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午後2時には 雨がふる
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リメナスは、産学連携で最先端研究を進めるために計画された都市だ。
その中心企業のひとつを抱えるファミリーの御曹司が、レイフォルド・パッカーだ。華やかな私生活が取り沙汰され、父の後を継げば五分で会社を潰すとまで噂されていた。
それがこの春、その評価を裏切り、都市大学へストレートで入学を果たした。
息子の快挙に気を良くした父親の多額の寄付により、停滞していたいくつかの研究が成果をあげた。
終業のチャイムが鳴り、レイは昼食を取りに、急ぎ足で教室を出て行こうとする学生をかき分けて、少し遅れて立ち上がったブレンダを呼び止めた。
「ねえ、君、この間のレポートで褒められてたよね。ノートをまとめてたら、コピーさせてくれない? すぐ返すからさ」
重い参考書や教科書、タブレットをまとめていた手を休めて、ブレンダが声の主をみる。レイの色素の薄い金髪に、緩そうな口元。騒がしい取りまきの男女が、いつものように後ろに控えている。腕にぶら下がるスタイルの良い美人が微笑みながら、
「私もこのままだと単位が危ないから、見せてもらえると助かるわ」
「私なんて、レポートから再提出よ」
「数学基礎論」は、難解科目の頂上に君臨すると呼ばれるクラスだ。
毎年、講義内容の載ったシラバスを読まず「基礎」の文字にだまされた学生が、定期テストを前に悲鳴をあげるのも恒例になっていた。
少し考える素振りを見せたブレンダが、ふっと背を向けた。
目を丸くしたレイが、慌ててブレンダを掴む。
彼女と口を利いたのは、今が初めてで、申し出に背を向けられるような真似をした記憶はない。ブレンダが、つい無言で背を向けてしまったのも同じ理由だ。初めての会話で、ここまで図々しい要求をされて楽しい気持ちになれるわけがない。
袖をつかむレイの手を払い、
「悪いけど、私もレポートを書かないとダメだから。それに、数学基礎論は暗記すればいいってもんじゃないわよ」
呆れを隠し切れない声音で、ブレンダは真正面から睨むようにして言った。
「頼むよ、これから勉強するからさ」
「ノートより、テキストを読んだ方があなたのためよ。それに、必修クラスじゃないわ。無理なら、違う単位を取るって手もある」
そのとき、ドンッ、と腹に響く爆発音に棟が揺れた。
まだ残っていた学生たちが、騒めく。
「またかよ」
「今度は、どこが爆発した?」
驚いてはいるが、学生たちの誰もがそれほど恐慌に至っていないのは、ここではこれが日常茶飯事のことだからだ。
煙のあがっている方向にあるのは、大量のエネルギーを消費する研究棟がある。貯留システムの安定性が低いせいか、小事故も珍しくないが、死傷者が出るようなことはこれまで1度もない。
先端を学んでいるはずの学生達の口をもってして、守護妖精が住み着いているんじゃないかと噂されるほどだ。
ともあれ、危険な場所であることは間違いなく、その地区の学生バイトは高額だ。その研究室の1つで資料整理のバイトをしていたブレンダが駆け出そうとして、慌ててレイがその腕を掴む。
ビリと布地の裂ける音がした。驚いて手を離した勢いで数歩前に歩いたブレンダが、後ろを振り返った。
レイが口を開く前に、
「わかったわ。14時まででいいなら貸すわ。それでいいでしょ!?」
破れた袖口を押さえたブレンダにノートを投げつけられ、レイは謝罪の言葉を飲み込んだ。
図書館のコピー機の前で、レイはブレンダの表情を思い出し、ため息を漏らした。
違う相手に頼めばよかった。他にも優秀な生徒はいる。
レイが頼み事をして、初手からあれほど嫌な顔を見せる者はあまりいない。ハズレくじを引いたような気分だ。それでもせっかく借り受けたノートだ。数学基礎論のテストを乗り越えるために、成績優秀者の知識を有効活用させてもらおう。
「レイ、コピーし終えたら俺にも回してくれ」
調子のいいことを言う幼馴染と後で合流する約束をして、さっさと終わらせようとコピー機に向かう。
ノートの貸し出し時間は二時間。14時には、ブレンダのバイト先に返しに行かねばならない。
一分でも遅れようものなら、あの剣幕で何を言われるかわからない。
「レイフォルド」
名を呼ばれたような気がして、反射的に顔を上げた。
「――君は?」
「私は、ブレンダ。そのノートの持ち主の」
「へえ? でも、俺の知ってるブレンダとは、ちょっと違うかな」
軽い調子のレイに、女が微笑み、
「20年後の未来からきたもの。
で、ちょっと申し訳ないんだけど、少し付き合ってもらえるかしら?」
なんなんだ、この女。
押しの強さに引き気味のレイに、女は笑顔を浮かべたままだ。
コピー機と、腕時計を交互に眺めながら、
「悪いけど忙しい。14時までにブレンダにノートを返して、その後は飲みに行く約束がある」
女が、また笑った。
「数学基礎論のノートよね。私、テスト内容、知ってるわよ」
レイが驚いたように、コピー機へ戻しかけていた顔をあげた。
なぜブレンダを名乗るかは謎だが、テスト内容を知っているという言葉に興味を引かれる。
「言ったでしょ、未来からきたって」
「へー」
もちろん、そんな言葉を信じるわけがない。
「近くの喫茶店ででも、どう?」
それでも結局、女の誘いに乗ってしまった。
何か書くものを、と言われ自分の数学基礎論のノートを差し出せば、女は上目遣いに飽きれた声を漏らした。
「見事に真っ白」
「いいだろ、そんなことは」
席に着くなり、早速、テスト内容を書くように言ったレイの言葉に、大人しく従った女はそれ以降ムダ口を叩くこともなく、カツカツとペンを鳴らし文字をノートに書き連ねていった。
――問題・問題式・解答式、補助式、概要解説――書くことはかなりあるらしい。
頼んだアイスティがテーブルに運ばれると、砂糖とミルクをたっぷりと入れ、ふと窓の外へ向けられた女の顔を観察した。
窓の外には、スポンサー企業のロゴが並ぶ研究棟群が見えた。昼休みの学生と白衣姿の研究員が入り混じって歩いている。
一体、何者なんだ。
――顔は、動機は不明にしても、整形でいくらか似せることぐらい出来る。だが、声はどうだろう。ノートを借りるときに初めて聞いたブレンダに似た声を女が持っている気がして、レイは首を捻った。
ようやく書き終えたらしい女がノートを閉じ、ぐっと背伸びをして、アイスティのおかわりを注文した。
また、ミルクと砂糖たっぷり。カラカラと氷を鳴らし、自信たっぷりといった表情で書き上げたノートをレイに押し返してくる。
「さあ、次は私の話の番よ」
その声に、レイは腕時計に目をやると、14時に20分ほど前だった。
つられたように、ブレンダも自分の腕にあるタイムラッシュのブランド銘の入った時計をみた。
タイムラッシュは、決して安いブランドではない。レイの腕にあるそれは、入学祝いにと思い切りよく父親が買ってくれたものだ。
「それ、本当にタイムラッシュ? 見たこと無いんだけど、そんなモデル」
とはいえ、安価にも見えない。むしろ服装などあまり頓着する方ではないようで、時計だけが浮いているようにも見える。
「言ったでしょ、未来から来たって。当然、この時計も、未来のモデルなの」
まだその荒唐無稽な話を続ける気なのか。その話に付き合う気はない意思表示に、レイは、口を噤んだ。
「何しにきたのか、聞いてくれないと、話を進めづらいわ」
「何しに来たんだ?」
「過去を変えに」
レイは眉を顰めた。
「その時計が本物なら、そう悪い生活をしてたわけでもないだろ?」
「詳しく言うと、貴方の死を回避しに。貴方、14時過ぎに起きる爆発に巻き込まれて死ぬの」
彼女は再び、時計を見た。まだ14時に5分ほどある。
真面目な顔で言う女に、レイが思わずといった様子で吹き出した。
「死ぬんだ、俺?」
「そういうことね。
私――貴方と約束した14時に、研究室にいなかったの。昼過ぎに最初の爆発があって、その後片付けを終えて遅い昼食を食べに行っていて。
だから2度目の爆発のとき、ノートを返しに来てた貴方だけが巻き込まれて…」
ズーっと行儀悪くアイスコーヒーを飲み干し、眉間の皺を揉み解した。
なるほど。付き合いきれないと、レイが立ち上がろうとした。
「待ってっ」
「もういいだろ、その14時は過ぎた。急がないと、ブレンダに張り飛ばされるよ。この時代のブレンダにね」
チリリン。
ドアベルが涼しげな音を鳴らして、一組のカップルが入ってきた。
「あの二人、別れるわ」
低くささやかれた声に、レイがギョッとした顔になった。
「あの二人は、この間婚約したばかりだ」
「知ってるわ。男性の方、時間理論を扱う研究室の先輩だもの」
美女と野獣とまではいかないが、女の方が華のあるゴージャスな雰囲気を持っているのに対し、男の方は貧相な、真面目だけが取り得といった風貌だった。つまり、見た目につりあいの取れていないカップルということで知られていたが、女の方が惚れ込んでいるらしく、どんな男が口説いても靡く素振りもみせないということでも有名だった。
「過去を変えるために、時間理論の第一人者の集まる研究室に入ったの。
彼は優秀だったわ。理論を完成させ、実行するにはあの人の協力が必要だった。必死だったの」
ブレンダが、眉を寄せた。
「そのうちに、彼が同情を……。そのせいで、婚約者と上手くいかなくなってしまった。もちろん、何もなかったんだけど……先輩はずっと彼女が好きだったし、私が好きだったのは貴方だったから」
レイが、ブレンダの言葉を遮った。
「ノートを借りようとしたとき、すげー呆れた顔をされたけど?」
「それは――」
ふと、ブレンダの目が、過去を思い出そうとするかのように遠い目になった。
「それは。貴方がありえないほど図々しかったからよ。だって、それまで一言だって口を利いたことがないのに、いきなりノートを貸せって。信じられない」
今度は、レイの表情が、驚愕を示した。未来云々と言う話はともかくとして、先ほどのクラスでのやり取りを、この女は知っていた。
そんなレイの心中を知ってか知らずか、ブレンダが独り言を漏らした。
「ああ。でも。私、貴方のことをずっと好きだったって思っていたけど。もしかして、死んでしまった後から、好きになったのかしら。だって、本当の貴方ってば、図々しいし失礼だし。ホント、最悪。後悔に泣きくれながら思い出す貴方は、ただのハンサムだったから」
「失礼なのはお互いさまじゃね?」
ただのハンサムってなんだ? 一応、褒められてんの?
「信じられるわけがないだろ。未来から来たなんて」
「すぐにわかるわ。
もうすぐ、爆発が起きる。貴方は死なない」
ブレンダの唇が、小さく震えた。
「未来は変わって――私がここへ、過去へくることもない――」
その言葉に、爆音が重なった。振動に揺れる窓の外を見上げ、視線を戻したとき、女はもうそこになかった。
女の消える瞬間を目撃した誰かの「消えたっ!」と叫ぶ声がした。
テーブルの上に残された氷の入ったアイスティのグラスが歪んで見える。時を刻む音だけがイヤに響いた。
騒然としている爆発現場へ、傘をさす野次馬の波を押しやりながら、レイは中心へ突き進んで行った。
焦げた匂いが鼻を衝き、残る熱気が肌にまとわりつく。
「危険ですから、下がって」
制止の声。
「14時にここに来る約束をしてた人がいるんです。お願い、中に入れてください」
現場検証に当たっているらしい制服の男に掛け合っている声を頼りに、背後からその肩を叩く。振り返ったブレンダが、目をカっと見開き、レイの弁明を待たずその横っ面を張り飛ばした。
「ぃってぇ。――わかったから、落ち着け」
胸を打ってくる手を抑えながら、
「悪かったって、遅れて。一旦、どっかの喫茶店にでも入って……。奢るから、ミルクと砂糖のたっぷり入ったアイスティ」
その一言に、ブレンダの動きが緩んだ。
濡れた髪のはり付いた青白い頬。殴られた頬を撫でながら、見上げてくる瞳に好意を見つけるのは難しい。
それでも、「図々しくて、失礼で最悪」と言ってみせた面影をそこに見て、苦笑が漏れた。
俺のことを”好きだった”と言ったブレンダは、もういない。
そのキッカケも、タイミングも失って。
「――君、俺のことを礼儀知らずで図々しいヤツだと思ってるだろ。ノートの礼と服の弁償、するからな。イヤだなんて言わないでくれよ?」
俺の言葉に顔をそらしつつ、でも目だけは俺を吟味するように見てくる。
小賢しい仕草で口元をわずかに歪めるブレンダは、どこか小動物みたいだ。
「あなたって、思ってたより嫌な人じゃないみたい、けど。…わからない人ね」
「そりゃ。
これから知り合ってけばいいんじゃない、ゆっくり?」
目を細めて、思わず笑みをこぼしたレイに、ブレンダが鼻の頭に皺を寄せて小さく口を尖らせた。
――ところで。
通算でもう何度目になるかわからない研究室の爆発は、常と同じく今回も死傷者、怪我人ともに、無しだった。
ガラス張りの研究棟や高層ビルの壁面に小さな水滴を光らせている。学生たちが慌ただしく傘を差しながら移動し、白衣姿の研究員たちは濡れた階段を急ぎ足で昇っていく。
レイは、首を竦めて思った。
もしものときには、またきっと。未来から、時間理論を携えた妖精が修復しにくるのだろうと。
その中心企業のひとつを抱えるファミリーの御曹司が、レイフォルド・パッカーだ。華やかな私生活が取り沙汰され、父の後を継げば五分で会社を潰すとまで噂されていた。
それがこの春、その評価を裏切り、都市大学へストレートで入学を果たした。
息子の快挙に気を良くした父親の多額の寄付により、停滞していたいくつかの研究が成果をあげた。
終業のチャイムが鳴り、レイは昼食を取りに、急ぎ足で教室を出て行こうとする学生をかき分けて、少し遅れて立ち上がったブレンダを呼び止めた。
「ねえ、君、この間のレポートで褒められてたよね。ノートをまとめてたら、コピーさせてくれない? すぐ返すからさ」
重い参考書や教科書、タブレットをまとめていた手を休めて、ブレンダが声の主をみる。レイの色素の薄い金髪に、緩そうな口元。騒がしい取りまきの男女が、いつものように後ろに控えている。腕にぶら下がるスタイルの良い美人が微笑みながら、
「私もこのままだと単位が危ないから、見せてもらえると助かるわ」
「私なんて、レポートから再提出よ」
「数学基礎論」は、難解科目の頂上に君臨すると呼ばれるクラスだ。
毎年、講義内容の載ったシラバスを読まず「基礎」の文字にだまされた学生が、定期テストを前に悲鳴をあげるのも恒例になっていた。
少し考える素振りを見せたブレンダが、ふっと背を向けた。
目を丸くしたレイが、慌ててブレンダを掴む。
彼女と口を利いたのは、今が初めてで、申し出に背を向けられるような真似をした記憶はない。ブレンダが、つい無言で背を向けてしまったのも同じ理由だ。初めての会話で、ここまで図々しい要求をされて楽しい気持ちになれるわけがない。
袖をつかむレイの手を払い、
「悪いけど、私もレポートを書かないとダメだから。それに、数学基礎論は暗記すればいいってもんじゃないわよ」
呆れを隠し切れない声音で、ブレンダは真正面から睨むようにして言った。
「頼むよ、これから勉強するからさ」
「ノートより、テキストを読んだ方があなたのためよ。それに、必修クラスじゃないわ。無理なら、違う単位を取るって手もある」
そのとき、ドンッ、と腹に響く爆発音に棟が揺れた。
まだ残っていた学生たちが、騒めく。
「またかよ」
「今度は、どこが爆発した?」
驚いてはいるが、学生たちの誰もがそれほど恐慌に至っていないのは、ここではこれが日常茶飯事のことだからだ。
煙のあがっている方向にあるのは、大量のエネルギーを消費する研究棟がある。貯留システムの安定性が低いせいか、小事故も珍しくないが、死傷者が出るようなことはこれまで1度もない。
先端を学んでいるはずの学生達の口をもってして、守護妖精が住み着いているんじゃないかと噂されるほどだ。
ともあれ、危険な場所であることは間違いなく、その地区の学生バイトは高額だ。その研究室の1つで資料整理のバイトをしていたブレンダが駆け出そうとして、慌ててレイがその腕を掴む。
ビリと布地の裂ける音がした。驚いて手を離した勢いで数歩前に歩いたブレンダが、後ろを振り返った。
レイが口を開く前に、
「わかったわ。14時まででいいなら貸すわ。それでいいでしょ!?」
破れた袖口を押さえたブレンダにノートを投げつけられ、レイは謝罪の言葉を飲み込んだ。
図書館のコピー機の前で、レイはブレンダの表情を思い出し、ため息を漏らした。
違う相手に頼めばよかった。他にも優秀な生徒はいる。
レイが頼み事をして、初手からあれほど嫌な顔を見せる者はあまりいない。ハズレくじを引いたような気分だ。それでもせっかく借り受けたノートだ。数学基礎論のテストを乗り越えるために、成績優秀者の知識を有効活用させてもらおう。
「レイ、コピーし終えたら俺にも回してくれ」
調子のいいことを言う幼馴染と後で合流する約束をして、さっさと終わらせようとコピー機に向かう。
ノートの貸し出し時間は二時間。14時には、ブレンダのバイト先に返しに行かねばならない。
一分でも遅れようものなら、あの剣幕で何を言われるかわからない。
「レイフォルド」
名を呼ばれたような気がして、反射的に顔を上げた。
「――君は?」
「私は、ブレンダ。そのノートの持ち主の」
「へえ? でも、俺の知ってるブレンダとは、ちょっと違うかな」
軽い調子のレイに、女が微笑み、
「20年後の未来からきたもの。
で、ちょっと申し訳ないんだけど、少し付き合ってもらえるかしら?」
なんなんだ、この女。
押しの強さに引き気味のレイに、女は笑顔を浮かべたままだ。
コピー機と、腕時計を交互に眺めながら、
「悪いけど忙しい。14時までにブレンダにノートを返して、その後は飲みに行く約束がある」
女が、また笑った。
「数学基礎論のノートよね。私、テスト内容、知ってるわよ」
レイが驚いたように、コピー機へ戻しかけていた顔をあげた。
なぜブレンダを名乗るかは謎だが、テスト内容を知っているという言葉に興味を引かれる。
「言ったでしょ、未来からきたって」
「へー」
もちろん、そんな言葉を信じるわけがない。
「近くの喫茶店ででも、どう?」
それでも結局、女の誘いに乗ってしまった。
何か書くものを、と言われ自分の数学基礎論のノートを差し出せば、女は上目遣いに飽きれた声を漏らした。
「見事に真っ白」
「いいだろ、そんなことは」
席に着くなり、早速、テスト内容を書くように言ったレイの言葉に、大人しく従った女はそれ以降ムダ口を叩くこともなく、カツカツとペンを鳴らし文字をノートに書き連ねていった。
――問題・問題式・解答式、補助式、概要解説――書くことはかなりあるらしい。
頼んだアイスティがテーブルに運ばれると、砂糖とミルクをたっぷりと入れ、ふと窓の外へ向けられた女の顔を観察した。
窓の外には、スポンサー企業のロゴが並ぶ研究棟群が見えた。昼休みの学生と白衣姿の研究員が入り混じって歩いている。
一体、何者なんだ。
――顔は、動機は不明にしても、整形でいくらか似せることぐらい出来る。だが、声はどうだろう。ノートを借りるときに初めて聞いたブレンダに似た声を女が持っている気がして、レイは首を捻った。
ようやく書き終えたらしい女がノートを閉じ、ぐっと背伸びをして、アイスティのおかわりを注文した。
また、ミルクと砂糖たっぷり。カラカラと氷を鳴らし、自信たっぷりといった表情で書き上げたノートをレイに押し返してくる。
「さあ、次は私の話の番よ」
その声に、レイは腕時計に目をやると、14時に20分ほど前だった。
つられたように、ブレンダも自分の腕にあるタイムラッシュのブランド銘の入った時計をみた。
タイムラッシュは、決して安いブランドではない。レイの腕にあるそれは、入学祝いにと思い切りよく父親が買ってくれたものだ。
「それ、本当にタイムラッシュ? 見たこと無いんだけど、そんなモデル」
とはいえ、安価にも見えない。むしろ服装などあまり頓着する方ではないようで、時計だけが浮いているようにも見える。
「言ったでしょ、未来から来たって。当然、この時計も、未来のモデルなの」
まだその荒唐無稽な話を続ける気なのか。その話に付き合う気はない意思表示に、レイは、口を噤んだ。
「何しにきたのか、聞いてくれないと、話を進めづらいわ」
「何しに来たんだ?」
「過去を変えに」
レイは眉を顰めた。
「その時計が本物なら、そう悪い生活をしてたわけでもないだろ?」
「詳しく言うと、貴方の死を回避しに。貴方、14時過ぎに起きる爆発に巻き込まれて死ぬの」
彼女は再び、時計を見た。まだ14時に5分ほどある。
真面目な顔で言う女に、レイが思わずといった様子で吹き出した。
「死ぬんだ、俺?」
「そういうことね。
私――貴方と約束した14時に、研究室にいなかったの。昼過ぎに最初の爆発があって、その後片付けを終えて遅い昼食を食べに行っていて。
だから2度目の爆発のとき、ノートを返しに来てた貴方だけが巻き込まれて…」
ズーっと行儀悪くアイスコーヒーを飲み干し、眉間の皺を揉み解した。
なるほど。付き合いきれないと、レイが立ち上がろうとした。
「待ってっ」
「もういいだろ、その14時は過ぎた。急がないと、ブレンダに張り飛ばされるよ。この時代のブレンダにね」
チリリン。
ドアベルが涼しげな音を鳴らして、一組のカップルが入ってきた。
「あの二人、別れるわ」
低くささやかれた声に、レイがギョッとした顔になった。
「あの二人は、この間婚約したばかりだ」
「知ってるわ。男性の方、時間理論を扱う研究室の先輩だもの」
美女と野獣とまではいかないが、女の方が華のあるゴージャスな雰囲気を持っているのに対し、男の方は貧相な、真面目だけが取り得といった風貌だった。つまり、見た目につりあいの取れていないカップルということで知られていたが、女の方が惚れ込んでいるらしく、どんな男が口説いても靡く素振りもみせないということでも有名だった。
「過去を変えるために、時間理論の第一人者の集まる研究室に入ったの。
彼は優秀だったわ。理論を完成させ、実行するにはあの人の協力が必要だった。必死だったの」
ブレンダが、眉を寄せた。
「そのうちに、彼が同情を……。そのせいで、婚約者と上手くいかなくなってしまった。もちろん、何もなかったんだけど……先輩はずっと彼女が好きだったし、私が好きだったのは貴方だったから」
レイが、ブレンダの言葉を遮った。
「ノートを借りようとしたとき、すげー呆れた顔をされたけど?」
「それは――」
ふと、ブレンダの目が、過去を思い出そうとするかのように遠い目になった。
「それは。貴方がありえないほど図々しかったからよ。だって、それまで一言だって口を利いたことがないのに、いきなりノートを貸せって。信じられない」
今度は、レイの表情が、驚愕を示した。未来云々と言う話はともかくとして、先ほどのクラスでのやり取りを、この女は知っていた。
そんなレイの心中を知ってか知らずか、ブレンダが独り言を漏らした。
「ああ。でも。私、貴方のことをずっと好きだったって思っていたけど。もしかして、死んでしまった後から、好きになったのかしら。だって、本当の貴方ってば、図々しいし失礼だし。ホント、最悪。後悔に泣きくれながら思い出す貴方は、ただのハンサムだったから」
「失礼なのはお互いさまじゃね?」
ただのハンサムってなんだ? 一応、褒められてんの?
「信じられるわけがないだろ。未来から来たなんて」
「すぐにわかるわ。
もうすぐ、爆発が起きる。貴方は死なない」
ブレンダの唇が、小さく震えた。
「未来は変わって――私がここへ、過去へくることもない――」
その言葉に、爆音が重なった。振動に揺れる窓の外を見上げ、視線を戻したとき、女はもうそこになかった。
女の消える瞬間を目撃した誰かの「消えたっ!」と叫ぶ声がした。
テーブルの上に残された氷の入ったアイスティのグラスが歪んで見える。時を刻む音だけがイヤに響いた。
騒然としている爆発現場へ、傘をさす野次馬の波を押しやりながら、レイは中心へ突き進んで行った。
焦げた匂いが鼻を衝き、残る熱気が肌にまとわりつく。
「危険ですから、下がって」
制止の声。
「14時にここに来る約束をしてた人がいるんです。お願い、中に入れてください」
現場検証に当たっているらしい制服の男に掛け合っている声を頼りに、背後からその肩を叩く。振り返ったブレンダが、目をカっと見開き、レイの弁明を待たずその横っ面を張り飛ばした。
「ぃってぇ。――わかったから、落ち着け」
胸を打ってくる手を抑えながら、
「悪かったって、遅れて。一旦、どっかの喫茶店にでも入って……。奢るから、ミルクと砂糖のたっぷり入ったアイスティ」
その一言に、ブレンダの動きが緩んだ。
濡れた髪のはり付いた青白い頬。殴られた頬を撫でながら、見上げてくる瞳に好意を見つけるのは難しい。
それでも、「図々しくて、失礼で最悪」と言ってみせた面影をそこに見て、苦笑が漏れた。
俺のことを”好きだった”と言ったブレンダは、もういない。
そのキッカケも、タイミングも失って。
「――君、俺のことを礼儀知らずで図々しいヤツだと思ってるだろ。ノートの礼と服の弁償、するからな。イヤだなんて言わないでくれよ?」
俺の言葉に顔をそらしつつ、でも目だけは俺を吟味するように見てくる。
小賢しい仕草で口元をわずかに歪めるブレンダは、どこか小動物みたいだ。
「あなたって、思ってたより嫌な人じゃないみたい、けど。…わからない人ね」
「そりゃ。
これから知り合ってけばいいんじゃない、ゆっくり?」
目を細めて、思わず笑みをこぼしたレイに、ブレンダが鼻の頭に皺を寄せて小さく口を尖らせた。
――ところで。
通算でもう何度目になるかわからない研究室の爆発は、常と同じく今回も死傷者、怪我人ともに、無しだった。
ガラス張りの研究棟や高層ビルの壁面に小さな水滴を光らせている。学生たちが慌ただしく傘を差しながら移動し、白衣姿の研究員たちは濡れた階段を急ぎ足で昇っていく。
レイは、首を竦めて思った。
もしものときには、またきっと。未来から、時間理論を携えた妖精が修復しにくるのだろうと。
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この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
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