のに重ねて立ち上がりながら、海堂が機嫌よく訊いてきた。

「門限がありますから帰ります」
「マジで?」
「本当です」
「難攻不落だなぁ」

その口調は困った風でありながら、表情はむしろ楽し気だった。
それすらも懐かしい。誰もが見られるわけではない涅槃寂静ねはんじゃくじょうの景色を私に伝えてきたお前の少し無邪気な笑顔が、海堂の顔に重なる。

いつか、ふたりで。

なんとあたたかな言葉か。

それは千年を遡るあの寺の庭の、爽やかな柑橘の香りがよく似合う。

私は肩を抱いてきた海堂の手から逃れながら、笑う口元を隠すように拳を当てた。



END

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