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1章 魔女、決意する

1話 友達王子とワルい魔女

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 見上げるまでもなく碧く晴れ渡った空であることが分かる、晩春の日の午後のこと。

 ワタシはリザ宮殿敷地内にある王族専用図書館を出ると、目の前を横切る屋根付き回廊に急いで駆け上がった。

 すれ違った侍女が驚いた顔でワタシを振り返る。
 王族専用図書館から庶民が出てくるのは珍しいだろうし、それがフード付き黒いローブの裾を翻して走り抜ける魔女というのは珍奇ですらあるから仕方がない。

 ワタシはそのまま回廊を厩舎方面へと走り抜ける。

 兵士詰め所の向こう側。遠乗りを終えて本館へ向かう途中のアーク王子の背中がちらりと見えた。

「よし、間に合った……」

 ワタシは独りごちて胸をなでおろす。

 しかし間に合いはしたが、図書館で面白い本を見つけて読みふけってしまったのは不覚としかいいようがない。生で食べるキャベツに豊胸効果があるというのは反則的に面白い情報だった。
 たった一つの誤算は、今その情報は特に必要ないということである。

 ワタシは魔女のジャンザ。王子様をたぶらかす悪い魔女だ。

 たぶらかされる予定の王子は――ああ、ちょうど追いついた。

「王子様!」

 声をかけると、王子は振り返って薄銀色の瞳を優しそうに細めた。

「あ、ジャンザさん。こんにちは」

 黒髪で、二十歳にしては少し痩せ気味なのが心配される、ひょろりと背の高い青年である。あくまでも上品な顔つきが王子様らしい、といえば王子様らしい。
 とはいえ王子の顔なんてどうでもいい。彼が王子であるということだけが重要だ。

 たぶらかす――その意味は、つまりは彼と既成事実を作ってしまう、ということである。
 性や出産に関しては魔女であるワタシに一日の長がある。素人である王子様くらい、いくらでも騙して手駒にできる。
 性交したという事実さえ手に入れてしまえばこっちのものなのだ。

 そうするには家に誘って酒を飲ませるのが手っ取り早い。
 普通の王子なら警戒もするだろうが、ワタシはこの王子に信頼されているからその心配もない。

 本当ならもっと時間をかけてじっくり籠絡したいところだが、最近は邪魔が入ってくるためにそうもいっていられなくなった。

 とにかくスピード重視だ。
 さて、どうやって家に誘うか……。
 家に連れ込む糸口を探りながら、まずは雑談から始めることにする。

「こんにちは。遠乗りに行ってらっしゃったんですか?」

 彼の着ているのは黒い乗馬服である。情報提供者からの事前情報がなくとも、それくらいの類推は不自然ではない。

「はい。ジャンザさんがおっしゃっておられたように、今時分から外気に慣れておこうかと思いまして」
「いい心がけです、王子様。今年はもうワタシの出る幕はなさそうですね」
「そう願いたいものです。あ、もちろんジャンザさんにはまだまだお世話になるつもりですが」

 と爽やかに王子は笑う。
 もちろんワタシもまだまだ舞台から引っ込むつもりはない。それどころかアナタに取り入る悪役を演じるつもりなんですよ、王子様。

 もちろん、魔女らしく彼に惚れ薬を使ったこともある。が、魔力の低いワタシの作る惚れ薬の効果などタカがしれていた。まったく効かなかったのだ。

「ジャンザさん、少しお話してもいいですか? 実はジャンザさんを探しに図書館へ行こうかと思っていたんです。図書館へ行ってらしたんですよね?」
「ええ、そうですが……」

 王子は去年の夏、散歩先で暑さに倒れた。
 たまたま近くの小屋にそこに住み着いたばかりの魔女がいて、魔女は王子を介抱し、王子は元気を取り戻した。
 というのがワタシたちの出会いである。

 その一件依頼、王子は過剰なまでの好待遇をもってワタシに接してくれている。
 このリザ宮への出入りも自由にさせてくれたし、王族でもないのに王族専用図書館を使えるようにしてくれた。

 こんないい人を利用して己の野望を叶えようというのだ、罪悪感はある。
 だが目の前に最高級の砂糖菓子を置かれたらぶんどる。それに躊躇はない。ワタシは悪い魔女だ。

 もちろん自分が王子様の相手にし相応しいなんて思ってはいない。

 化粧っ気のない顔は黒い瞳がそこそこ可愛いと言ってもらえる程度には整っているらしいが、こんな性格である。十七歳の乙女らしい溌剌はつらつさなんて皆無だから若い娘としての魅力はない。それくらいの自己洞察はできる。

 癖のある濡れた土色の髪は一本に編んで胸に垂らしているだけだし、着ているのは薬草の匂いが染み付いた、清潔ではあるものの古ぼけた黒いローブだ。
 背丈も女性にしては高い部類で、なんだかんだいって男性は庇護欲をそそる小柄な女性を好むものだから受けは悪いし、そもそも受けようとも思わない。

 だがそんなものはどうでもいいのだ。狙うは王子ただ一人だから。
 下世話な話をすれば、ヤってしまえばこっちのもだ。ワタシは女で、王子は男。それだけあれば事足りる。

 で。ワタシを探していた、って?

「これを見てください」

 と王子は手に持っている布の袋を開け、中から一本の草を取り出した。

「遠乗りの途中見つけました。いい香りがするのでなにかの薬草だと思うのですが、分からなくて。ジャンザさんなら知っているかと……」

 なるほど、そういうことか。確かに薬草の判別なら得意分野だ。

「貸してください」

 王子から渡されたそれを、まずは仔細に観察する。

 中指ほどの長さに手折られた細い茎の草だった。小さな楕円形の葉が対に、規則正しく間隔を開けて生えている。
 鼻の下に持ってきて、香りを嗅ぐと清涼感のある香りが鼻に広がる。だがミンシアのようなきっぱりと断罪するかのような涼やかさではなく、あくまでも優しい、甘さを感じる爽やかさだった。

 確かに王子のいうとおり、『いい香り』である。

 それはワタシにとっては懐かしい、心安らぐ香りだった。
 師匠と旅をしているときによく見た薬草だ。この辺りにはないと思っていた。

「王子様、王領森に行ってきたんですね」

 薄銀色の瞳を見つめて言うと、王子は軽く息を呑んだ。

「えっ、なんで分かるんですか?」
「これは、この辺りでは見ない薬草だからです。となればワタシたち平民が行くことができなくて、王子様が馬で乗り入れることができ、かつこの薬草が生えている場所ということになります。そういう場所は限られます」

 王領森とは王家が所有している特別な森のことでる。もちろん部外者は許可がないと入ることができない。

「なるほど、確かに。言われてみればそうです。凄いです、ジャンザさん」
「ありがとうございます」

 微笑みもせず、賛辞への礼を軽く述べる。
 王子はどうもワタシを必要以上に持ち上げる。今だって当たり前なことしかいっていないのに。だが、その性質は利用しやすいのでそのままにしていた。

「ではジャンザさん、それが何か分かるのですか?」
「ええ、もちろん。いろいろな役に立ついい薬草ですよ」

 アーク王子に答えながら、ワタシの頭は悪巧みをしていた。

 この薬草、使える。
 これについて詳しく聞きたいと王子に請うのだ。

 王領森は広い。どのあたりで見つけたのか、どれくらい生えていたのか。それからこれを採取見本として処理する許可も得なくては。
 情報は多岐にわたる。話を聞きながらそれらを記録しなくてはなるまい。
 そのために、我が家にお越しいただこうではないか。

 役に立つ情報を教えていただいたのだからお礼をするのは当然だ。
 そういえば、ウチにいいワインがあるんだ。
 王子様のお口に合うかどうかは知らないが酒は酒だ。
 酔っ払えば理性も吹っ飛ぶ。ワタシもつい暑くなってローブを脱いでしまうかもしれない。

 都合のいいことに王子もワタシもお年頃の若者だ。互いを見る目に熱が入ってもまったくなんの不思議もない。酒とはかくも人心を惑わすものなのか、と王子が理解したころにはもう……。

 よし、完璧だ。

「王子様。この薬草は、オリゲ……」
 言いかけたワタシの手から、茎がすっと抜かれた。


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