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1. Black Sheep
7-4.
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ジョンは譫言を絶えず発しながら、街の中を闇雲に走り続けた。
彼の頭の中を巡るのは、ジャネットの涙、言葉、表情――。繰り返し繰り返し、彼を責め立てるように、彼女の姿が浮かび続ける。
「糞ッ、糞ッ、糞ッ、糞……ッ」
口を突く罵倒は全て自身に向けられたものだ。ジャネットを泣かせてしまった、不甲斐ない自分に向けられた言葉だった。彼女にあんな言葉を吐かせてしまった、情けない自分に向けられた罪悪感から零れる言葉。
ジャネットはあんな事を言う人間じゃない。例え頭の中にそんな言葉が浮かんでも、口には出さない。言葉には――、形にはしない。自分の中で馬鹿げた考えだと打ち消してしまう。彼女は利口で、酷く真面目だ。正しいモノとそうでないモノの違いくらい、誰に言われるまでもなく彼女自身が判断出来る。
足が疲労で動かなくなるまで走り続けたジョンは空を見上げ、人気のない路地の真ん中で立ち尽くした。
「嗚呼――、糞ッ、糞ッ、糞ッ、糞……ッ!」
息が出来ない。いや、お前なんていっそこのまま窒息して死ねばいい――。ジョンがそう自分を呪い始めた頃、ヴィクターが彼に追い付いた。汗だくのまま地面に倒れ伏し、死体のように転がった。
「キ、キミ……ッ、いい加減にしろよ……! なんだってボクが、こんな汗塗れになるまで走らなければならないんだ……!」
ジョンを呪っているのは、彼自身だけではなく、ヴィクターも同じだった。かなり利己的な理由ではあるが。
「お前……、なんでいるんだよ」
「キミを、追いかけた、からに、決まって、いるだろう……!」
しばらくの間、二人は互いに息を整える事に専念した。やがてジョンは汗で冷えた体に、ヴィクターから受け取ったコートを羽織った。
「……僕は、最低な奴だな」
ボソッと、ジョンは宙空を見上げてそう呟いた。ヴィクターは彼の背中を見詰めながら、いつも通りの軽口を叩いて見せる。
「今頃になって気付いたのかい? まったく、キミは自己認識が甘いなあ――」
しかし、ジョンからの返答は乾いた笑い声だけだった。肩透かしを喰らったヴィクターは「これは相当だぞ……」と、口の中で呟いた。
あのジョンがボクの軽口に食ってかからないだなんて……、前代未聞もいいところだ。ジェーンのあの言葉が、彼にそれほどまでに深く突き刺さったのか。
――「父さんとジェーンを奪った癖に……」。思い返すだけで胸が苦しくなる。その言葉を吐いたジャネットと、それを受けたジョン。二人が互いに苦しむだけの、禁忌に近い言葉だった。
それは言ってはいけないよ、ジャネット。……ヴィクターは重たい息を吐いた。しかし、ジェーン、ワトソン、シャーロックを襲った悲劇は、ジョンの所為でないとは言い切れない。あの三人はジョンを庇い、そして命を奪われた。そして、当時の出来事を、当の本人であるジョン自身が良く覚えていないと言う。ジャネットの気持ちを考えれば、「ふざけるな」と憤ったとしても、誰もが「仕方ない」と頷くだろう。
けれど、ジャネットはそうしなかった。だから、彼女だって分かっている筈だ、ジョンを憎むべきではないのだと。でも、それでも――、溢れてしまったあの言葉。
ボクは甘かったんだ。ヴィクターは今更になって悔やむ。ジョンとジャネットの姿を長い間見ていた癖に――、いや見てきたからこそ、二人なら家族の死からでもすぐに立ち直ると信じ込んでいた。しかし、実際はどうだ。二人とも泥沼のような悔恨と悲壮に打ちひしがれているじゃないか。ボクは医者であり、何より二人の友人を名乗りたいのなら、手を取り、肩を取り、隣に立つべきだったのに。
「ヴィクター」ジョンが宙を見上げたまま、色のない声を落とす。「僕は、決めたよ」
「……何をだい?」
猛烈に嫌な予感を沸き立たせるその声音に、背筋を震わせながら、ヴィクターが問う。
「探偵を、辞めようと思う」
「――――」
ジョンの言葉に、ヴィクターの顔が思わず引き攣った。
それは全ての否定、全ての崩壊。ジョン・シャーロック・ホームズが積み上げてきた全てを終わらせることを意味する。
彼は今までずっと探偵に――、シャーロックに勝つ為に生きて来たのに……。
だが、ヴィクターはそれを口に出せなかった。ジョンを否定するような言葉を自分が吐いてしまっては、彼の居場所がなくなってしまうと危惧したからだ。弱音を吐ける場所があるというそれだけで、人間は精神を保つ事が出来る。
「……本当に、それでいいのかい」
ヴィクターがジョンに本音を言えないのは、他にも理由はあった。歯を噛みながら、本質から迂回するような問いで、彼は自分を誤魔化していた。
「しょうがないだろ。僕の親父はあのシャーロック・ホームズだ。その息子だって言うなら、どうしたって悪魔に目を付けられる。探偵なんて職に就いているのなら、尚更だ。僕は悪魔に関わるべきじゃない。僕はともかく、周りの人間が巻き込まれる。そんなこと、分かり切っていたのに」
僕はその道を選べなかった――いや、選ばなかった。ジョンはそう言って、自分の顔を両手で覆った。
「僕は親父に負けたくないが一心で、周りの事なんて考えなかった……! どうしようもなく自分勝手で、呆れるくらいに頭の悪い出来損ないだ……!」
偉大な父親から何も受け継がなかった劣等。偉大な父親の足下で尊大に吠えるだけの雑魚。偉大な父親から学び、しかしその父親を殺めた人でなし。偉大な父親の損失を埋めるには到底、力不足の役立たず。
嗚呼――、聞こえてくるようだ。ヴィクターが顔を歪ませ、胸を掻き抱く。ボクは愚かだった。ジョンの心がこんなに悲鳴を上げていたのに、何一つ気付けず、なぜ時間なんかに解決を委ねていたのか。
「ジョン、それは違う。キミは強い。ボクは、それを知っている」
「でも、親父ほどじゃない――だろ」
「…………」
シャーロック・ホームズは偉大だった。偉大過ぎたのだ。本来なら憧れるだけで、比較対象になどしない程に。しかし、ジョンにとっては幼い頃から目の前にある明確な目標であり、世間にとってはその位置を彼が継ぐのは、当たり前の認識だった。
「役立たずで無力な奴が、親父に追い付こうだなんて、土台無理な話だったんだ……。身の程を知るには、余りにも遅すぎた。親父が死んでから、それに気付くだなんて、僕の、僕の――」
僕の今までは、一体なんだったんだろうなあ――ッ! 激しい怒りを吐き出し、ジョンはレンガで出来た壁に、自分の拳を叩き付けた。躊躇のないその一撃は皮膚を裂き、血を飛び散らせた。
彼の頭の中を巡るのは、ジャネットの涙、言葉、表情――。繰り返し繰り返し、彼を責め立てるように、彼女の姿が浮かび続ける。
「糞ッ、糞ッ、糞ッ、糞……ッ」
口を突く罵倒は全て自身に向けられたものだ。ジャネットを泣かせてしまった、不甲斐ない自分に向けられた言葉だった。彼女にあんな言葉を吐かせてしまった、情けない自分に向けられた罪悪感から零れる言葉。
ジャネットはあんな事を言う人間じゃない。例え頭の中にそんな言葉が浮かんでも、口には出さない。言葉には――、形にはしない。自分の中で馬鹿げた考えだと打ち消してしまう。彼女は利口で、酷く真面目だ。正しいモノとそうでないモノの違いくらい、誰に言われるまでもなく彼女自身が判断出来る。
足が疲労で動かなくなるまで走り続けたジョンは空を見上げ、人気のない路地の真ん中で立ち尽くした。
「嗚呼――、糞ッ、糞ッ、糞ッ、糞……ッ!」
息が出来ない。いや、お前なんていっそこのまま窒息して死ねばいい――。ジョンがそう自分を呪い始めた頃、ヴィクターが彼に追い付いた。汗だくのまま地面に倒れ伏し、死体のように転がった。
「キ、キミ……ッ、いい加減にしろよ……! なんだってボクが、こんな汗塗れになるまで走らなければならないんだ……!」
ジョンを呪っているのは、彼自身だけではなく、ヴィクターも同じだった。かなり利己的な理由ではあるが。
「お前……、なんでいるんだよ」
「キミを、追いかけた、からに、決まって、いるだろう……!」
しばらくの間、二人は互いに息を整える事に専念した。やがてジョンは汗で冷えた体に、ヴィクターから受け取ったコートを羽織った。
「……僕は、最低な奴だな」
ボソッと、ジョンは宙空を見上げてそう呟いた。ヴィクターは彼の背中を見詰めながら、いつも通りの軽口を叩いて見せる。
「今頃になって気付いたのかい? まったく、キミは自己認識が甘いなあ――」
しかし、ジョンからの返答は乾いた笑い声だけだった。肩透かしを喰らったヴィクターは「これは相当だぞ……」と、口の中で呟いた。
あのジョンがボクの軽口に食ってかからないだなんて……、前代未聞もいいところだ。ジェーンのあの言葉が、彼にそれほどまでに深く突き刺さったのか。
――「父さんとジェーンを奪った癖に……」。思い返すだけで胸が苦しくなる。その言葉を吐いたジャネットと、それを受けたジョン。二人が互いに苦しむだけの、禁忌に近い言葉だった。
それは言ってはいけないよ、ジャネット。……ヴィクターは重たい息を吐いた。しかし、ジェーン、ワトソン、シャーロックを襲った悲劇は、ジョンの所為でないとは言い切れない。あの三人はジョンを庇い、そして命を奪われた。そして、当時の出来事を、当の本人であるジョン自身が良く覚えていないと言う。ジャネットの気持ちを考えれば、「ふざけるな」と憤ったとしても、誰もが「仕方ない」と頷くだろう。
けれど、ジャネットはそうしなかった。だから、彼女だって分かっている筈だ、ジョンを憎むべきではないのだと。でも、それでも――、溢れてしまったあの言葉。
ボクは甘かったんだ。ヴィクターは今更になって悔やむ。ジョンとジャネットの姿を長い間見ていた癖に――、いや見てきたからこそ、二人なら家族の死からでもすぐに立ち直ると信じ込んでいた。しかし、実際はどうだ。二人とも泥沼のような悔恨と悲壮に打ちひしがれているじゃないか。ボクは医者であり、何より二人の友人を名乗りたいのなら、手を取り、肩を取り、隣に立つべきだったのに。
「ヴィクター」ジョンが宙を見上げたまま、色のない声を落とす。「僕は、決めたよ」
「……何をだい?」
猛烈に嫌な予感を沸き立たせるその声音に、背筋を震わせながら、ヴィクターが問う。
「探偵を、辞めようと思う」
「――――」
ジョンの言葉に、ヴィクターの顔が思わず引き攣った。
それは全ての否定、全ての崩壊。ジョン・シャーロック・ホームズが積み上げてきた全てを終わらせることを意味する。
彼は今までずっと探偵に――、シャーロックに勝つ為に生きて来たのに……。
だが、ヴィクターはそれを口に出せなかった。ジョンを否定するような言葉を自分が吐いてしまっては、彼の居場所がなくなってしまうと危惧したからだ。弱音を吐ける場所があるというそれだけで、人間は精神を保つ事が出来る。
「……本当に、それでいいのかい」
ヴィクターがジョンに本音を言えないのは、他にも理由はあった。歯を噛みながら、本質から迂回するような問いで、彼は自分を誤魔化していた。
「しょうがないだろ。僕の親父はあのシャーロック・ホームズだ。その息子だって言うなら、どうしたって悪魔に目を付けられる。探偵なんて職に就いているのなら、尚更だ。僕は悪魔に関わるべきじゃない。僕はともかく、周りの人間が巻き込まれる。そんなこと、分かり切っていたのに」
僕はその道を選べなかった――いや、選ばなかった。ジョンはそう言って、自分の顔を両手で覆った。
「僕は親父に負けたくないが一心で、周りの事なんて考えなかった……! どうしようもなく自分勝手で、呆れるくらいに頭の悪い出来損ないだ……!」
偉大な父親から何も受け継がなかった劣等。偉大な父親の足下で尊大に吠えるだけの雑魚。偉大な父親から学び、しかしその父親を殺めた人でなし。偉大な父親の損失を埋めるには到底、力不足の役立たず。
嗚呼――、聞こえてくるようだ。ヴィクターが顔を歪ませ、胸を掻き抱く。ボクは愚かだった。ジョンの心がこんなに悲鳴を上げていたのに、何一つ気付けず、なぜ時間なんかに解決を委ねていたのか。
「ジョン、それは違う。キミは強い。ボクは、それを知っている」
「でも、親父ほどじゃない――だろ」
「…………」
シャーロック・ホームズは偉大だった。偉大過ぎたのだ。本来なら憧れるだけで、比較対象になどしない程に。しかし、ジョンにとっては幼い頃から目の前にある明確な目標であり、世間にとってはその位置を彼が継ぐのは、当たり前の認識だった。
「役立たずで無力な奴が、親父に追い付こうだなんて、土台無理な話だったんだ……。身の程を知るには、余りにも遅すぎた。親父が死んでから、それに気付くだなんて、僕の、僕の――」
僕の今までは、一体なんだったんだろうなあ――ッ! 激しい怒りを吐き出し、ジョンはレンガで出来た壁に、自分の拳を叩き付けた。躊躇のないその一撃は皮膚を裂き、血を飛び散らせた。
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