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元婚約者の来訪
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それから数ヶ月。
イヴァンは苛立った表情を隠さなかった。
瞳はキュ…と細められ、眉間に深い筋が一本走っている。唇は固く結ばれ、時折小さく乱雑な息が鼻から漏れた。
視線は鋭く目の前の男を見つめている。
「せめて御一報をいただきたかったのですがね……」
「このような最果ての修道院に何を用意する事がある。別に時間も取らせない」
「…それもそうですね。いやはや、何も準備も出来ず……」
目の前にいるのはルーシュカの元婚約者だった。
前触れもなく突然教会へやって来たのだ。
公爵家の嫡男ゆえに無理矢理追い出す訳にもいかず、仕方なく客間に通したのだが。
イヴァンは歓迎の姿勢を一切見せず、ただ眉をしかめて対応を行った。神父らしからぬ動向だとは理解しているが、寛容と慈愛はそれぞれ別々のものだから、マ、よしとする。
身の毛もよだつほど嫌いな男が、不遜にも聖なる地に踏み入ってくるのが気に食わないのだ。どんな図太さがあればそんな行動が出来るのだとさえ思う。
せっかくルーシュカと一緒に小鳥を見たり料理をしたり絵本を描いたりするほんわかぱっぱな日々を過ごしていたのに、邪魔者に乱入された気分だ。
簡潔に言うと、嫌いな男が目の前に現れたのでとても嫌な気持ちという訳である。
「それで、ご来訪の理由は」
「アイツを連れ戻してやりに来た」
「……、」
その上で更に何を言い出すのかと思えば。
イヴァンは絶句して、しばらく微動だに出来なかった。喉仏が一度だけ小さくヒクついたきり、息さえも失ったように静まり返る。意味がまともに理解出来ないのだ。
連れ戻すとは、つまり、ルーシュカを。
ルーシュカを貶め追い出した本人が、自分の元に呼び戻そうとしている。
そんなふざけた言い分が、まかり通るとでも思っているのか。
「……お断りします。彼はこの教会のシスターです。」
「俺の婚約者を害したからな。だけれど、その罪を特別に許してやることにした。」
「仰る意味がよく分からないな…」
「条件付きで許してやって、公爵家に入れてやる事になった。アレは最後まで謝りもしなかったが…流石に当分こんな所で働かせれば懲りただろう。俺の婚約者に誠心誠意謝罪をさせて、公爵の妻としての仕事のみに従事する事を条件として、貴族の籍を戻してやる事にした。」
「……」
「俺が条件付きで側室にしてやると言った……とだけ伝えてきて頂けるかな。アレは狡猾な男だから、きっと飛び付いてくるよ…」
イヴァンはこれにカッと頭に血が上り、思わず立ち上がるところだった。怒鳴りそうになるのを必死に押し留め…押し留めたと言うよりも、あまりの怒りに声すら出なかったのだと気付く。
彼は目を見開いたまま元婚約者を見つめた。
噛みしめた奥歯が、軋む音を立てている。力の入った肩はいきり立ち、拳は白くなるほど握りしめられ血の気が引いていた。
「……あの子、は、話に応じないと思いますよ」
唇が震える。それだけの声を出すのが精一杯だ。
目の前の男はどのような侮蔑を吐いたのだ。
同じ人間だとは思えない、悍ましいものと対峙している気分。
「なんだ。存外まともに奉仕でもしていたのか。反省している姿を見せれば許されるとでも思ったのかな、小賢しい。」
「そんな事はない。ルーシュカは真面目で敬虔な信徒です。彼は神に日々祈り、今日(こんにち)を守られた事と、明日の加護に感謝をしているのです。」
「内心はどう思っているのやら」
「ルーシュカは戻りません。もはや、俗世からは離れた人間なのです。」
「アレにそんな殊勝な心があるものか。良いから早く呼んできていただきたい。謝罪の仕方はこちらで教える」
……もしかしたら自分は、これから初めて人を殺すのだろうか。
彼は漠然とそう気付いた。
自分はいつだって善人だったけれど。好きな子の為に悪人になれないのなら、そんなの生きている意味が無い。
自分のものにする為に、それ以前にルーシュカの為に、あの子を丸ごと壊したのだ。人格ごと押しつぶすように許容量の越えた愛を与えて、二度と正気に戻らせないために。
そんな大それたことが出来たのなら、きっと目の前の悪漢を葬る事だって出来る。
覚悟は無いが、衝動はある。
──神はきっとこれを赦す。
そうとさえ思って、元婚約者の喉に視線を定めた時である。
「……しんぷさま、」
「シュシュ?」
扉の向こうからルーシュカの声がした。
イヴァンが慌てて振り返るが、幸いまだ扉は開けていなかった。彼は振り返った姿勢をそのままに、視線だけを元婚約者に向ける。
この部屋にあの子を入れる訳にはいかない。
ルーシュカは今更この男に何を言われようとも、きっと気にも止めない…と言うより上手く理解さえ出来ないだろうけれど。
だからといって、この男に合わせたくない。イヴァンがそれを嫌なのだ。
ルーシュカが傷付かないからと言って、自分の寵児が何かをされても耐えられるほど立派な人間では無いのである。見下した視線を投げられたら、悪意をぶつけられたら。
あの子は、そんな侮辱を許されて良い人間では無いのに。
かつてそれを行なった男が居る部屋に、近付いてしまっただけでも恐ろしい。
「シュシュ、いい子だからそこで待っていて。……すみません、少し席を外しますね」
「…手短に?」
イヴァンはそう言って席を立つ。
元婚約者はそれを見送って、一枚壁の向こうにルーシュカがいる事を悟った。
神父はどうしてかルーシュカを引き留めているが、あの矮小な男のことだ。自分が此処に来たと分かれば、きっと感謝をして飛び付いてくるだろうと思う。
あのお高く止まった男がこびへつらって頭を下げると思えば、想像するだけで小気味よかった。
それに今だってきっと、自分の来訪を嗅ぎ付けて押しかけて来たに違いない。高慢だと思っていたが、案外可愛気もあるじゃないか。……
イヴァンは苛立った表情を隠さなかった。
瞳はキュ…と細められ、眉間に深い筋が一本走っている。唇は固く結ばれ、時折小さく乱雑な息が鼻から漏れた。
視線は鋭く目の前の男を見つめている。
「せめて御一報をいただきたかったのですがね……」
「このような最果ての修道院に何を用意する事がある。別に時間も取らせない」
「…それもそうですね。いやはや、何も準備も出来ず……」
目の前にいるのはルーシュカの元婚約者だった。
前触れもなく突然教会へやって来たのだ。
公爵家の嫡男ゆえに無理矢理追い出す訳にもいかず、仕方なく客間に通したのだが。
イヴァンは歓迎の姿勢を一切見せず、ただ眉をしかめて対応を行った。神父らしからぬ動向だとは理解しているが、寛容と慈愛はそれぞれ別々のものだから、マ、よしとする。
身の毛もよだつほど嫌いな男が、不遜にも聖なる地に踏み入ってくるのが気に食わないのだ。どんな図太さがあればそんな行動が出来るのだとさえ思う。
せっかくルーシュカと一緒に小鳥を見たり料理をしたり絵本を描いたりするほんわかぱっぱな日々を過ごしていたのに、邪魔者に乱入された気分だ。
簡潔に言うと、嫌いな男が目の前に現れたのでとても嫌な気持ちという訳である。
「それで、ご来訪の理由は」
「アイツを連れ戻してやりに来た」
「……、」
その上で更に何を言い出すのかと思えば。
イヴァンは絶句して、しばらく微動だに出来なかった。喉仏が一度だけ小さくヒクついたきり、息さえも失ったように静まり返る。意味がまともに理解出来ないのだ。
連れ戻すとは、つまり、ルーシュカを。
ルーシュカを貶め追い出した本人が、自分の元に呼び戻そうとしている。
そんなふざけた言い分が、まかり通るとでも思っているのか。
「……お断りします。彼はこの教会のシスターです。」
「俺の婚約者を害したからな。だけれど、その罪を特別に許してやることにした。」
「仰る意味がよく分からないな…」
「条件付きで許してやって、公爵家に入れてやる事になった。アレは最後まで謝りもしなかったが…流石に当分こんな所で働かせれば懲りただろう。俺の婚約者に誠心誠意謝罪をさせて、公爵の妻としての仕事のみに従事する事を条件として、貴族の籍を戻してやる事にした。」
「……」
「俺が条件付きで側室にしてやると言った……とだけ伝えてきて頂けるかな。アレは狡猾な男だから、きっと飛び付いてくるよ…」
イヴァンはこれにカッと頭に血が上り、思わず立ち上がるところだった。怒鳴りそうになるのを必死に押し留め…押し留めたと言うよりも、あまりの怒りに声すら出なかったのだと気付く。
彼は目を見開いたまま元婚約者を見つめた。
噛みしめた奥歯が、軋む音を立てている。力の入った肩はいきり立ち、拳は白くなるほど握りしめられ血の気が引いていた。
「……あの子、は、話に応じないと思いますよ」
唇が震える。それだけの声を出すのが精一杯だ。
目の前の男はどのような侮蔑を吐いたのだ。
同じ人間だとは思えない、悍ましいものと対峙している気分。
「なんだ。存外まともに奉仕でもしていたのか。反省している姿を見せれば許されるとでも思ったのかな、小賢しい。」
「そんな事はない。ルーシュカは真面目で敬虔な信徒です。彼は神に日々祈り、今日(こんにち)を守られた事と、明日の加護に感謝をしているのです。」
「内心はどう思っているのやら」
「ルーシュカは戻りません。もはや、俗世からは離れた人間なのです。」
「アレにそんな殊勝な心があるものか。良いから早く呼んできていただきたい。謝罪の仕方はこちらで教える」
……もしかしたら自分は、これから初めて人を殺すのだろうか。
彼は漠然とそう気付いた。
自分はいつだって善人だったけれど。好きな子の為に悪人になれないのなら、そんなの生きている意味が無い。
自分のものにする為に、それ以前にルーシュカの為に、あの子を丸ごと壊したのだ。人格ごと押しつぶすように許容量の越えた愛を与えて、二度と正気に戻らせないために。
そんな大それたことが出来たのなら、きっと目の前の悪漢を葬る事だって出来る。
覚悟は無いが、衝動はある。
──神はきっとこれを赦す。
そうとさえ思って、元婚約者の喉に視線を定めた時である。
「……しんぷさま、」
「シュシュ?」
扉の向こうからルーシュカの声がした。
イヴァンが慌てて振り返るが、幸いまだ扉は開けていなかった。彼は振り返った姿勢をそのままに、視線だけを元婚約者に向ける。
この部屋にあの子を入れる訳にはいかない。
ルーシュカは今更この男に何を言われようとも、きっと気にも止めない…と言うより上手く理解さえ出来ないだろうけれど。
だからといって、この男に合わせたくない。イヴァンがそれを嫌なのだ。
ルーシュカが傷付かないからと言って、自分の寵児が何かをされても耐えられるほど立派な人間では無いのである。見下した視線を投げられたら、悪意をぶつけられたら。
あの子は、そんな侮辱を許されて良い人間では無いのに。
かつてそれを行なった男が居る部屋に、近付いてしまっただけでも恐ろしい。
「シュシュ、いい子だからそこで待っていて。……すみません、少し席を外しますね」
「…手短に?」
イヴァンはそう言って席を立つ。
元婚約者はそれを見送って、一枚壁の向こうにルーシュカがいる事を悟った。
神父はどうしてかルーシュカを引き留めているが、あの矮小な男のことだ。自分が此処に来たと分かれば、きっと感謝をして飛び付いてくるだろうと思う。
あのお高く止まった男がこびへつらって頭を下げると思えば、想像するだけで小気味よかった。
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