はなびらの中の楽園

ゆきの

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永遠

はなびらの中の楽園

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その日は熱雷の音が聞こえていた。
熱帯のスコールのように降りつける雨。ほんの少し前までブルーの絵の具を塗ったようだった空も、濃い灰色の雲にべったりと覆われてしまった。
時分は暑い盛り。急に降られて私は薔薇園の一角の温室の中へと逃げ込む。ガラスの壁に吹きつける雨音を聞いていた私は、朝のうちに薔薇に水をやらなくて本当によかったと思っていた。せっかく大きく育てたかわいい薔薇たちに、水のやりすぎで根腐れを起こされてはたまらない。
すこし濡れた髪をタオルで拭って一息つくと、コツコツとガラスを叩く、雨音とは明らかに違う音が聞こえてきた。
「優美───」
そして、私を呼ぶ優しい声。
「ハル?」
期待してはいけない、そう自分に言い聞かせながら振り向いた私の視界に入って来たのは、濡れそぼった薄茶の髪。それから、胸に抱え込んだ鉄の籠。
そして……神の奇跡のような……美貌……。
「ハル!」
そこにいたのは、空っぽの籠を抱いた彼だった。
「何をしてるの?風邪を引くわ。さあ、中に入って」
温室の扉を開け、彼を中へと招き入れた。
彼は素直にそれに応じて……けれど、うつむいたまま、顔を上げようとしない。
彼は雨宿りなどしなかったのか、頭から爪先でずぶ濡れだった。服からも、髪からも、ポタポタと雨の滴がしたたっていた。
「とにかく髪だけでもふいた方がいいわ。夏の風邪はたちが悪いから」
そう言って、タオルを彼へと差し出したとき、不意に顔を上げた彼が、口を開いた。
「逃げたんだ」
中に誰もいない籠を抱きかかえたまま、彼は繰り返す。
「逃げたんだ」
「シロコが?」
「そう。ちょっとした拍子に籠の扉が開いて……そうしたら。俺のことを振り返りもしなかった」
「そんな……」
「でもこれでよかったのかもしれない。この中は牢獄だったけれど、きっと外だって牢獄だってことに、いつかシロコも気づく」
「何を言っているの……?」
「優美、ここはきれいだね。……世界には、こんなきれいな場所もあったのに、いつだって俺は遅すぎるんだ」
彼が籠を床に降ろしてつぶやく。その眼差しはとても遠くて、まるで、ここではないどこかへ思いを馳せているようだった。
「……優美、聞いてくれる?」
彼にそう聞かれて、私はうなずくことで肯定の意を示す。彼は、少しの間ためらうように目を伏せて、それからゆっくりと口を開いた。
「俺は病気なんだ。もう助からない」
「なっ……」
あまりにも現実感のないその告白に、何故?と問おうとした私を、彼は静かに押しとどめる。
「それで入院してたから、しばらくここにこれなかった。でも、いやになったんだ。あんな薬の匂いのする場所にはいたくない。優美には迷惑かもしれないけど……俺はここが好きなんだ。薔薇が咲いていて、優美がいて、俺においしいお菓子とお茶と、優しい声を聞かせてくれる。庭のテーブルであなたと話してると、外の世界なんか嘘みたいに思えてくるんだよ。一度しか会ったことのない俺を、あなたはすぐに薔薇園に入れてくれたよね。あれからずっと俺は、どうすればここに長くいられるのかってことばかり考えていた」
「そんな……」
「黙っててごめん。あなたには知られたくなかった」
彼が痛々しく微笑んだ。不思議なことに、それはとても美しかった。少なくとも、私にはそう見えた。
「俺は何もできないくせに、金ばっかり欲しがってた馬鹿な子供だったんだ。金が欲しくて、でもこの顔しか取り柄がないから体を売って、そのせいで病気になって、それで今、死にかけてる。ねえ、優美、あなたはきっと笑うだろ?そんなもののために、どうしてって笑うだろ?
俺は汚い。なのに俺はそんなのも気づかなかった。俺の世界はごみためで、本当にきれいなものなんか見たことなかった。何もかもここに来て初めて知ったんだ!」
そう、吐き捨てるように言う彼に歩みよって、私は彼の頭を、ごしごしとタオルで拭いた。「優美……?」
「笑ったりなんか―――しないわ。
それに、あなたは汚なくない。確かに今まであなたがしてきたことは、あんまり誇らしいことじゃないかもしれない。でも、それでも、あなたはとてもきれい」
「優美」
「だから早く雨をふいて。風邪をひくから」
「……ありがとう」
「拭き終わったら、中でお茶をいただきましょう。体をあたためなくちゃ」
「じゃあ、お願いがひとつ」
「どうぞ」
「あれが食べたいな。アイスに熱いカプチーノをかけたやつ」
「いいわ。すぐ用意してさしあげる。さあ、行きましょう」
「それからもうひとつ」
そう言って、彼がようやっといつもの笑顔を浮かべてくれた。咲き誇る薔薇よりずっと美しい、華やかな笑顔。
それから、ほっそりとした指が私の腕をつかむ。想像していたのよりずっと強い力で。
「俺をここで死なせてほしい」
「ハル……」
私に何が言えただろうか。
『最後まで頑張って』?
『死ぬなんて駄目よ』?
嫌だ。そんな当たり前の言葉が何の役に立つものか。嘘ばかりだ。
私たちは、どうあがこうとどうしようもないことがあるのを知っていた。
私にとってのそれは醜さであり、彼にとってのそれは死だった。
そして彼は、そのどうしようもない死に勝つために自らを屠ろうとしているのに。
だから私はうなずいた。
「いいわ。ここで死んで、いいわ」
それを聞くと、彼はたとえようもなく幸せそうに微笑んだ。
「ありがとう、優美」
それから私たちは、屋敷のサンルームで、二人だけのお茶会をした。
濃いヴァニラアイスに熱いカプチーノをかけた、彼お気に入りのデザートと、とっておきのシャンペン。父が集めていたものの一つ、古い当たり年のグラン・コルドン・ロゼ。
それと一緒に彼が口に運ぶのは、小さな白い錠剤。
「じゃ、優美、俺の体は薔薇の下に埋めてほしい」
「わかったわ。どの薔薇がいい?」
「そうだね……。俺が初めてあなたに貰った、あの真っ赤な薔薇の下に」
「そうね。そうしましょう」
「ちゃんと、薔薇……咲くかな……」
 少しずつ彼の言葉の語尾がくぐもっていく。
「咲くわ。絶対に」
 私がきっぱりとそう言うと、彼は安心したようにテーブルの上に突っ伏した。
「優美……最後に……仮面を取って……?」
それだけは聞けないと私は思った。
 彼が最後に見るものが、こんな醜い私だなんてこと、あってはならない。
けれど。
「取って……優美……」
力無く伸ばされた彼の指が、私の仮面に触れる。仮面に隔てられて、じかに感じるはずのない彼の温かさが、私の頬にまで染みとおるような気がした。
私は仮面に手をかけた。
私は醜い。仮面は外したくない。それが彼の前ならなおさら。
けれど、もしそれが彼の願いなら、私はなんであれ叶えたいのだ。たとえ今まで隠してきた私の醜さが、彼の目の前に晒されてしまうとしても。
怖いような静寂の中、私がテーブルに仮面を置く音だけがかすかに響く。
彼は仮面のない私の頬に触れて、感触を確かめるようにその上で指を滑らせたあと、ふわりと微笑んだ。
「よかった……仮面……外してくれたんだね……」
「ハル?」
「ずっと見たかった……あなたの顔……きっとすごくきれいなんだろうな……そんなので隠しちゃうの……もったいないよ……」
「もう、見えないの?」
「う……ん……ざんねんだ……な……でも……わかる……よ……あなたがみていて……くれること……やさ……しい……ゆみ……ずっと……みてい……て……ずっ……と……」    
そこまでゆっくりと言ってから、彼は静かに目を閉じた。
そして、一息すうっと吸い込んで、それきり二度と、息をしようとはしなかった
「ハル」
私は彼の名を呼ぶ。
それは私にできる唯一のこと。
恋人なら、最後のくちづけをしたかもしれない。母親なら、泣いて、それでも彼は新しい始まりを手に入れたのだと、無理にでも笑おうとしただろう。
でも、わたしは彼の愛した薔薇園の管理人だから。
くちづけも泣くことも笑うこともできない。
私は、彼の髪にそっと触れた。
それから、管理人にも言える言葉があったことを思い出す。
「さよなら」




私は、彼の体をその願いどおりに薔薇の下に埋葬した。
彼は、花が咲くかどうかを心配していたが、それは杞憂だった。
彼の愛した紅色の薔薇は、前の年よりもずっと華やかに咲き誇った。
私は、家政婦とときおり話し、笑うようになった。
  
私は―――仮面を捨てた。
  
そして、そのままの顔で外にも出るようになった。
もちろん、すれ違うたいていの人は振り返る。
本人は聞こえないつもりで言っているような陰口も、聞こえよがしの声も、どちらもよく聞こえる。気味悪がられることもあるし、目を背けられることもある。
それでも私は胸を張れるようになった。醜さも、何もかもひっくるめて、私は私だと思えるようになった。
何も恥じることはない。
いや、むしろ、恥じてはいけないのだ。
自分を恥じてしまったら、私は私の誇りまで失ってしまう。
そんなことはしたくない。
彼が知っている私は、醜さにおののき、みずからの顔を切り刻みたい欲望と毎日戦っている私ではないのだから。
背筋を伸ばし、薔薇の苗を植え、爛漫と煙る色彩を身に纏おう。彼の薔薇の前で言おう。私は本当は、その紅色が一番好きだったと。
私が死んで、彼と同じく薔薇園の底に沈むそのときに、仮面のないこの顔をためらわずに彼に晒せるように。
まっすぐに、彼を見つめられるように。
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