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ふしぎなえぼし岩・1
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信じられないことに、海はまだ泳げないらしい。母ちゃんは「本当なら六月は天気が悪いのよ」というが、空はピーカン晴れだ。太陽が強く照りつけ、気温も三十度を超えている。けれど、嫌な気分はちっともない。
ここは、湘南・茅ヶ崎。暑ければいっそう楽しみが増えるところだ。南には泳げる海があって、北には遊べる山がある。スーパーでアイスも買えるし、行ったことがない憧れのレストランもたくさん。なにより、東京や横浜と違って窮屈な感じがしない。たまに行く都会は、人と建物に溢れていて息が詰まるから苦手だ。
転勤族だったじいちゃんは、北は北海道、南は長崎県まで暮らしたという経歴の持ち主だが、ことあるごとに「いろんな場所に住んだけど、茅ヶ崎が一番だ」、「ここを終の棲家にするぞ」なんて力説している。だからさぞかし魅力的な街なのだろう。
今日はいとこの紀文がやってくる日だ。一歳年上の紀文は、両親が土日でも仕事へ行くことがあるといって、泊りがけで遊びに来ることがあるのだ。このささやかなイベントをオレは歓迎している。
お互いの家はそう離れていない。自転車で二十分といったところ。ここは茅ヶ崎市の真ん中あたりで、紀文はもうちょっと東側に住んでいる。電車に乗るなら辻堂駅だと言っていたけれど、実際に乗っているのは見たことがない。うちに来るときも、だいたい親のクルマか自転車だ。
外から自転車のスタンドをかける音が聞こえた。玄関のチャイムがピンポーンとゆっくり鳴る。
「ノリくん、いらっしゃい!」
母ちゃんの騒ぐ声。そして続くのは、紀文の落ち着いた挨拶の声。
「おじゃまします」
「さあさあどうぞ、健太がおまちかねよ」
終始、猫なで声で対応する母ちゃん。なにしろ紀文をいたく気に入っており、泊まりに来るたび大騒ぎだ。晩のおかずをどこぞの名店で調達してくるという宣言が出るほどの高待遇。ちなみに今夜は、有名老舗レストラン「なんどき牧場」が予告されていた。おかげでおいしいエビフライとメンチカツにありつける。ラッキーなことではあるのだが……日頃、スーパーのコロッケしか揚げ物を食べていない身としては、釈然としない気持ちである。しかも、決まって割引の赤シールが貼られているというあんばいだ。
リュックを背負った紀文が、オレの待つ和室へとやって来た。オレより少し背が高くて、サラサラとした前髪を眉の少し上まで伸ばしている。勉強ができてモテる男子のヘアスタイルだ。襟付きのポロシャツにベージュのカーゴパンツといういでたちが、若干まぶしい。オレのスポーツ刈りが四方八方に伸びたタワシ頭に、首まわりのたるんだ赤のTシャツおよびひざ下丈のジャージというコーディネートとは、ビジュアル偏差値がだいぶ違う。
しかしオレは人の価値を見た目で決めるような男ではない。紀文のいいところは、恐竜とマンガとゲームの話ができるところだ。小学生男子の価値はこれで決まるといっても過言ではない。さっそく、家中から集めたありとあらゆるフィギアをちゃぶ台に展開しなければ。恐竜博士の紀文と一緒に、この家のフィギュアすべてに序列を付ける。これは難しいぞ。ラインアップは恐竜にとどまらず、魚類から哺乳類、はたまた未知の生命体まで幅広い。フィギアに埋め尽くされた和室を見て母ちゃんが顔をしかめたが、気づかなかったふりをする。
オレたちのじいちゃんも、この家に住んでいる。オレの母ちゃんと紀文のママが、娘なのだ。紀文のママはともかく、うちの母ちゃんが子どもだったなんてキツいよな。じいちゃんの額のシワは、ガミガミうるさい母ちゃんに苦労させられたからできてしまったものだろう。同情するよ。
そんなじいちゃんは、紀文が来る前から、和室の縁台でバイクの部品やらヘルメットやらを広げて、手入れをはじめていた。あぐらの真ん中にヘルメットをすっぽり収めて大事そうに磨く、白髪の好々爺。ろくろを回す陶芸作家に見えないこともない。時折こちらを見て、ニコリとしてくる。孫が揃って遊ぶ様子が微笑ましいのだろう。
ほどなくして、母ちゃんが麦茶と「湘南ちがさき屋のタコせんべい」をお盆に乗せて持ってきた。普段のおやつには出してもらえない高級品の登場に、おののく。値段もさることながら、そのへんのせんべいとは美味しさの次元が違う。平素、魚肉ソーセージやゆで卵なんかを適当にあてがわれている身としては、このような大盤振る舞いにジェラシーを禁じ得ない。晩ごはんの名店おかず宣言といい、オレと紀文とでは、ずいぶんと扱いが違うではないか。
そんなオレからのじっとりとした視線を知らずしてか、母ちゃんはフィギュアを押しのけてお盆を着地させる。そしておもむろにスマートフォンを取り出すと、ちょいちょいと操作しはじめた。写真アルバムの中に、見せたいものがあるらしい。
やがて画面に登場したのは、海の絵だった。「汐見台小学校 四年 和田 紀文」とあり、賞のタイトルが書かれたボードが背景になっていることから、この間の「かながわ夢絵コンテスト」の展覧会で撮ったものであろうと察しがついた。
「ノリくんのえぼし岩の絵、見てきたわ。すごく上手だったから、おばさん驚いたのよ」
オレのことをいつも叱ってばかりの母ちゃんは、なおも紀文びいきを続ける。
オレが同じコンテストのために描いた夢の海水浴場の絵には、「宇宙人の集会みたいでユニークね」なんて辛辣なコメントをしていたではないか。これには、いたく傷ついた。誓ってエイリアンなど描いていない。ただ、人間の皮膚と水着の布の境界があいまいに表現されていただけなのだ。「砂の色塗りが不自然にカラフル」というケチも付けられたが、何とトンチンカンなことを言っているのか。海の砂を手のひらにとって、よく見てみるがいい。砂なんてものは、さまざまな色の粒が集まってできるものなんだ。よって、オレの絵はしかるべきところに出品すれば、類まれなるセンスと地学知識によって裏付けされた芸術作品として認められる逸品なのである。惜しむらくは、時代がオレに追いついていないというだけのこと。
スマートフォンの画面をのぞき見て、ふと違和感に気づいた。手にとってみると--やっぱり。
「これ間違ってるよ。えぼし岩の形は、こうじゃない」
紀文は、怪訝な顔をした。
確かに、絵はうまいかもしれない。夢のようにクリーンな砂浜と、重なる波の奥行きが緻密に描写されていて、小学生とは思えない写実的な表現だ。突き抜けるような青い空を背景にしたえぼし岩が、堂々と真ん中に映えている。誰が見ても、沖にたたずむ我らが茅ヶ崎のシンボルだ。
「これであってるよ。ちゃんと見て描いたし」
けれど観察眼に優れたオレは、致命的な間違いを見逃さなかったのである。
「違うってば。先っちょはこの向きじゃない。陸から見て、右を向いているんだ」
「これでいいんだよ。えぼし岩は、こういう形をしているよ」
紀文は、やれやれとでも言いたげに目を細めた。
バカにされたと感じて、たまらず言い返した。
「なんで嘘つくんだよ。紀文のタコ!」
剣呑な空気に、じいちゃんがヘルメット磨きの手を止めた。けれど何を言うでもない。話の行方を見守るつもりらしい。
母ちゃんは真偽がわかっていない様子で、オレと紀文を交互に見る。
ハッキリ言える、オレは正しい。この茅ヶ崎に生まれついて以来、幾度となく見てきたえぼし岩なのだから。
オレはマンガに出てくるバーのマスターよろしく、母ちゃんのスマートフォンを畳に滑らせて、ちゃぶ台の下からじいちゃんのいる縁台まで追いやってやった。へへっ。じいちゃん、あちらのお客さまからのおごりだぜ。
「健太、アンタッ」
お小言はごめんだ。オレは和室から飛び出した。母ちゃんはまったくわかっていなかったようだし、紀文に至っては見当違いもいいところだ。
ここは、湘南・茅ヶ崎。暑ければいっそう楽しみが増えるところだ。南には泳げる海があって、北には遊べる山がある。スーパーでアイスも買えるし、行ったことがない憧れのレストランもたくさん。なにより、東京や横浜と違って窮屈な感じがしない。たまに行く都会は、人と建物に溢れていて息が詰まるから苦手だ。
転勤族だったじいちゃんは、北は北海道、南は長崎県まで暮らしたという経歴の持ち主だが、ことあるごとに「いろんな場所に住んだけど、茅ヶ崎が一番だ」、「ここを終の棲家にするぞ」なんて力説している。だからさぞかし魅力的な街なのだろう。
今日はいとこの紀文がやってくる日だ。一歳年上の紀文は、両親が土日でも仕事へ行くことがあるといって、泊りがけで遊びに来ることがあるのだ。このささやかなイベントをオレは歓迎している。
お互いの家はそう離れていない。自転車で二十分といったところ。ここは茅ヶ崎市の真ん中あたりで、紀文はもうちょっと東側に住んでいる。電車に乗るなら辻堂駅だと言っていたけれど、実際に乗っているのは見たことがない。うちに来るときも、だいたい親のクルマか自転車だ。
外から自転車のスタンドをかける音が聞こえた。玄関のチャイムがピンポーンとゆっくり鳴る。
「ノリくん、いらっしゃい!」
母ちゃんの騒ぐ声。そして続くのは、紀文の落ち着いた挨拶の声。
「おじゃまします」
「さあさあどうぞ、健太がおまちかねよ」
終始、猫なで声で対応する母ちゃん。なにしろ紀文をいたく気に入っており、泊まりに来るたび大騒ぎだ。晩のおかずをどこぞの名店で調達してくるという宣言が出るほどの高待遇。ちなみに今夜は、有名老舗レストラン「なんどき牧場」が予告されていた。おかげでおいしいエビフライとメンチカツにありつける。ラッキーなことではあるのだが……日頃、スーパーのコロッケしか揚げ物を食べていない身としては、釈然としない気持ちである。しかも、決まって割引の赤シールが貼られているというあんばいだ。
リュックを背負った紀文が、オレの待つ和室へとやって来た。オレより少し背が高くて、サラサラとした前髪を眉の少し上まで伸ばしている。勉強ができてモテる男子のヘアスタイルだ。襟付きのポロシャツにベージュのカーゴパンツといういでたちが、若干まぶしい。オレのスポーツ刈りが四方八方に伸びたタワシ頭に、首まわりのたるんだ赤のTシャツおよびひざ下丈のジャージというコーディネートとは、ビジュアル偏差値がだいぶ違う。
しかしオレは人の価値を見た目で決めるような男ではない。紀文のいいところは、恐竜とマンガとゲームの話ができるところだ。小学生男子の価値はこれで決まるといっても過言ではない。さっそく、家中から集めたありとあらゆるフィギアをちゃぶ台に展開しなければ。恐竜博士の紀文と一緒に、この家のフィギュアすべてに序列を付ける。これは難しいぞ。ラインアップは恐竜にとどまらず、魚類から哺乳類、はたまた未知の生命体まで幅広い。フィギアに埋め尽くされた和室を見て母ちゃんが顔をしかめたが、気づかなかったふりをする。
オレたちのじいちゃんも、この家に住んでいる。オレの母ちゃんと紀文のママが、娘なのだ。紀文のママはともかく、うちの母ちゃんが子どもだったなんてキツいよな。じいちゃんの額のシワは、ガミガミうるさい母ちゃんに苦労させられたからできてしまったものだろう。同情するよ。
そんなじいちゃんは、紀文が来る前から、和室の縁台でバイクの部品やらヘルメットやらを広げて、手入れをはじめていた。あぐらの真ん中にヘルメットをすっぽり収めて大事そうに磨く、白髪の好々爺。ろくろを回す陶芸作家に見えないこともない。時折こちらを見て、ニコリとしてくる。孫が揃って遊ぶ様子が微笑ましいのだろう。
ほどなくして、母ちゃんが麦茶と「湘南ちがさき屋のタコせんべい」をお盆に乗せて持ってきた。普段のおやつには出してもらえない高級品の登場に、おののく。値段もさることながら、そのへんのせんべいとは美味しさの次元が違う。平素、魚肉ソーセージやゆで卵なんかを適当にあてがわれている身としては、このような大盤振る舞いにジェラシーを禁じ得ない。晩ごはんの名店おかず宣言といい、オレと紀文とでは、ずいぶんと扱いが違うではないか。
そんなオレからのじっとりとした視線を知らずしてか、母ちゃんはフィギュアを押しのけてお盆を着地させる。そしておもむろにスマートフォンを取り出すと、ちょいちょいと操作しはじめた。写真アルバムの中に、見せたいものがあるらしい。
やがて画面に登場したのは、海の絵だった。「汐見台小学校 四年 和田 紀文」とあり、賞のタイトルが書かれたボードが背景になっていることから、この間の「かながわ夢絵コンテスト」の展覧会で撮ったものであろうと察しがついた。
「ノリくんのえぼし岩の絵、見てきたわ。すごく上手だったから、おばさん驚いたのよ」
オレのことをいつも叱ってばかりの母ちゃんは、なおも紀文びいきを続ける。
オレが同じコンテストのために描いた夢の海水浴場の絵には、「宇宙人の集会みたいでユニークね」なんて辛辣なコメントをしていたではないか。これには、いたく傷ついた。誓ってエイリアンなど描いていない。ただ、人間の皮膚と水着の布の境界があいまいに表現されていただけなのだ。「砂の色塗りが不自然にカラフル」というケチも付けられたが、何とトンチンカンなことを言っているのか。海の砂を手のひらにとって、よく見てみるがいい。砂なんてものは、さまざまな色の粒が集まってできるものなんだ。よって、オレの絵はしかるべきところに出品すれば、類まれなるセンスと地学知識によって裏付けされた芸術作品として認められる逸品なのである。惜しむらくは、時代がオレに追いついていないというだけのこと。
スマートフォンの画面をのぞき見て、ふと違和感に気づいた。手にとってみると--やっぱり。
「これ間違ってるよ。えぼし岩の形は、こうじゃない」
紀文は、怪訝な顔をした。
確かに、絵はうまいかもしれない。夢のようにクリーンな砂浜と、重なる波の奥行きが緻密に描写されていて、小学生とは思えない写実的な表現だ。突き抜けるような青い空を背景にしたえぼし岩が、堂々と真ん中に映えている。誰が見ても、沖にたたずむ我らが茅ヶ崎のシンボルだ。
「これであってるよ。ちゃんと見て描いたし」
けれど観察眼に優れたオレは、致命的な間違いを見逃さなかったのである。
「違うってば。先っちょはこの向きじゃない。陸から見て、右を向いているんだ」
「これでいいんだよ。えぼし岩は、こういう形をしているよ」
紀文は、やれやれとでも言いたげに目を細めた。
バカにされたと感じて、たまらず言い返した。
「なんで嘘つくんだよ。紀文のタコ!」
剣呑な空気に、じいちゃんがヘルメット磨きの手を止めた。けれど何を言うでもない。話の行方を見守るつもりらしい。
母ちゃんは真偽がわかっていない様子で、オレと紀文を交互に見る。
ハッキリ言える、オレは正しい。この茅ヶ崎に生まれついて以来、幾度となく見てきたえぼし岩なのだから。
オレはマンガに出てくるバーのマスターよろしく、母ちゃんのスマートフォンを畳に滑らせて、ちゃぶ台の下からじいちゃんのいる縁台まで追いやってやった。へへっ。じいちゃん、あちらのお客さまからのおごりだぜ。
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