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湖底の記憶
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遠くから近づく足音が、「真澄!」という呼びかけと共に間近で止まった。
振り返ると光流が目をまんまるくして、かつ食い気味に私に詰め寄る。
「あんた……か、海堂先輩と付き合いだしたってほんと!?」
鼻息フンフン、目をキラキラさせている光流を、どうどうと宥めながら、私は「付き合ってない。友達になっただけ」と事実のままを伝えた。
「友達!?いや、ないでしょ。海堂先輩だよ!?」
「なくないの。友達でって約束したし」
「その言い方、もしかして海堂先輩に迫られた!?」
「う……うん。でも友達だから」
光流は頭を抱えて我がことのように「ノー!」と唸っている。
それにしても海堂は随分口が軽いらしい。もう光流にまで話が伝わっているなんて。
「何言ってんの!昨日途中で消えたくせに!海堂先輩の次のターゲットはあんただって、みんなざわついてたよ!」
言われてみれば、確かにそうだ。みんな酔っていて気づいてないだろうと思ったが、幹事に大声で声をかけていたし、日常的に目立っている男の言動は、誰かしらがチェックしていてもおかしくない。
光流は海堂の彼女になったら自慢できるのに、と惜しそうな顔をした。
「自慢するために付き合うもんじゃないの。それはそうと、光流のほうは?なんか優しそうな人と話が弾んでたでしょ」
「あっそれ訊く?訊いちゃう?うふふふ……」
「え、まさか」
「連絡先交換したし、今度映画に行こうって。どうしよう。どうしよう!ついにウチにも春が……!顔が笑っちゃう!」
なんでも、飲み会が始まってすぐに光流に話しかけてきた人、泉さんは、海堂と同じ3年生。海堂とも仲が良く、穏やかで聞き上手な人らしい。
光流も大概お人よしで損な役回りになることが多いタイプだけに、大事にしてくれそうな男の人から声を掛けられたことは、親友の私もとても嬉しい。
海堂はと言えば、昨日の夜から今現在まで3通、せっせとメールを送り付けてくる。
『は?LIMEやってねーの?イムスタは?』
『してません』
『マジで?今どき?連絡はどうやって──』
『メールです』
愕然とした海堂の顔を思い出して口元がむずむずした。何にも動じないあの男を少しでも驚かせられて、何故か胸のすく思いがする。
それに──意外なようで意外ではないが、海堂は普段の喋り口調とは打って変わって美しい文を書いた。さすがに当時のままの駢儷体とは言わないが、あの男の広大でありながら緻密に構成された思考が、文に現れ出ていた。
墨筆でないのが残念だ、と思う。
空海と呼ばれていた頃の、一度見れば忘れることが出来ない華麗な文字。それは文字であって文字ではなかった。
見たものにしか分からないだろう。まるでホログラムのように、書き表された文字以上の情報が、そこに立ち上がっているのだ。
やがてそれは立体曼荼羅に発展したが、仏像が目に見える物体である分、むしろ伝えられる情報は狭まった。可視の部分に表されてしまえば、不可視の部分が制限されてしまうからだ。
私はあの男の文が好きだった。
それを今、手のひらサイズの画面が思い出させてくれる。
『こんなに回りくどい連絡方法も、俺と君とのはじまりを思えば似合いかもしれない。ところで、今日の空き時間を教えてくれたら、俺は何を差し置いても君に逢いに行く。5分でもいい。そのぐらいの慈悲が、転生した君に残っていることを願って。』
どんな顔でこの文を打ったのか、と思う。
いや、あの頃からそうだった。あの男には固定の「自分」など、あって無いに等しい。そんなものには捕らわれないし、いつだって思うがまま、自由自在なのだ。
私は、居場所とフリーの時間を分単位で書いて送った。
海堂は秒で謝意を示す返事を寄越し、その時間になると、飄々とした様子で姿を現した。
「真澄ちゃん、おつおつー」
にこっと屈託のない笑みを浮かべ、片手を上げる。分かっていたが、文面とはかけ離れた馴れ馴れしさだ。
「お疲れ様です」
「今日も可愛いね。お茶しよっか」
「……」
「何?」
「あなたとは、文通の方が良いような気がします」
真面目に言ったのに、海堂は即座に吹き出した。
「文通って……!まぁ真澄ちゃんらしいけど。好きな店があるんだ。ちょっと歩くけど、構内のカフェより人少ないから、そっちに行こ」
私がどう思おうとお構いなしな強引さで、でも歩く速度はさりげなく私に合わせて……こういうところがずるいのだ、と思いながら、黙って隣を歩いた。
海堂が好きだというその店は、大学を出て雑居ビルが立ち並ぶエリアの大通りから外れた一角にあった。
ファサードの全面ガラスから見える店内はギャラリー風に光を抑えられている。奥に数席カフェスペースがあるが、あくまでメインはぽつりぽつりと写真の飾られたその空間の方だった。
海堂が開いてくれた木製のドアから中に入ると、シックなワインレッドの絨毯が足音を吸い取る。
街の喧騒をドアが再び隔てると、図書館のような静けさが私を温かく迎えた。
「ね、これ見て」
海堂が指したのは、真四角のフレームに入れられた一枚の写真。街角に停まるレトロな車と小さな子供が写された白黒写真だった。写真のことは全然分からないけれど、視点がなんとなく優しい。
ふと見ると、下の小さなプレートに「泉 智久」とある。私は光流を思い出して、海堂を見上げた。
それだけなのに、海堂は私の言いたい事が聞こえたかのように「そうそう。その、泉。あいつ、写真やってるんだ」と小声で言った。
「光流ちゃんとうまくいきそうなんだって?あ、そうだ。一緒に映画行かないかって誘われたんだよ。予定合わせよ。はい、どうぞ」
さらっと一息に言って、私のために椅子を引く。反射で静かに腰を下ろしながら、何から返せばいいのか戸惑う。
そもそも光流ちゃんて。光流と面識があった?そんなことは光流からは聞いていない。だとすれば泉さんから聞いたということだ。人から聞いただけで ”ちゃんづけ” とは、さすが馴れ馴れしさの帝王。
それからなんだ、映画?今朝光流が「映画に行く約束をした」と言っていたっけ。何故そこに私が、海堂と──
はっと我に返ると、向かいに座った海堂が片頬杖で面白そうに私を見ている。
「あの……映画って、あのふたりは、デートじゃないんですか」
「そうそう。ダブルデートってこと。いいだろ?」
「私とあなたは友達でしょう」
「いいじゃん、デートぐらい。泉が、ふたりっきりだと彼女も緊張するだろうからって言ってんだよ。友達のためだろ?利他行だよ。利他行」
海堂が、少し意地の悪い笑みを見せた。
かつて私たちが訣別した理由に、他人を益する「利他」の考えの相違も含まれていた。法華経の世界観を愛していた私は、自分を忘れて他を利することを信条としていたが、海堂──いや、空海は、己が満たされたときに溢れ出したものこそが、真の意味で他を利するのだ、と、私の姿勢を真正面から批判した。
それを、今言う。お得意だろ、と言いたいのだ。
じろりと睨むと、海堂はますます楽しそうに笑みを深くした。
「悪い。可愛いから、つい。でもほんと映画見に行くだけだって。あ、何にする?ハーブティは無いけど、ここの紅茶結構いけるよ」
メニューをこちらに向けてきて、私がダージリンティを指さすと、ウエイターも兼ねているらしい店内スタッフを呼んで注文を済ませた。
まったく、この男はいつもこんな調子でいつの間にか自分のペースに持ち込むのが本当に上手い。それが分かっているのに鼓動を早くする自分も、少し悔しい。
結局ムキになって行かない、と主張するのもおかしい流れに持ちこまれて、休日の候補日まで聞き出されてしまった。
なんだか納得がいかないという気持ちも、運ばれてきたダージリンティの深みのあるオレンジ色と、立ち上る湯気の豊かな香りに宥められる。
そんなタイミングさえ、この男の味方なのだ。
カップの持ち手に指を掛けると、繊細な磁器の質感が伝わってくる。ウエッジウッドのフロレンティーン、ターコイズ。実家にあったものとは型が違うが、私の好きなデザインだ。
何より色が好きだ。金の模様を浮かべるターコイズブルーは明るい陽光に照らされた湖水のようだ、といつから思っていただろうか。思えば、かつての私が生まれたのも湖の傍だった。その記憶はこの男に逢うまで湖底に沈んでいたけれど。
海堂はアメリカンを頼み、いつものようにカップを上から掴んで酒でも飲むような陽気さでコーヒーをすすった。
おかしな飲み方だが、何故かこの男にかかると「個性」の一言で片づけられてしまう問答無用の存在感がある。
「うま。豆も葉っぱも淹れ方も食器もこだわってるのにさ、全然商売っ気ないんだよ。ここ、知り合いの店なんだけど」
「そうなんですか。紅茶も、とても美味しいです」
「おっいい顔!」
海堂が指でファインダーを作り、私の顔を切り取るように覗き込む。恥ずかしくなって目を逸らすが、海堂は構わず話題を変えて私を翻弄した。
まるっきり変わっていない。
目の前の男はTシャツにパンツの現代人だが、あの頃の、どっかりと板の間に腰を下ろして胡坐を組み、胸元の合わせから手を入れて無造作に掻いていた野性味のある姿が無理なく重なる。
人は皆、この男を好いた。
いつも親しみやすい笑顔を浮かべ、あちらこちらへ顔を出し、庶民から貴族まで分け隔てなく接し、それでいて驚くべき博覧強記、いつどんな方向から話をしても、その的を外すことがなかった。
私も──好きだったのだろう。
定かでないのは私が己を空しくしていたからで、今となっては、想像するよりほかなかったが。
「なあ。楽しいな。こんな時間……贅沢だ」
ぽつり、と海堂が呟いた。
私はその素直な声音に誘われて、うん、と頷いた。真澄として、というよりはかつての私として。それを海堂は正確に聞き取って、最澄、と私を呼んだ。
「今は俺もお前も、何にも縛られてはいない。お前はどうしたい?」
いつもの軽口は鳴りを潜め、私の隙をついて真摯な言葉が滑り込む。
「私は──」
どうしたいんだろう。あの頃、私はどうしたかった。
もっと話したかった。心ゆくまで。
彼の見てきたこと、聞いたこと、感じたことを、時間を忘れて話してもらいたかった。
「お前と、話がしたい」
そのままの気持ちを届けるように口にすると、海堂は「もう叶ってる!」と声を上げて笑った。
「ずっとそんな感じでいてくれよ。俺はあの時間を取り戻したい。俺に後悔がないと思ったか?」
かつての朋友の眼差しを受けて、なぜか胸が甘く痛む。
これは、真澄の気持ちだ。
私はそっと目を閉じ、耳の奥に蘇る、あの山寺の唸るようだった蝉の声を聞いていた。
振り返ると光流が目をまんまるくして、かつ食い気味に私に詰め寄る。
「あんた……か、海堂先輩と付き合いだしたってほんと!?」
鼻息フンフン、目をキラキラさせている光流を、どうどうと宥めながら、私は「付き合ってない。友達になっただけ」と事実のままを伝えた。
「友達!?いや、ないでしょ。海堂先輩だよ!?」
「なくないの。友達でって約束したし」
「その言い方、もしかして海堂先輩に迫られた!?」
「う……うん。でも友達だから」
光流は頭を抱えて我がことのように「ノー!」と唸っている。
それにしても海堂は随分口が軽いらしい。もう光流にまで話が伝わっているなんて。
「何言ってんの!昨日途中で消えたくせに!海堂先輩の次のターゲットはあんただって、みんなざわついてたよ!」
言われてみれば、確かにそうだ。みんな酔っていて気づいてないだろうと思ったが、幹事に大声で声をかけていたし、日常的に目立っている男の言動は、誰かしらがチェックしていてもおかしくない。
光流は海堂の彼女になったら自慢できるのに、と惜しそうな顔をした。
「自慢するために付き合うもんじゃないの。それはそうと、光流のほうは?なんか優しそうな人と話が弾んでたでしょ」
「あっそれ訊く?訊いちゃう?うふふふ……」
「え、まさか」
「連絡先交換したし、今度映画に行こうって。どうしよう。どうしよう!ついにウチにも春が……!顔が笑っちゃう!」
なんでも、飲み会が始まってすぐに光流に話しかけてきた人、泉さんは、海堂と同じ3年生。海堂とも仲が良く、穏やかで聞き上手な人らしい。
光流も大概お人よしで損な役回りになることが多いタイプだけに、大事にしてくれそうな男の人から声を掛けられたことは、親友の私もとても嬉しい。
海堂はと言えば、昨日の夜から今現在まで3通、せっせとメールを送り付けてくる。
『は?LIMEやってねーの?イムスタは?』
『してません』
『マジで?今どき?連絡はどうやって──』
『メールです』
愕然とした海堂の顔を思い出して口元がむずむずした。何にも動じないあの男を少しでも驚かせられて、何故か胸のすく思いがする。
それに──意外なようで意外ではないが、海堂は普段の喋り口調とは打って変わって美しい文を書いた。さすがに当時のままの駢儷体とは言わないが、あの男の広大でありながら緻密に構成された思考が、文に現れ出ていた。
墨筆でないのが残念だ、と思う。
空海と呼ばれていた頃の、一度見れば忘れることが出来ない華麗な文字。それは文字であって文字ではなかった。
見たものにしか分からないだろう。まるでホログラムのように、書き表された文字以上の情報が、そこに立ち上がっているのだ。
やがてそれは立体曼荼羅に発展したが、仏像が目に見える物体である分、むしろ伝えられる情報は狭まった。可視の部分に表されてしまえば、不可視の部分が制限されてしまうからだ。
私はあの男の文が好きだった。
それを今、手のひらサイズの画面が思い出させてくれる。
『こんなに回りくどい連絡方法も、俺と君とのはじまりを思えば似合いかもしれない。ところで、今日の空き時間を教えてくれたら、俺は何を差し置いても君に逢いに行く。5分でもいい。そのぐらいの慈悲が、転生した君に残っていることを願って。』
どんな顔でこの文を打ったのか、と思う。
いや、あの頃からそうだった。あの男には固定の「自分」など、あって無いに等しい。そんなものには捕らわれないし、いつだって思うがまま、自由自在なのだ。
私は、居場所とフリーの時間を分単位で書いて送った。
海堂は秒で謝意を示す返事を寄越し、その時間になると、飄々とした様子で姿を現した。
「真澄ちゃん、おつおつー」
にこっと屈託のない笑みを浮かべ、片手を上げる。分かっていたが、文面とはかけ離れた馴れ馴れしさだ。
「お疲れ様です」
「今日も可愛いね。お茶しよっか」
「……」
「何?」
「あなたとは、文通の方が良いような気がします」
真面目に言ったのに、海堂は即座に吹き出した。
「文通って……!まぁ真澄ちゃんらしいけど。好きな店があるんだ。ちょっと歩くけど、構内のカフェより人少ないから、そっちに行こ」
私がどう思おうとお構いなしな強引さで、でも歩く速度はさりげなく私に合わせて……こういうところがずるいのだ、と思いながら、黙って隣を歩いた。
海堂が好きだというその店は、大学を出て雑居ビルが立ち並ぶエリアの大通りから外れた一角にあった。
ファサードの全面ガラスから見える店内はギャラリー風に光を抑えられている。奥に数席カフェスペースがあるが、あくまでメインはぽつりぽつりと写真の飾られたその空間の方だった。
海堂が開いてくれた木製のドアから中に入ると、シックなワインレッドの絨毯が足音を吸い取る。
街の喧騒をドアが再び隔てると、図書館のような静けさが私を温かく迎えた。
「ね、これ見て」
海堂が指したのは、真四角のフレームに入れられた一枚の写真。街角に停まるレトロな車と小さな子供が写された白黒写真だった。写真のことは全然分からないけれど、視点がなんとなく優しい。
ふと見ると、下の小さなプレートに「泉 智久」とある。私は光流を思い出して、海堂を見上げた。
それだけなのに、海堂は私の言いたい事が聞こえたかのように「そうそう。その、泉。あいつ、写真やってるんだ」と小声で言った。
「光流ちゃんとうまくいきそうなんだって?あ、そうだ。一緒に映画行かないかって誘われたんだよ。予定合わせよ。はい、どうぞ」
さらっと一息に言って、私のために椅子を引く。反射で静かに腰を下ろしながら、何から返せばいいのか戸惑う。
そもそも光流ちゃんて。光流と面識があった?そんなことは光流からは聞いていない。だとすれば泉さんから聞いたということだ。人から聞いただけで ”ちゃんづけ” とは、さすが馴れ馴れしさの帝王。
それからなんだ、映画?今朝光流が「映画に行く約束をした」と言っていたっけ。何故そこに私が、海堂と──
はっと我に返ると、向かいに座った海堂が片頬杖で面白そうに私を見ている。
「あの……映画って、あのふたりは、デートじゃないんですか」
「そうそう。ダブルデートってこと。いいだろ?」
「私とあなたは友達でしょう」
「いいじゃん、デートぐらい。泉が、ふたりっきりだと彼女も緊張するだろうからって言ってんだよ。友達のためだろ?利他行だよ。利他行」
海堂が、少し意地の悪い笑みを見せた。
かつて私たちが訣別した理由に、他人を益する「利他」の考えの相違も含まれていた。法華経の世界観を愛していた私は、自分を忘れて他を利することを信条としていたが、海堂──いや、空海は、己が満たされたときに溢れ出したものこそが、真の意味で他を利するのだ、と、私の姿勢を真正面から批判した。
それを、今言う。お得意だろ、と言いたいのだ。
じろりと睨むと、海堂はますます楽しそうに笑みを深くした。
「悪い。可愛いから、つい。でもほんと映画見に行くだけだって。あ、何にする?ハーブティは無いけど、ここの紅茶結構いけるよ」
メニューをこちらに向けてきて、私がダージリンティを指さすと、ウエイターも兼ねているらしい店内スタッフを呼んで注文を済ませた。
まったく、この男はいつもこんな調子でいつの間にか自分のペースに持ち込むのが本当に上手い。それが分かっているのに鼓動を早くする自分も、少し悔しい。
結局ムキになって行かない、と主張するのもおかしい流れに持ちこまれて、休日の候補日まで聞き出されてしまった。
なんだか納得がいかないという気持ちも、運ばれてきたダージリンティの深みのあるオレンジ色と、立ち上る湯気の豊かな香りに宥められる。
そんなタイミングさえ、この男の味方なのだ。
カップの持ち手に指を掛けると、繊細な磁器の質感が伝わってくる。ウエッジウッドのフロレンティーン、ターコイズ。実家にあったものとは型が違うが、私の好きなデザインだ。
何より色が好きだ。金の模様を浮かべるターコイズブルーは明るい陽光に照らされた湖水のようだ、といつから思っていただろうか。思えば、かつての私が生まれたのも湖の傍だった。その記憶はこの男に逢うまで湖底に沈んでいたけれど。
海堂はアメリカンを頼み、いつものようにカップを上から掴んで酒でも飲むような陽気さでコーヒーをすすった。
おかしな飲み方だが、何故かこの男にかかると「個性」の一言で片づけられてしまう問答無用の存在感がある。
「うま。豆も葉っぱも淹れ方も食器もこだわってるのにさ、全然商売っ気ないんだよ。ここ、知り合いの店なんだけど」
「そうなんですか。紅茶も、とても美味しいです」
「おっいい顔!」
海堂が指でファインダーを作り、私の顔を切り取るように覗き込む。恥ずかしくなって目を逸らすが、海堂は構わず話題を変えて私を翻弄した。
まるっきり変わっていない。
目の前の男はTシャツにパンツの現代人だが、あの頃の、どっかりと板の間に腰を下ろして胡坐を組み、胸元の合わせから手を入れて無造作に掻いていた野性味のある姿が無理なく重なる。
人は皆、この男を好いた。
いつも親しみやすい笑顔を浮かべ、あちらこちらへ顔を出し、庶民から貴族まで分け隔てなく接し、それでいて驚くべき博覧強記、いつどんな方向から話をしても、その的を外すことがなかった。
私も──好きだったのだろう。
定かでないのは私が己を空しくしていたからで、今となっては、想像するよりほかなかったが。
「なあ。楽しいな。こんな時間……贅沢だ」
ぽつり、と海堂が呟いた。
私はその素直な声音に誘われて、うん、と頷いた。真澄として、というよりはかつての私として。それを海堂は正確に聞き取って、最澄、と私を呼んだ。
「今は俺もお前も、何にも縛られてはいない。お前はどうしたい?」
いつもの軽口は鳴りを潜め、私の隙をついて真摯な言葉が滑り込む。
「私は──」
どうしたいんだろう。あの頃、私はどうしたかった。
もっと話したかった。心ゆくまで。
彼の見てきたこと、聞いたこと、感じたことを、時間を忘れて話してもらいたかった。
「お前と、話がしたい」
そのままの気持ちを届けるように口にすると、海堂は「もう叶ってる!」と声を上げて笑った。
「ずっとそんな感じでいてくれよ。俺はあの時間を取り戻したい。俺に後悔がないと思ったか?」
かつての朋友の眼差しを受けて、なぜか胸が甘く痛む。
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