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9章 聖妃覚醒

78話 新婚旅行、行きませんか

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 舞踏会の一夜が明けたその日、アスタフェルは朦朧としていた。

「気持ち悪ぅ……」

 だいぶ遅い朝である。
 起き抜け、居間に来てげんなりした様子で顔を擦る彼にワタシはミンシアティーを淹れてやった。

「ほら、これを飲め。二日酔いに効くから」
「うん……」
「二日酔いだよな?」
「うん……」

 テーブルについた彼は、子供のように素直に助言を受け入れ熱いお茶に口を付ける。
 しかし口を付けるなり子供のように、

「あちっ」

 とやったのは彼らしいというか。
 こいつ魔界にいるはずの風の魔王なのにな。こういうところが庶民的というか、可愛らしいとは思う。

「アスタ、きのうのことは覚えてる?」
「うん……」
「酒で記憶が飛んだりはしてない?」
「うん……」

 先ほどから「うん……」しか言わない。
 相当、二日酔いがキツいようだ。
 しかし彼はカップに口を付けたまま、ぼんやりとした上目遣いで向かいに座ったワタシを見た。

「……元に戻ってる」
「は?」
「服……」

 そんなことを言う彼の格好はといえば、下士官風黒いスマート礼服である。白銀の艶やかな長い髪は、ところどころ跳ねている。
 彼をベッドに運んだところでワタシも疲れ果て、服を脱がせるどころではなくなってしまい放っておいたのだ。
 別にアスタの着ているものをひん剥くのが恥ずかしかったというわけではない。

 そういうワタシはといえば、家にあった予備の黒ローブに片方の肩に三つ編み。化粧もしていないし、完全にいつものワタシだ。

「ドレス、可愛かったのに……」
「……いつまでもあんなの着てる訳にはいかないからな」

 そういえば昨日、アスタフェルからドレスをどう思っているかの言葉は結局聞かずじまいだった。
 そんな暇もなかったのだが、聞きたかった言葉を翌朝に聞くなんて。……まあ、それがワタシたちらしい、ということだろうか。

「オマエも速やかに普段の格好に戻れ。っと、あれは城か」

 ワタシが買ってやった町人風の古着は、昨日礼服を借りたときに城に置いてきたままだ。

「……早くその服を返して、いつもの服を取り戻さないとな……」

 それまではあの異国風の衣装を着ているしかないか。
 まあ、もうアスタフェルもワタシも目立つ目立たないの問題ではなくなってきているし、別にアスタ自前のあの服でも問題ない。
 だがいつまでも服を借りているわけにはいかないし。
 特にワタシはドレスと一緒に見るからに高価な宝飾品まで借りている。持ち逃げしたと思われるのも嫌だし、早く返すにこしたことはない。

「お前はもう城に行くな! あいたたた……」

 己の荒げた声が頭に響いたのだろう。アスタフェルは顔をしかめ、こめかみに強く親指を押し当てた。

「俺が返してくるから……」
「心配性だな」
「心配して何が悪いんだよ。俺、お前の夫になるんだからな……」

 眉根を寄せつつ、お茶を一口飲む。

「あちっ」
「……ありがたいけど自分で行くよ、猫舌魔王。ドレスを汚してしまったことも謝りたいしね」
「ドレスは、自分で染み抜きしてなかったことにすればよい」
「そう思ったんだけど、思ったより染みが酷くてね。城には専門の職人がいるからその人に任せたほうが確実だ。ただこういうのは早くに仕事を始めないと沈着して落ちにくくなるから、渡すのは早いほうがいいんだ。今日、ちょっと行って返してくる」
「そうだとしても、俺も一緒に行くからな……」
「具合悪いんだから寝てろよ」
「絶対に俺も行く」

 アスタフェルはそう言ったきり、お茶をすするのに専念しはじめた。
 梃子でも動かない構えだ。
 アスタも頑固だなあ。

 さて、それはいいとしてワタシもミンシアティー飲んで、パンでも齧るか。

 と目の前に用意した食事に手を伸ばしたのだが……。

 視線が……。

 アスタは上目遣いでワタシを見つつお茶をすすっているのだが、その視線がワタシの一挙手一投足にからんでくるのだ。

「なんだよ。分かったよ。ワタシは行くけど、オマエもついてきていい。それでいいだろ」

 視線がまとわりつき過ぎてきてさすがにこっちの動きが緩慢になりそうで、水を向けたのだが。
 意外にもアスタは渋った。

「いや、それはいいんだ、もう。いや俺も当然行くけど。そうじゃなくてだな……」
「なんだよ。言いたいことがあるならハッキリ言ってくれ」

「……ジャンザ。突然だが、新婚旅行に行かないか?」
「は? なんだそれは」
「結婚した者たちが夫婦水入らずでイチャイチャ子作りするために行く、長期旅行のことだ」

「へー……。そんなのあるのか。魔物って実利的なんだな」
「このあたりにはそういう風習はないのか?」
「聞いたことないな」
「なあ、行こう? いろいろ回って、いろんなところがどうなったのかこの目で確かめてもみたいし。お前と世界を巡るのはきっと楽しいだろうし」
「確かめる……? ああ、そうか。オマエ、この世界は久しぶりなんだったな」

 アスタフェルは創世神話においてこの世界を聖なる神々と取り合った身である。逆に言えば、その時代のこの世界のことしか知らないんだった。

「それに、旅をしている間に薬草の薬の作り方を広めることもできるし……」
「そっちが本義か? ワタシの野望はそうやってでも叶えることはできるって言いたいんだろ」

 笑いながら促すと、彼は顔を赤くしつつ気まずそうに空色の瞳でワタシを睨んできた。

「いや違うぞ。お前のことは必ず魔界に連れてくし、フィナの命は俺が握ってるし……」
「そういえば答えをもらってなかったけど。フィナを助けるか、見捨てるかの期限はいつだ?」
「……決めてない。敢えていうなら、お前がアークを諦めるまでだ」

 なんだ、そうか。
 つまりはやっぱり、アスタフェルはワタシが好きで、ただ単にアーク王子とワタシが密会しなければいい、と……。

「なるほど、少し手を変えてきたって訳か。新婚旅行に行くってていで王子との距離をとるつもりなんだな、ワタシが王子を諦めるまで。いきなり魔界に連れて行くよりはワタシの抵抗も少なそうだしな」
「……もしそうだとしても、はいそうなんですーなんて認めてやらんぞ。あくまでもこれは新婚旅行、二人でイチャイチャベタベタしに行くだけだ」

 なんてアスタフェルは顔を険しくするが……。

 旅、か。師匠やフィナと一緒に旅をしていたときのことを思い出す。
 なんだかんだと賑やかで、楽しい日々だった。もちろん大変な時だってあったけど、基本的に師匠がまとめてくれてたし、フィナだっていろいろと助けてくれた……。

「旅をしている間は、フィナのことは手出ししないでおいてくれるのか?」
「もちろんだ」

 王子か、好きな人か。野望か、フィナか。

 そんなことを突きつけられて真剣に考えていた夜が明けて、ワタシの心も少し変わってきていた。
 あの酒臭い夜気に、じっとり湿ったものを置いてきてしまったような感覚すらある。

「なら、いいかな」
「……え?」
「フィナは大きすぎて町に入れなかったけど……普通の人にはちょっと刺激が強すぎるくらい大きかったから。でもオマエなら人と変わらない姿だから、旅の間もずっと一緒にいられるんだな。今みたいにさ」

 王子を使って野望を叶える。そのために好きな人を好きという気持ちを犠牲にする。
 そんなことを、ワタシはしようとしていた。自分がすべきことをしようと躍起になっていた。すべては師匠の仇をとりたい自分のために。

 きっと一所ひとところに定住して、視野が狭くなりすぎたんだと思う。
 夢を諦める訳じゃない。
 状態に間をおいて客観的になるのは悪くない、ということだ。
 前みたいに広い世界を見て、新しい場所に行って、新鮮な風に吹かれたら。ちょっとは違う考えも生まれるだろう。

 アスタには悪いけど、子供は――ワタシの妊娠出産の知識を総動員させ、できないようにするけれども。

 大丈夫。旅行ってことは、またここに戻ってくるのだから。

 戻ってきたときに王子様が結婚していたとしても、それはそれでいい。どうせ王子は愛人としてのワタシにしか興味ないのだ。

 それに、アスタフェルとの旅はきっとすごく賑やかで楽しいものになると思うんだ。
 師匠とフィナとワタシで旅していた時みたいに――そのとき以上に、きっと……。

「ほんとにいいのか!? ぁいたたた」

 大声が頭に響いたらしく、彼は慌ててミンシアティーに口をつけた。
 その様子に思わず微笑んでしまう。あれはすーすーするので、頭痛のときに飲むとすーっとして気持ちいいんだ。
 ちゃんと魔王にも効いてくれている……。

「なあ。旅に出たら、またキスしてくれるのか?」
「ぶっふぉぁ!」
「すっ、すまん。変なこと言って悪かった。布巾持ってくる」


 冗談めかして言ったら、アスタフェルが飲んでいたミンシアティーを吹き出してしまった。

 やっぱりできるだけ早く脱がせよう。着ているだで借りてる服がどんどん汚れていく……。

「ま、待て」

 座っていた彼は慌てて立ち上がり、真剣な顔でテーブルに手をついた。

「今すぐしよう、キス」
「あとでな」

 ワタシは笑いながら台所へと歩いて行く。

 ――キスをすれば、アスタフェルとの関係は壊れる。アスタフェルはワタシから離れていく……。
 そんな予感があったのに、キスした翌朝でもこんな馬鹿話ができている。……これからのことを、二人で話している。
 ワタシの予感は外れたんだ。

 ……外れてよかっと思う。
 だからこれからはいっぱいキスして、たくさん予感を外していくんだ。
 悪い予感をアスタと一緒に覆していく……考えただけでも楽しげじゃないか、それは。

「今日はこれから城に行ってドレスやら装飾品やらを返してこようと思ってる。そのときついでに、しばらく旅に出ると伝えるよ。いくらなんでもここまで世話になったのに挨拶の一つもせずにいなくなるのは不義理だからな」

 それに、エベリン夫人もまだいるかもしれない。そうしたら夫人にも挨拶できる。

「だから、帰ってきてからキスしよう」
「今したらいいのに……」
「二日酔いなんだから無理するな。それに御褒美ってのは一仕事終えたあとにとっとくもんさ。一緒に城に行くんだろ? あの異国風の服を着てさ……」

 笑いながら、ワタシは続けた。

「二人で全部終わらせて、それから晴れて、キスでもなんでもすればいいよ」




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