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第二章 黒猫の恋人
第46話 噂
しおりを挟む「猫実マネージャー、昼飯行きませんか?」
週末から溜まっていた稟議書に判を押していると、珍しく楠木からランチの誘いがあった。
俺から誘うことはあっても、部下から誘われる事は稀であるため、何かあるな、と直感で感じ、そのまま楠木に訊ねてみる。
「なんだ、何か相談事でもあるのかな?」
「相談というか、嫁に猫実さんを連れて来て欲しいと言われまして…。」
「は?嫁?なんで?」
楠木の嫁とは広報の仕事で何度か会ったことがあったが、それ程親しい間柄ではなく、ましてや今は広報関係の仕事もないはずなので、俺を呼びつける理由がさっぱり見当たらない。
考えられるのは……
「今朝の件…じゃないですかね?すごい勢いで情報回ってますよ。問い合わせも凄くて…相手は一営の仲原ですよね、と。」
あぁ、やはりそれか。
今朝の一件で、俺と名月の仲は一躍時の人となり、我社きってのビッグカップル誕生だ、と周りが騒いでいるのは既に俺の耳にも届いていた。
それに、先程本部長から直々に『絶対に別れるなよ。大事にしろ。早く結婚しろ。』と有難くない内線も貰った。
そんなのあの狸に言われるまでもない。別れないし、大事にするし、ぶっちゃけすぐにでも結婚したい。
あんな事をしでかした俺が言える立場ではないが、周りが勝手に騒ぐのいいが、色々と詮索されるのは些か煩くてたまらない。放って置いて欲しいのが本音だ。
しかし、それが楠木の嫁が俺を呼んでいる件と、一体なんの関係があるのだろうか。疑問に思った俺は楠木に直接訊ねる。
「…あぁ、その件ね。仲原と付き合ってるけど、それがお前の嫁となんの関係があるんだ?」
「えっと……実は仲原は俺の一営時代の後輩なんです。しかも俺の嫁と仲原は同期で仲が良かったので…さっき嫁が仲原と話がしたいって連れ出したみたいで、猫実さんも呼べないか、と。」
「はぁ、なんだそれ……ようするに、俺らの話を聞きたい、飯の種になれということか?」
「詳しい事はわからないですが、色々と気にしてましたから…仲原はどうかわからないですけど。」
うわぁ……これは面倒くさい事になったな。
人の領域に土足で踏み込んできて根掘り葉掘りほじくられるわけか……心底虫唾が走る。
俺は心の中で悪態をつき、舌打ちをした。
普段なら絶対に関わらないのだが、今回の事の発端は、俺の嫉妬心と独占欲から行った他の男共への牽制が原因なので、無碍に断るという選択肢はなかった。
「初心な名月を巻き込んだのは俺か。…仕方ない……名月のためだから、行くよ。」
俺は短く嘆息し、楠木の誘いに乗ることにした。
◇◇◇
そして、楠木に連れられていったレストランで、まさか、名月から目を逸らされるとは思っていなかった……。
今朝まであんなにたくさん愛し合って甘い幸せな時間を過ごしたはずなのに、何故目の前の名月はそんな顔をしている?
俺の頭の中は疑問符でいっぱいだった。
「莉佳子!ごめん遅くなっちゃった。言われた通り猫実さん連れてきたよ。」
楠木は莉佳子と呼んだ女性の隣に座り、俺は名月の横に座った。
一体どうしたのだろうか。酷く顔色が悪く、心配で名月の顔を覗き込み、額に手を当てる。
「名月、お疲れ様。どうしたの?顔色が悪いけど。」
「…ううん、大丈夫なんでもないよ…」
名月はまたもや俺からふいと視線を逸らす。
本当に一体なんなんだ?
俺は名月の手を握りじっと瞳を覗き込み、名月の真意を探ろうとする。
心做しか、名月の瞳がゆらゆらと揺れているように見え、不安?不満?何か分からないが、俺に対して思うことがあるように見受けられた。
「名月?なんでもなくないでしょ。ちゃんと言いたい事あるならいって?」
「なんでもないって…大丈夫だよ。」
俺は名月を落ち着かせようと、できる限り優しく語り掛けると、名月は無理やり笑顔を作って俺に笑いかけてきた。
その笑顔に、俺の心は凍てつき、名月に対して残忍な気持ちが首を擡げてきた。
なんだその作り笑顔、気に入らないな。
顔から表情がすっと消え、俺から感情が抜けていくのを感じた。深い溜息をひとつ吐く。
「ふぅん。俺に言えないことでもあるんだね。」
自分でもわかる程冷え冷えとした声が出て、空気がピリッとした。その声音と空気にハッとした名月が漸く顔をあげ、俺に視線を合わせ伏し目がちにいった。
「あのね……ちょっと…不安になっちゃったんだ。それに少しヤキモチ焼いた……」
不安?ヤキモチ?何故?
社員の前で愛を囁いて、営業部でも俺の物だってアピールしたのに?
「へぇ、何が不安?俺不安にさせた覚えないけど。」
訳が分からず、ぶっきらぼうに言うと手元のコップをぐいと煽ると、その様子をハラハラしながら正面で見ていた楠木嫁が恐る恐る口を開いた。
「あー…猫実マネージャー……それ、多分私のせいです。すみません。私が名月に猫実マネージャーの噂話をしたせいで、色々と不安になっちゃったんだと思います。」
は?なんだって?噂話ってなんだ?
訳が分からず思考を巡らせていると、ふと、楠木嫁の所属を思い出した。
広報だ…しかも社内広報係だったはずだ。
俺は立場上、広報とは深く関わりがあった。
社外広報とは会社概要やホームページ、新卒採用資料等で俺が宣材になる事が多いし、社内広報とも社内報のインタビューで度々仕事をする程、広報とはかなり深く付き合いがあった。
社内広報であれば、社員の動向に詳しいのは納得だが…
俺の噂は個人的なことである。
そして、その広報の部長…新堂さんとは公私共に長い付き合いだった。俺が女遊びを卒業するまでは。
名月への恋を自覚してから、直ぐに俺は合コンへの参加はもちろん、ナンパも含めた全ての女遊びを辞めた。
俺目当てでの合コン参加者も居たらしく、参加者に文句を言われるのは俺が足を洗ったせいだ、と新堂さんには散々嫌味を言われたものだ。
もちろん、仕事上では今でも良好な関係であるのは間違いないのだが……
少し考えて確信が持てた俺は、にっこりと綺麗な笑顔を作り、楠木嫁に確認のため問いかけた。
「噂?どんな?」
俺の声音に怯んだのか楠木嫁は少しい淀むが、俺は笑顔で威圧し先を促した。
楠木嫁は俺の威圧に耐えきれなかったのか、楠木のスーツの裾をギュッと握り、恐る恐る俺の問いに答える。
「……すみません、失礼を承知でいいますね。主には猫実さんの女癖の悪さとか…」
やはりその噂か。であれば、発信源は新堂さんで確定だ。
後で文句を言っておこう。
それよりも、この噂を知らなかった名月になんという余計な事を吹き込んでくれたのか、と楠木嫁に若干のイラつきを覚えた。
いずれ耳には入るだろうが、もう少し信頼関係を結んでからにして欲しかった。今それを言っても仕方がないが。
俺は頬杖をつき表情を崩さないまま、楠木嫁を威圧し続けた。
「ちょ!莉佳子!お前なんて事を……」
「いや……話の流れで…鈴木くんの話から猫実さんが名月の恩人さんだったって言われて、想像つかないって所からそういう……」
さて、どうしたものか…と考えていると、目の前の楠木が真っ青になりガタガタ震えながら、隣の嫁を諌めている。
「いやさ、だからって……」
「心配だったんだもん……これ以上名月に傷ついて貰いたくないから、今朝の事も含めて、猫実さんの本気を……」
なんか時間の無駄だなこのやりとり。
そう思うと同時に、俺は言葉を発した。
「うん、それで?」
その恐ろしく冷えた声に、俯いていた名月ははっと俺に振り向き、目の前の楠木夫妻は恐怖に竦み上がった。
「……お、おい、莉佳子、謝った方が……猫実さん、うちの嫁がすみません。」
真っ青な楠木が、下を向いている嫁の代わりに謝罪をした。
チラリと横の名月を見ると戸惑っている様子で、おろおろとしている。
ここで怒るべきは楠木嫁でも、名月でも無い。もちろん新堂さんでもない。
全ては爛れて荒れた生活をしていた俺自身の問題なのだ。
であれば、これ以上楠木嫁を責めても仕方がないから辞めて置こうと、俺は短く嘆息する。
「あぁ、楠木。大丈夫だよ。君の奥さんはうちの名月の事が心配だっただけなんだと思うから。だけど、噂話まではちょっとやり過ぎかな。その話は事実なんだけどね。出来れば、俺の口から話したかったな。」
「そうですよね……出過ぎた真似をしてしまって……も、申し訳ありません……」
俺の言葉に、楠木嫁がはっとした顔をして、誠心誠意の謝罪をしてくれた。
その様子に、少しホッとしている名月が視界の端に見えた。
その瞬間に、ふつふつと名月に対して怒りが湧き上がってくる。
突然聞いた話に動揺した所までは、百歩譲って目を瞑るとして……
あの態度は如何なものかと思う。
言いたい事があれば言えばいいし、聞きたいことがあれば聞けばいい。
遠慮?ふざけんな、そんなのクソ喰らえだ。
これはキツいお仕置が必要だな。
とりあえず、今日はこのまま家に連れ帰ろう。
アポイント?そんなの知らない。
どうせ俺の案件だ。リスケにでもしたらいい。
それから、俺の本気を疑った目の前の楠木嫁にも、だんだんと腹が立ってきた。
だいぶ癪ではあるが、証明してやろうじゃないか、俺の本気を。
俺は片口角をあげて薄く笑み、名月と楠木嫁に視線を送る。
「俺の本気ねぇ。そんなの名月以外に信じて貰おうと思ってないけど、数少ない名月の友人っぽいし?ちゃんと説明した方がいい?ねぇ?名月?」
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