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学園都市編

126話 心変わり

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 緊急クエストが発生しました。
 閉鎖された空間に流れ出したアナウンスは、パーティメンバーを不安にさせる。
 四方八方を取り囲んでいたドワーフが一斉に砂となって消えると、杖を握りしめ身構えていたアヤネが恐怖心に苛まれる。

「え……何? 怖いんだけど」
 アヤネがか細い声で呟いた。
 恐怖心から神経が研ぎ澄まされた状態となっていたのだろう。
 ドワーフの落とした金品やアイテムが音をたて地面に打ち付けられると、小さな悲鳴を上げて後退る。

 何が起こるのか分からない状況の中で恐怖心に耐えられなくなったのだろう。
「もう嫌、帰りたい」
 後戻りを望んだアヤネがヒビキの腕にすがり付く。

 アヤネが洞窟内の変化に戸惑い今にも泣き出しそうになっている状況の中で、握りこぶしほどの大きさのある炎が周囲を照らす。

 緊迫した雰囲気の中で離れた位置にいるよりは一箇所に集まっていた方が安全であると考えたのだろう。
 魔術師の男性がシエルの元へ歩み寄る。
 巨大な渦に向かって杖を構えてはいるものの、気分は今すぐにでもこの場所から逃げ出したい気持ちなのだろう。
 随分とへっぴり腰である。

 魔術師の青年に続き、魔術師の女性がシエルの元へ歩み寄った。
 杖を構えて身構える。
 攻撃呪文を唱える気満々の状態である。

 魔術師二人に挟まれたシエルは、剣を握り締めたまま落ち着いた様子で頭上を見上げている。
 急な環境の変化に直面しても、すぐに順応する事が出来るのだろう。
 国王暗殺を企むだけあって肝がすわっている。
 敵に回したくはない人物である。

 何て事を考えていれば
「何が起こっているのですか?」
 無表情を貫いたままのシエルに、少し早い口調で問いかけられる。
 視線は相変わらず渦の中央に向けられたままである。
 表情には出ていないだけであって、内心では激しく動揺しているようだ。

 シエルの問いかけに対して
「何だかボスモンスターが現れそうな雰囲気ですね」
 ヒビキが穏やかな口調で返す。
 まるで他人事のようである。
 アヤネを守るようにして背に隠し、渦の中央を見上げている。緊迫した雰囲気であるにもかかわらず、余裕を見せるヒビキに対してシエルが疑問を抱く。

「のんきに渦を見上げている場合ですか。危機的な状況であることを把握していますか?」
 ボスモンスターが現れそうですねと口にしたわりには、ヒビキの表情は穏やかである。
 Fランクである彼は凶暴なモンスターと対峙したことが無いため、ボスモンスターがどれほどの強さなのか分かっていないのだろうか。
 なんて事を考えているシエルに向かってヒビキは苦笑する。
 
「危機的な状況である事は分かっているのですが、恐怖心からうまく身動きが取れません」
 余裕があるように見えているのであれば、それは勘違いであることを伝えてシエルの考えを訂正する。
 魔力が枯渇している今、強力なボスモンスターが現れてしまえば立ち向かう術はない。
 敵が現れる前から騒ぎ立てることも出来ず流れに身を任せるしかない状況の中で、ヒビキは項垂れる。

「身動きが取れませんって……もしも、本当に貴方の言った通り渦の中からボスモンスターが現れたらどうするのですか? ボスモンスターはレベル100以上のものを言います。精鋭部隊と呼ばれている騎士団が束になってやっと倒す事の出来る相手ですよ。貴方は身動きをとる事が出来ないまま大人しく死を迎えるのですか?」
 シエルは呆れたようにため息を吐き出した。

「ヒビキ君は例えレベル100を超える強力なモンスターが現れたとしても、真っ先に挑みに行くと思うわよ。前例があるわけだし」
 アヤネはシエルが国王暗殺を企てている人物だとは知らないため、ヒビキの情報を漏らしてしまう。
 
「レベル100を超えるモンスターに挑んだのですか。それは勇敢ゆうかんですね。流石に、倒すことは出来なかったでしょう?」
 シエルの問いかけに対して、自慢げに胸を張って答えたのはアヤネだった。

「ヒビキ君はドラゴンを倒しちゃったよ。副会長が言ってたから確かな情報よ」
 アヤネに悪気がない事は分かっている。
 ドラゴンを討伐した事実を誰にも言わないでほしいと、先に口止めすることをしなかったのはヒビキである。
 学園内でもヒビキがドラゴン討伐を成功させたという事実は少しずつ噂となって広がりつつあった。
 いずれは学園の教師であるシエルにも伝わっただろう。
 アヤネが例え、この場で黙って口を紡いでいたとしても遅かれ早かれシエルの耳には噂となって入っていた訳である。
 
「たまたまだよ。ドラゴンに食べられてしまって、驚いて剣を振り回していたら、ドラゴンを倒すことが出来たってだけで偶然が重なっただけだよ」
 たまたまであることを強調したヒビキの頬を冷や汗が伝う。
 シエルからの鋭い視線を受けて、視線を逸らす事が出来ずにいた。
 ヒビキが緊張感に苛まれている間にも洞窟内の状況は少しずつ変化する。
 地面に転がっていた金品やアイテムが一斉に宙へ浮かび、ヒビキのカードに吸収される。
 シエルが驚いたように目を見開き、魔術師達の視線がヒビキに向けられる。
 大きく肩を揺らしたアヤネは激しく混乱中。
 ヒビキへ視線を移すと同時に杖を握りしめて身構える。
 
「え、待って。落ち着いて」
 両手を中途半端な位置まで持ち上げて、さ迷わせたヒビキが早い口調で呟いた。

「お、落ち着いているわよ」
 言っている事と行動が噛み合っていない。
 強がってはいるものの、アヤネが激しく動揺している事は一目瞭然である。

「落ち着いているのなら、俺に向かって構えている杖を下ろしてよ」
 アヤネの構えた杖の先端が高速で上下に揺れ動いている。
 パニック状態に陥ったアヤネが今にも攻撃魔法を発動しそうな危険な状況の中で、ヒビキの額を冷や汗が伝う。

 弱音をはく妹を落ち着かせるために側に歩み寄りたい。
 しかし、時期に渦の中から現れるであろうトロールに対して先制攻撃を仕掛ける事を優先するべき状況だろう。
 
 剣を構えて立ち尽くしているヒビキを中心にして巨大な魔法陣が現れる。
 戸惑いながらもアヤネは杖の構えをとき、ヒビキの元へと歩み寄る。
 どうやら、足元に現れた真っ赤な魔法陣から距離をとるよりも、ヒビキの側にいたほうが安心できると考えたようす。
 
「まさか、トラップを発動してしまった何てことはないでしょうね」
 鋭い視線がヒビキに向けられる。

「罠を発動したつもりはないけど、知らない間に発動していたのならごめんなさい」
 相手が国王暗殺を企む人物ということもあり、緊張感に苛まれる。
 ヒビキの表情は曇り、シエルの鋭い視線に驚いたアヤネがヒビキを盾にするようにして身を隠す。
 
「先生と話をするのは初めてだけど、ヒビキ君に対して冷たいと思わない? 睨み付けなくてもいいのにね」
 アヤネがヒビキに耳打ちをした。

「俺が罠を発動したと思っているのだから仕方のないことだろうけど、警戒されてるのは悲しいものだね」
 ヒビキが苦笑する。

「危機的な状況の中で、ヒソヒソと身を寄せあって話している場合ですか? 状況を考えてみてはいかがでしょうか?」
 何の感情もこもってない随分と冷たい口調だった。
 ため息と共に吐き出された言葉を耳にしたアヤネが項垂れる。

「あなた達は魔方陣の中央にいるのですよ。まさか、現状況を飲み込めていないと言いだすのではないでしょうね」
 シエルの言う通りである。
 のんきに話をしている場合ではなかった。
 真っ赤な光を放っていた魔法陣が橙色に変化する。

 ヒビキを取り囲んでいた魔法陣が一際眩い光を放つと、洞窟内出入口付近で狩りを行っていたはずの冒険者が一斉に転移魔法にかけられたようだ。ヒビキを取り囲むようにして冒険者達が現れた。

 急な場所移動に戸惑っているのだろう。

「何が起こったんだ?」
 斧を扱う男性が、ぽつりと呟いた。

「ここは一体どこなの?」
 幼い子供をもつ母親が首をかしげている。
 周囲を漂う炎によって洞窟中央は明るく照らされている。

 武器を手にしたまま佇む冒険者達の間に緊張が走る。
 
「ここは洞窟中央です。緊急クエストが発生しました。頭上を見てください」
 パニック状態である冒険者たちに状況を伝えるため、ヒビキが渦を指差した。

 大きな鼻に、とがった耳。
 真っ赤な瞳が印象的なトロールは巨体を持つ。
 緊迫した雰囲気の中、冒険者達が息を呑む。
 渦の中からトロールが顔を覗かせていた。
 小さな女の子が母親にすがり付く。
 洞窟出入口付近で雷鳴を唱えていた男の子が、わなわなと震えだして泣き出した。

 巨体をもつトロールがヒビキのすぐ目の前におり立つと、音を立ててトロールの頭上に500とレベルが表示される。
 途端に周囲が騒がしくなった。

「無理だ。近寄ったら殺される!」
 本来なら前衛を得意とする剣士。白髪の男性がトロールから距離を取ろうとする。

「敵いっこないわ」
 黒いローブを身に纏い、フードを深々と被っている魔術師の女性が叫び声を上げる。
 身を引く冒険者達とは違って、先制攻撃を仕掛けるためにヒビキはトロールに向け一直線。
 躊躇うことなく走り出したヒビキに驚き、アヤネは顔を強ばらせる。
 力任せに振り下ろされた鉄の棒を避けると、勢いをそのままに武器に飛び乗った。
 全速力で駆け抜ける。

 トロールの腕に飛び乗ると、予想外の展開に身動きがとれずにいるのだろう。
 あんぐりと口を開き、間抜け面を浮かべるトロール目掛けて一直線。
 大きく見開かれた目に向かって、剣を突き立てようとする。
 しかし、すばしこい動きを見せるトロールが顔を背けることによって避けられてしまった。

 左手で弾かれたヒビキが空中で身体のバランスを崩す。
 身体は弾き飛ばされた事により宙に浮き、横一線になぎ払われた鉄の武器がヒビキの横腹に直撃する。
 防壁を張り巡らせたものの、瞬時に張り出された防壁の強度は低かった。
 ヒビキの横腹に激痛が走る。
 


「い……っ」
 呼吸が困難になるほどの強い衝撃だった。
 かろうじて声を出せたものの、息を全て吐き出してしまったため言葉は途中で途切れてしまう。
 身体は空中で一回転。地面に背中から叩きつけらた。
 仰向けに横たわったまま、ピクリとも身動きをとることの無いヒビキの意識は保たれているのだろうか。
 周囲に佇んでいる冒険者達が唖然とする中で、最初に口を開いたのはピクリとも表情を変える事なく佇んでいたシエルだった。
「先制攻撃は失敗ですか」
 ため息と共に呆れたように眉間にしわを寄せる。
 
「術を発動すれば、少しはダメージを与えることが出来たかもしれませんね。剣のみの力でトロールに挑むなど無謀です」
 ヒビキの意識が無いことを前提として思ったことを素直に口にする。

「確かに、その通りでした」
 四つん這いとなり体を起こしたヒビキは大きく伸びをする。
 今まで感情を表すことのなかったシエルが驚いたように目を見開いた。

「今の攻撃をうけて立ち上がりますか。けろっとしていますし……」
 戸惑いを隠せずにいるシエルの問いかけに対して、ヒビキは苦笑する。
 レベルが300以上あるヒビキの体力は魔族と同等のものになっていた。
 激しい痛みに苛まれるものの、意識を失うほどの衝撃ではない。
 しかし、けろっとしているように見えるのは表情に出していないからであって、実際は横腹を押さえて地べたを這いずり回りたい気分である。
 妹であるアヤネが側にいる以上みっともない姿は見せられない。

 トロールに視線を向けたまま武器を構えていたヒビキが
「武器を構えて。攻撃が来るよ」
 淡々とした口調で呟いた。

「また一人で挑むつもりですか? まずは、トロールの足を集中的に狙いましょう。巨体のわりに、すばしっこい動きを見せていますし」
 今にも走り出しそうな勢いのヒビキにシエルが慌てて声をかける。
 今までヒビキに対して無関心だったはずなのに、気づけばシエルはヒビキの元へ歩みより積極的に指示を出していた。
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