36 / 36
第九話
藤原三兄弟(1)
しおりを挟む
その夜、安倍晴明は自宅の縁側に出て、漆黒の夜空にちりばめられた星を眺めながら、筆を執っていた。
闇の中、晴明の手元には灯りはなかった。それは手元の灯りが星を詠む妨げになると考えているためであり、星の輝きひとつ見逃すまいとする晴明の天文道に対する心構えでもあった。
この年、晴明は天文博士に任命されていた。元の天文博士である加茂憲保は、所属が陰陽寮のある中務省から民部省へと異動となり、主計寮を取り仕切る主計頭となっていた。
「父上、こちらにおられたのですか」
背後に気配があり、次男の吉昌がやって来たことがわかった。しかし、晴明は夜空から目を逸らすことはなく、筆を走らせている。
父が夜空を見上げている時は邪魔をしてはならない。それは吉昌も重々承知していることだった。そのため、晴明から少し離れた場所に腰を下ろし、晴明の仕事が終わるのを待った。
星を眺めるのは、この親子にとっての日常であると同時に、仕事でもあった。吉昌も晴明と同じ道を歩みはじめていた。現在は陰陽寮で天文得業生として、天文道を学んでいるのだ。
しばらくして筆を置いた晴明は、振り返ると吉昌のことを見た。吉昌は、まだ十五歳。元服をしたばかりだった。顔には幼さをだいぶ残しており、晴明から見るとまだまだ子どもにしか見えなかった。
「どうかしたのか、吉昌」
「兄上が、まだ戻っておられません」
「吉平が?」
「はい。いつもでしたら、すでに戻っておられるはずなのですが」
「ふむ……」
安倍吉平は晴明の長男であり、吉昌より1つ年上だった。吉平も吉昌と同様に陰陽寮の学生となっており、吉平は陰陽学生として陰陽道を専攻していた。
まだ帰らないといっても、普段より二刻ほど遅いだけであった。だが、妻が心配しているのだろう。それを聞いた吉昌がわざわざ言いにきたに違いなかった。
吉平と吉昌には、式人が一名ずつついていた。しかし、本人たちには言っておらず、知っているのは晴明と式人たちだけである。だからというわけではないが、晴明は少しくらい帰りが遅くても気にはしていないのだった。
ただ、道摩の動きが気になるところでもあった。以前、道摩に捕らえられた式人が晴明の家族についての情報を漏らしてしまっている。あれ以来、道摩の目立った動きはなくなったが、却ってそれが不気味に感じられていた。
「では、私が見てこよう。吉昌は待っておれ」
「私も連れて行ってはもらえませぬか」
どういう風の吹き回しだろうか。晴明はそう思ったが、たまにはいいかと思い、吉昌の同行を許可した。
月明かりがあるとはいえ、松明でも持っていなければ洛中であっても真っ暗であった。
道を歩くのは晴明と吉昌のふたりだけに思えるが、その周りには数人の式人がいる。式人たちは闇に紛れながらも晴明の警護をしているのだ。
松明の灯りを頼りに歩いていると、どこからか笛の澄んだ音色が聞こえてきた。そういえば、この辺りは笛の名手といわれる源博雅の屋敷が近いはずだ。きっとこれは博雅の龍笛であろう。博雅は中将の職を降り、いまは皇太后宮権大夫という皇后宮職の長となっており、内裏務めであることから、あまり晴明と顔を合わすことはなくなっていた。
「父上は、あの星をどう見ますか」
不意に吉昌が話しかけてきた。
吉昌の指した方へ目を向けると、そこにはひと際輝く星が存在していた。
その星の輝きは、晴明も数日前より気になっていた星でもあった。以前、晴明はあの星を藤原兼家であると見立てたことがあった。今回も同じように見るとするのであれば、なにやら不穏な空気を感じざる得なかった。
現在の朝廷は、兼家の長兄である伊尹が摂政に就き、幼い帝に代わり朝廷を動かしていた。兼家は中納言、兼春宮大夫、兼右近衛大将という役職に就いており順風満帆のように思えた。
また次兄である兼通は讃岐守、兼美濃守といった地方長官に就き、冷や飯を食う状態が続いているが、いずれは中央の職に戻るのではないかという見方が強かった。
ただ、妙な噂も聞いたことがあった。それは帝が兼家のことを嫌っているのではないかという噂であった。なにかの折に、兼家が帝の機嫌を伺ったところ、帝は兼家のことを無視したという噂が女房たちの間で一時期話題となっていたのだ。所詮そのようなものは噂に過ぎない。その噂を耳にした時は晴明も笑って聞き流していたが、星の様子などを見ていると、噂も馬鹿にすることはできないのではないかと思わされていた。
「父上、吉昌。どうされたのですか、こんな時間に」
声が聞こえたため晴明が視線を向けると、そこには吉平の姿があった。
「兄上を迎えに来たのです」
「そうか。きょうは書を読んだりしていて、少し遅くなってしまったのだ。許せ、吉昌」
「では、共に帰りましょう」
ふたりの会話を聞いて、晴明は思考を中断させた。
吉平と吉昌は仲の良い兄弟だった。かつて、藤原兼通と兼家も仲の良い兄弟だったとは聞いているが、いまでは犬猿の仲である。藤原兄弟の仲がこじれたのは、お互いの出世に絡んだ争いからだったそうだ。いまは長兄である伊尹がいるから何とかまとまってはいるが、伊尹が没した後はどうなってしまうのだろうか。
晴明は星空を見上げながら、顎に伸びた髭を撫でた。
闇の中、晴明の手元には灯りはなかった。それは手元の灯りが星を詠む妨げになると考えているためであり、星の輝きひとつ見逃すまいとする晴明の天文道に対する心構えでもあった。
この年、晴明は天文博士に任命されていた。元の天文博士である加茂憲保は、所属が陰陽寮のある中務省から民部省へと異動となり、主計寮を取り仕切る主計頭となっていた。
「父上、こちらにおられたのですか」
背後に気配があり、次男の吉昌がやって来たことがわかった。しかし、晴明は夜空から目を逸らすことはなく、筆を走らせている。
父が夜空を見上げている時は邪魔をしてはならない。それは吉昌も重々承知していることだった。そのため、晴明から少し離れた場所に腰を下ろし、晴明の仕事が終わるのを待った。
星を眺めるのは、この親子にとっての日常であると同時に、仕事でもあった。吉昌も晴明と同じ道を歩みはじめていた。現在は陰陽寮で天文得業生として、天文道を学んでいるのだ。
しばらくして筆を置いた晴明は、振り返ると吉昌のことを見た。吉昌は、まだ十五歳。元服をしたばかりだった。顔には幼さをだいぶ残しており、晴明から見るとまだまだ子どもにしか見えなかった。
「どうかしたのか、吉昌」
「兄上が、まだ戻っておられません」
「吉平が?」
「はい。いつもでしたら、すでに戻っておられるはずなのですが」
「ふむ……」
安倍吉平は晴明の長男であり、吉昌より1つ年上だった。吉平も吉昌と同様に陰陽寮の学生となっており、吉平は陰陽学生として陰陽道を専攻していた。
まだ帰らないといっても、普段より二刻ほど遅いだけであった。だが、妻が心配しているのだろう。それを聞いた吉昌がわざわざ言いにきたに違いなかった。
吉平と吉昌には、式人が一名ずつついていた。しかし、本人たちには言っておらず、知っているのは晴明と式人たちだけである。だからというわけではないが、晴明は少しくらい帰りが遅くても気にはしていないのだった。
ただ、道摩の動きが気になるところでもあった。以前、道摩に捕らえられた式人が晴明の家族についての情報を漏らしてしまっている。あれ以来、道摩の目立った動きはなくなったが、却ってそれが不気味に感じられていた。
「では、私が見てこよう。吉昌は待っておれ」
「私も連れて行ってはもらえませぬか」
どういう風の吹き回しだろうか。晴明はそう思ったが、たまにはいいかと思い、吉昌の同行を許可した。
月明かりがあるとはいえ、松明でも持っていなければ洛中であっても真っ暗であった。
道を歩くのは晴明と吉昌のふたりだけに思えるが、その周りには数人の式人がいる。式人たちは闇に紛れながらも晴明の警護をしているのだ。
松明の灯りを頼りに歩いていると、どこからか笛の澄んだ音色が聞こえてきた。そういえば、この辺りは笛の名手といわれる源博雅の屋敷が近いはずだ。きっとこれは博雅の龍笛であろう。博雅は中将の職を降り、いまは皇太后宮権大夫という皇后宮職の長となっており、内裏務めであることから、あまり晴明と顔を合わすことはなくなっていた。
「父上は、あの星をどう見ますか」
不意に吉昌が話しかけてきた。
吉昌の指した方へ目を向けると、そこにはひと際輝く星が存在していた。
その星の輝きは、晴明も数日前より気になっていた星でもあった。以前、晴明はあの星を藤原兼家であると見立てたことがあった。今回も同じように見るとするのであれば、なにやら不穏な空気を感じざる得なかった。
現在の朝廷は、兼家の長兄である伊尹が摂政に就き、幼い帝に代わり朝廷を動かしていた。兼家は中納言、兼春宮大夫、兼右近衛大将という役職に就いており順風満帆のように思えた。
また次兄である兼通は讃岐守、兼美濃守といった地方長官に就き、冷や飯を食う状態が続いているが、いずれは中央の職に戻るのではないかという見方が強かった。
ただ、妙な噂も聞いたことがあった。それは帝が兼家のことを嫌っているのではないかという噂であった。なにかの折に、兼家が帝の機嫌を伺ったところ、帝は兼家のことを無視したという噂が女房たちの間で一時期話題となっていたのだ。所詮そのようなものは噂に過ぎない。その噂を耳にした時は晴明も笑って聞き流していたが、星の様子などを見ていると、噂も馬鹿にすることはできないのではないかと思わされていた。
「父上、吉昌。どうされたのですか、こんな時間に」
声が聞こえたため晴明が視線を向けると、そこには吉平の姿があった。
「兄上を迎えに来たのです」
「そうか。きょうは書を読んだりしていて、少し遅くなってしまったのだ。許せ、吉昌」
「では、共に帰りましょう」
ふたりの会話を聞いて、晴明は思考を中断させた。
吉平と吉昌は仲の良い兄弟だった。かつて、藤原兼通と兼家も仲の良い兄弟だったとは聞いているが、いまでは犬猿の仲である。藤原兄弟の仲がこじれたのは、お互いの出世に絡んだ争いからだったそうだ。いまは長兄である伊尹がいるから何とかまとまってはいるが、伊尹が没した後はどうなってしまうのだろうか。
晴明は星空を見上げながら、顎に伸びた髭を撫でた。
10
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(2件)
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
If太平洋戦争 日本が懸命な判断をしていたら
みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…そして終戦工作 分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦
そしてそこから繋がる新たな近代史へ
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
お気に入りに登録して、投票させていただきました。
頑張ってください。
ではではノシ
四谷軒さん、
ありがとうございます!!
2-2 臨場感のある文章に引き込まれ、私もその場にいるような気持ちになりました。素晴らしいです!
ヤンさん、
お読みいただき、ありがとうございます。
平安時代の雰囲気を描けるようにがんばります。