はなびらの中の楽園

ゆきの

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目覚め

はなびらの中の楽園

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それから、薔薇が好きな彼は、ちょくちょく私の庭を訪れるようになった。
季節は春。弾ける色、舞う花びら。薔薇園の一年で一番美しい季節。
「きれいだ」
いつのまにか堅い敬語が取れた彼が、猫のシロコの入った籠を抱いて、あたりをぐるりと見回した。
「そうね。薔薇はきれいだわ。だから私、好きなの」
「……優美、この薔薇をくれる?」
薔薇のためにしつらえた門に絡み付く、柔らかな色のアイスバーグを指差し、彼が笑みを浮かべた。
「ええ、どうぞ」
「ありがとう」
彼の長い指が薔薇の茎に鋏を入れる。どうするのだろうと見ていると、彼は不意にそれを、私へと差し出した。
「優美の服と同じ色。よく似合うよ。―――優美は白が好き?」
「……どうして?」
「いつも白い服を着てるから。白が好きなのかなって思ってた」
違う。それは、少しでも自分の醜さが目立たなくなるようにという、私なりの配慮だ。どんな色にでも染まる白ならば、私の顔に纏わり付く醜さも少しは受け入れてくれる気がするだけで、格別、私には、色の好き嫌いはない。
……いや……違う……確かに好きな色はある。ただ、それを身につけたいとは思わないだけだ。醜悪な私に許されるのは無彩色の世界だけなのだから。  
だから私は薔薇を育てる。それだけでも美しい薔薇は、鮮やかに色づいてなおいっそう美しくなる。まるで私とは正反対に。
そんなことを思い、返事をしかねていた私を見て、彼が首をかしげた。
「ごめん。白は嫌いだった?」
「嫌いだったら育てないわ」
 私の返答に、彼は吹き出した。
「それもそうだ」
「ごめんなさい。生意気言って」
彼の差し出してくれた薔薇を受け取ってから、私はそう言った。
「いや、生意気じゃないよ。ちゃんと筋が通ってる。だからかな。俺、優美と話してると、すごく楽しい」
彼が柔らかく微笑む。
そのとき、さあっと風が吹き、彼のブルーのジャケットがふわりとはためいた。見上げれば、きらきらと日に透ける、淡いブラウンの彼の髪。
私は目を細めた。
もちろん、仮面の下にはわずかにしか光は入って来ない。それでも、私にとって彼はまぶしかったのだ。なまなかな光などより、ずっと。
彼がここにいてくれる。それはなんという僥倖だろう。
「でも、真実は棘だわ。家庭教師の先生がいつかそうおっしゃっていたの」  
「じゃ、嘘は?」
「蜜……だそうよ」
「なら俺は、瓶に入った蜜の中で溺れてる蟻だな。いい匂いにつられて入り込んだのはいいけど、二度と出られやしない」
「どういう意味……?」
「ここはきれいだ。俺の世界とは違う」
 私の質問には答えず、彼はぐるりと薔薇園を見回した。
「あなたの世界はどんなところ?」
「汚いところ。ごみためみたいな。俺はそこでもがいてるんだ。出せ!ここから出せ!ってね」
 彼が、自嘲としか思えない笑みを浮かべた。その双眸に浮かぶ光は、まぎれもない憎しみだ。
不思議だった。美貌と、均整の取れた体と、こうして話している限りでは教養さえも兼ね添えている彼が、なぜこうもあからさまに世界を憎悪するのだろう。彼ほど恵まれた人ならば、どんな素晴らしい人生を手に入れることもできるだろうに。
私が決して得ることのできないそれを。
「あ、優美、ごめん。愚痴を言うつもりなんかなかったんだけど。あなたはなんだかすごく話しやすいから。本当にごめん。もう言わないよ」
「愚痴くらいいくらでもどうぞ。それで少しは気が晴れるのなら」
「ううん。もう言わない。―――ここが汚れるから」
最後の彼の言葉はかすかにしか聞こえなかった。
けれど私は、それ以上は聞こうとしなかった。彼も恐らく、そんなことは望んでいまい。
私たちはガラスの床の上に立っている。そしてそれは、互いのことを何も聞かないうちはひびひとつ入らないだろう。けれど、もし、知ろうとすれば……きっと床は砕けてしまう。後には何も残さず、粉々に。
だから私も、仮面の下に隠してある自分の醜さを打ち明けない。彼のことを聞かない代わりに、私のことを言いもしない。それが彼と少しでも長くいるために私ができる精一杯のこと。
それに、これ以上、何が必要だというのだろう。
彼は無彩色の私の世界に、薔薇より鮮やかに色を与えてくれたというのに。



                                
薔薇が散っていく。
鉄柵にからんだ名残の蔓薔薇だけが生き生きと咲き、ほかの地植えの薔薇はみな、色とりどりの花の代わりに緑の葉を茂らせた。
くすんで土に溶けていく花びら。そのかわりに濃くなっていく刺の、赤い腫れ物めいた色。
いつしか、雨がちな梅雨は去り、夏の足音が聞こえ始めていた。
彼がこの庭を訪れなくなって、もう一カ月近い。
彼の身に何かあったのだろうか。始めはそんなことばかりを考えて、日々の薔薇の水やりもなおざりになるほどだった。
けれど、ある日気づいてしまったのだ。
ほんの偶然でこの庭を訪れた彼。ならば同じような気まぐれで、この庭を訪れなくなっても不思議はない。
だから、彼はもう来ないかもしれない。
「来ないかもしれない」
つぶやいた言葉は、想像していたよりずっと深く心に食い込んだ。
来ないかもしれない。
いや、きっともう来ない。
こんな仮面をつけた妙な女のところに彼が来てくれていたことの方がおかしかった。
彼には広く美しい世界があり、私の世界はここだけだ。
それでも私は彼に会いたかった。
無理な望みなのはわかっている。なぜ望む?そう尋ねる声が自分の中から湧き上がってくるのも感じている。
けれどこれだけはどうにもできない。自分が愚かだと理解はしても。
彼だけが、私をまっすぐ見てくれた。
彼だけが、私から目をそらさなかった。
だからどうか。来て。ここへ。
「ハル―――お願い―――ハル」
私は初めて彼の名を呼んだ。
頬をつたう、これは涙だ。
愚かな私の、流す涙だ。
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