鍼灸師のいるところ

夏木ユキ

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1話 治らない!

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「こんばんはー」

「はいどうもー。少しお待ちくださいね」

 時刻は20時55分。最終受付ギリギリだ。ここは駅から徒歩3分の好立地にある接骨院。遅くまで働く人々が、帰宅前に立ち寄っていく。便利なようで、働く側にとっては地獄のような環境だった。

「お待たせしました。こちらのベッドにどうぞ」

 患者を案内しながら、ガラス越しに見えた自分の顔に、思わず苦笑いする。クマ。肌荒れ。目の焦点が定まっていない。どう見ても健康とはほど遠い。

 患者の準備が整い、いつもの治療が始まった。

「その後の調子はどうですか?」

「うーん、微妙ですね。手をつくと痛いです」

 心の中でため息を吐きながら、いつものマニュアル通りに治療を進めていく。だが、治療後の患者の表情は冴えない。

「どうしました?」

「いや……別に」

 その曖昧な言葉と浮かない顔に、胸がざわつく。以前、治療方針について院長に相談したことがあった。

「通院してっから良いんだよ。来てくれないと保険の請求ができないだろ?少しは経営についても考えろ!」

 ——それが返ってきた答えだった。

 治療結果より、通院回数が優先される。そんな職場だった。

 受付のパートさんは19時で帰ってしまっているので、会計も掃除も、ぜんぶ俺の仕事だ。

「お大事にどうぞー」

 最後の患者が帰り、掃除機を持って待合室に出たところで、着替えた院長が言い放つ。

「じゃあ後、やっとけよ」

「……はい」

 去っていく背中をぼーっと眺めた後、1人の接骨院で掃除機をかける。「何で俺だけ……」という愚痴は誰にも届かない。

 結局帰れるのは23時過ぎ。家まで1時間。そこから風呂、夕飯……そして数時間後にはまたここに戻ってこなければならない。

 ……院長の出勤は9時10分。

 以前電車の遅延で5分遅れたことがあった。

「修行中の身で俺より遅いとか、いいご身分だな? な?」




 目覚ましが鳴らなかった。否、鳴っていたのに気づけなかったのかもしれない。いずれにせよ、寝坊だ。

「ヤバいヤバいヤバいっ……!」

 シャツを引っつかみ、カバンを片手に駅まで全力疾走。ギリギリ電車に滑り込んだ。この電車に間に合えば、乗り換え次第でなんとか開店5分前には着く。

 階段を駆け下り、改札を飛び出し、角を曲がったその瞬間——

 どんっ!

「ぐふっ!」

 ぶつかった。正面から、勢いよく。

「何よー、もぉ……」

 目の前には、背が高い女性がいた。恐らく年上だろう。

「あっ、すいません! 急いでて、本当にごめんなさい!」

 謝罪しながら立ち上がろうとしたが——

「いっ……!」

 足首に鋭い痛みが走った。ズボンの裾をめくると、すでに腫れている。

「ちょっと、アンタ……勝手にぶつかってきて、怪我して、何なのよー」

 何とか壁に手をつき、足を引きずりながら立ち上がる。彼女は無事そうだ。安堵しつつ、再度謝って立ち去ろうとする。

「自分で治すんで、大丈夫です。そこの接骨院で働いてるんで。お姉さんも、もし後から痛みが出たら来てください」

「ふーん。そうなのねー」

「やばっ! 時間!」

 時計を見る余裕もなかったが、院長の出社時間が近づいているのは確かだ。痛む足をひきずって歩き出すと、後ろから名刺が差し出された。

「これ、あげる。自分で治せなかったら、来なさいねー」

 女性は笑みを浮かべ、名刺を押しつけて去っていった。



「院長先生、おはようございます」

「まだ終わってねぇのかよ。早くしろよ」

「あ、すみません……」

 挨拶は文句にすり替えられ、気力を削っていく。

 なんとか足首にテーピングとアイシングを施したが——

「……いってぇ」

 動かすだけで激痛が走る。働けるような状態ではないが、休めない。

 午前中の診療は地獄だった。動きは鈍く、患者を待たせ、院長の怒声が飛ぶ。

 そして昼休み——

「お前、もう帰れ」

「え……?」

「邪魔だ。クビな。もう来るな」

「…………えっ?」

 目の前が真っ白になった。

 院の近くの公園のベンチに座り込み、現実を処理できないまま時間だけが過ぎていく。

「痛ぇ……」

 足首の痛みと、心の痛みが重なる。ポケットをまさぐると、あの女性にもらった名刺が出てきた。

『亀張鍼灸院 黒崎麻友』

 思い出した。

「自分で治せなかったら来なさいねー」

 スマホで住所を調べると、歩いて10分ほどだった。

「……行ってみるか」

 痛みを堪えながら次の物語へと向かっていった。
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