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9章 聖妃覚醒

79話 小さな約束と、祈り

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「お前に言っとかなくちゃならないことがあるんだ」

 アスタフェルがそう言い出したのは、街へと続く一面の麦畑のなかの道でのことだった。
 麦はすでにすべて刈り取られ、はるか遠い城壁まで見える。

「なんだよ。オマエがワタシのこと大好きだってことは分かってるぞ」
「……いやまあ、いいけどさ」

 アスタフェルは晩夏の微風に吹かれながら、途端に顔を赤くした。

「前々から不思議ではあったんだけどさ。お前ってなんでそう、恥ずかしいことを平気な顔して言えるんだよ」
「なにが恥ずかしいんだ?」
「俺が……お前を……大好きだってこととか……」
「事実だろ?」
「だから、それ!」

 ビシッ! とワタシを指さす白き風の魔王。

 彼は正装と言い張る異国風の黒い長衣を着ていた。角と翼は出していないが、それでも流石によく似合っている。
 しかしその背にドレスや礼服が入った大きなリュックを背負っていて、それがなんとも似合っていなかった。
 ワタシはといえばいつもの黒いローブに大きな肩掛けバッグを斜に胸にかけていた。その中にも夫人に返すものが詰まっている。

「きのうも思ったけどさ。ほんとにまったく、なんでそう恥ずかしいことを堂々と言えるんだよ。羞恥心というものがないのかお前には」
「魔女の仕事は物事を正確に把握し、患者の症状を見極め、常に正しい処置をすることだ。そこに羞恥心なんてものは必要ない。むしろいらん、物事を見る目が曇る」
「そっ、そういうとこ……かっ――かっ、か……かわ……かっこ……」

 うつむいてごにょごにょと呟くアスタの顔は、おろした白銀の髪がおおってよく見えない。
 ワタシはため息をつき、促した。

「で? 言っとかなくちゃならないことってなんだよ。ワタシが格好良くて可愛いということか?」
「だからっ、そういうの言うなってば! てか自分で言うか、それ!」
「オマエがそう思ってるってだけだろ。好きな人に対して人は得てして評価が甘くなるものだ。ワタシがどんな容姿をしていようとも、オマエにとっては絶世の美少女に見えているというだけのこと。そこに外面的な事実など存在しない。人間の認識などその程度のものだ」

 アスタは人間じゃなくて魔王だが、恋は盲目という格言は彼の場合にも当てはまっているのだろう。

「じゃあさ、お前は俺のことどう見えてるんだ? やっぱ格好良く見える?」

 期待に満ちた空色の目でワタシを伺ってくるアスタに、ワタシは正直に答えることにした。

「疑いようも無い事実として、客観的に美しいと思う。オマエを見た人間全てが口を揃えて言うだろう、見たこともない美しさだと。オマエ元神族の現風の魔王なんだぞ。人間より整ってるに決まってるだろうが。人間舐めてるのか?」
「何故そこまで言われねばならん……。しかもちょっと恥ずかしいし。そうじゃなくて、もうちょっとこう、イチャっていうか、ベタっていうか。かっこいーやだもー好きー! はははジャンザめこのーこうしてくれるー! きゃーやめてーアスタのえっちー! みたいなノリが欲しい」

 一人芝居を始めるアスタフェル。こいつこそこういうところは恥ずかしくないのか。
 思うに、羞恥心というものは個人差があり、恥ずかしいと思う事象は個人でかなり異なるようだ。

「なあ、お前は俺のこと好きなのか?」
「好きだよ。それよりワタシに言わなきゃならないことってなんだ?」
「すっごいなおざり。俺が言いたいのはそういうことじゃなくて、心のこもったものでだな――」
「アスタ」

 さすがに気づいたワタシは、アスタフェルの言葉を遮り、告げた。

「……言いたくないなら無理して言うこともないんじゃないか」
「え――」
「ワタシに言わなくちゃいけないってやつ。意図して話題を避けようとしてるだろ」
「……まあ、そりゃバレるか。お前鋭いしな」
「鋭くなくても分かるよ」

 アスタフェルはため息をつき、それでもニヤリとした笑みを作った。

「でもさ、鋭いお前でも気づかないようなこと、俺が知ってるってさ。なんか優越感だよなー」
「ワタシの正体ってやつか」
「うっ、やっぱ鋭いな。何故それだと分かった」
「オマエが知っていてワタシが知らないことなんて限られてるからな。以前にもこんな話をしたことがあったし」

 彼がワタシのもとにやってきた、その根本的な原因。風の魔王という大物が、力なき小さな魔女であるワタシを何故か名指しして襲ってきたこと。彼がワタシに真の名を明かしてまで執着する、その理由。

 だが――。

 ワタシは自分の正体を知りたいとは思わなかった。むしろ、自分の夢を叶えるのに邪魔だとすら思った。
 つい昨日までは……。

「知りたいか? 自分の正体」
「真実なんて、求めてない」

 ワタシは前を見ながら言った。
 ワタシは生みの親の顔を知らない。

「だが、教えてくれるというのなら聞く」

 今更それを知ってどうなるというものでもあるまいが……。

 アスタフェルが敵対する勢力に属する出だろう、という推測はついている。つまりはシフォルゼノのなにか。
 おそらく巫女か何かの生まれで、どうせなら聖騎士エンリオより高い位の家の出ならいいな、くらいに思った記憶がある。

「なあ、ジャンザ」

 アスタフェルは、ゆっくりと――まるで祈るようにその言葉を口にした。

「自分の正体を知っても、俺のこと好きでいてくれると。約束してくれるか?」
「ワタシにも今まで生きてきたワタシの人生ってものがあるんだ。正体がいかようであろうとも、それは変えられない。ワタシはもうワタシでしかない。それは約束する」
「お前らしいな」

 アスタフェルは明るい色の目を優しく細めた。

「俺と結婚するのなら、いつかはお前も知ることになる。だから他の誰でもなく、俺が自分で直接お前に伝えたいんだ。ジャンザ。あのな、お前は、本当は――」
「待て、アスタ。あれ」

 刈り取られた麦畑の向こう、街の方から土埃がこちらに向かってきているのだ。

「なんだ?」

 アスタも気づいてそちらに注視した。




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