恋は秘密のその先に

葉月 まい

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コードネーム?

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 翌日、いつものように副社長室でパソコンに向かいながら、文哉はふと真里亜を見る。

 紺のスーツを着て髪を後ろで束ね、真剣にパソコンのキーボードに指を走らせているその姿は、夕べのドレス姿の面影もない。

 (まるで別人だな。いや、もとは美人なのかも?少し髪型を変えて明るい色の服を着れば…)

 そこまで考えて、慌てて頭を振った。

 (俺としたことが、まんまとスパイの策略にハマってるぞ)

 気を引き締めて、もう一度そっと真里亜の様子をうかがう。

 (情報を盗むような怪しい気配もないし、何が目的なんだ?それにどうやって俺の秘書になった?智史に聞いても全く答えにならないし)

 秘書課の事なら知らない事などないはずなのに、なぜか真里亜については、
「どうだったかなあ。課長が配属したんじゃないかなあ」
 と、のらりくらりとかわされるだけだった。

 とにかく注意深く探るしかないか、と思っていると、真里亜が手を止めて、ふうと息をついた。

 両手をグーにして肩の横に持ってくると、目をつぶりながら、うーん…と小さく伸びをする。

 (なんだそれ、猫か?)

 思わずじっと見つめていると、パチリと目を開けた真里亜と視線が合ってしまった。

 (ヤバイ!)

 慌てて文哉はパソコンに目を落とす。

 (落ち着け。いつもの俺を思い出せ)

 やたらとせわしなくキーボードを叩きながら、文哉は必死で気持ちを落ち着かせていた。

 *****

「んー…」

 給湯室でコーヒーを淹れながら、真里亜は先程の文哉の様子を思い返して首をひねる。

 (なんか様子が変だったなあ。妙に落ち着きなくて、慌てて視線を逸らしたり。そもそも目が合うなんて、今まであったっけ?)

 どうしたんだろうと思いながら、ゆっくりとドリップコーヒーを淹れていると、廊下のドアから住谷が入って来た。

「阿部さん、お疲れ様です。これ、休憩の時にでもどうぞ」

 そう言って、有名なパティスリーの紙袋を差し出す。

「わあ!ありがとうございます」
「あとこれは、副社長に。お気に入りのビターチョコです」

 おおー、と真里亜は小さな箱を真顔で受け取る。

「さすがは住谷さん。副社長のお好きなもの、何でもご存知なんですね」
「まあ、つき合い長いですからね」
「えっ!そうなんですか?そんなに前からおつき合いされてたんですね」
「ん?話しませんでしたっけ?小学生の頃からの同級生だって」

 あ!と真里亜は口元に手をやる。

「そうでしたね、そのおつき合いですよね。あはは!私ったらもう…。あ、ちょうど今コーヒーを淹れたところなんです。早速このチョコレート、副社長にお出ししますね。住谷さんもご一緒にいかがですか?」

 笑ってごまかしながらお茶に誘うと、住谷は優しい笑みを浮かべる。

「阿部さん、本当にありがとうございます。副社長を見放さないでくださって」
「え?何ですか、急に」
「いえ、あなたにはいつも感謝しているんです。皆が逃げ出したのに、あなただけは副社長のそばにいてくれる。彼に代わってお礼を言わせてください。本当にありがとう」
「いえいえ、そんな。住谷さんこそ、副社長の心の支えですよ。『彼に代わってお礼を』なんて、本当に素敵ですね。羨ましいなあ」

 私にもそんなふうに想ってくれる彼がいたらなあ、と真里亜は頬に手を当ててうっとりした。

「阿部さんは、確か入社3年目でしたっけ?」

 紙袋からケーキの箱を取り出しつつ、住谷が尋ねる。

「はい、そうです。新卒で入社して、ずっと人事部にいました」
「ということは、今25歳?」
「まだ24歳で、今年で25になります」
「そうなんですね。若いのにしっかりしてる。実は昨日、人事部の部長に言われたんですよ。早く阿部さんを人事部に戻して欲しいと」

 え?と、真里亜は驚く。

「部長がそんなことを?」
「ええ。優秀な人材に抜けられて、困っている。アベ・マリアはうちになくてはならない存在なんだって。なかなかチャーミングなニックネームですね。皆さんからそう呼ばれているのですか?」

 うぐっと真里亜は言葉に詰まる。

「いえ、あの…。本名です」

 え?と今度は住谷が首を傾げる。

「私、下の名前は真里亜といいます」
「ええー?!そうだったんですか!すごいですね」
「すみません。美しい方なら似合うのでしょうけど、私みたいな者がそんな名前…。申し訳なくてフルネームは名乗れません」
「まさかそんな。素敵じゃないですか。人事部の方も、あなたにぴったりだからこそ、親しみを込めてアベ・マリアって呼んでいるのでしょうね」
「いえ、半分からかっているだけなんです」
「そうですか?でも私はもう、あなたのことは真里亜さんとしか思えません」

 その後もしきりに、
「すごいなあ。初めて会ったよ、アベ・マリアさん」
 と感心していた。

 *****

「副社長、コーヒーをどうぞ。こちらは住谷さんが持って来てくださったビターチョコでございます」

 副社長室に戻ると、真里亜は文哉のデスクの端にコーヒーカップとチョコを載せたプレートを並べる。

 お辞儀をして自分の席に戻ろうとすると、ソファにカップを並べていた住谷が顔を上げた。

「真里亜ちゃん。私達はここで休憩しませんか?」
「は、はい?!」

 トレーを胸に抱えたまま真里亜は固まる。

「そ、そんな。副社長室のソファで休憩なんて!」

 (それにサラッと下の名前をちゃん付けで呼ぶなんて…。恋人の副社長の前でそんな)

 チラリと文哉に目を向けると、案の定固まっている。

「あの、私は給湯室でいただきます」
「えー、そんな所で食べたらせっかくの美味しさが半減するよ。ここのケーキ、本当に美味しいから」

 ほら、座って!と、住谷は先にソファに座ってから真里亜を促す。

 (いやいや。あなたは恋人だからいいけど、私は絶対怒られますって!)

「あの、本当に私は結構です。住谷さんは、どうぞソファで召し上がってくださいね。あ!それなら副社長もソファで召し上がってはいかがでしょう?コーヒー、こちらにご用意しますね」

 真里亜はデスクに置いたばかりのコーヒーとチョコを、ソファの前のテーブルに移動させる。

「それでは、お二人でどうぞごゆっくり」

 おもむろに頭を下げて、真里亜は部屋を出て行った。

 *****

「なあ、文哉」
「なんだよ」

 真里亜がいなくなり、仕方なく文哉はソファで住谷とコーヒーを飲んでいた。

「驚いた?びっくりしたよな?」
「だから、何がだ」
「彼女の名前だよ」
「彼女の名前って?」

 ボソッと聞き返すと、住谷はおかしそうに笑い出す。

「なーにしらばっくれてるの。あからさまに驚いて固まってたぞ」
「それはその…。本当なのか?彼女の名前」
「そうだよ、真里亜ちゃん。フルネームはアベ・マリア」
「偽名じゃないのか?ほら、スパイネームとかコードネームとか…」
「あはは!違う。本名だよ。それだけは確かだ」
「そうなのか。すごいな」
「ああ、俺も驚いた。でもよく考えたら似合ってるよな。ほら、夕べのドレス姿の彼女は品の良いお嬢様みたいで、アベ・マリアって名前も頷ける」

 文哉は視線を落としてコーヒーを飲みながら、無言を貫く。

「否定しないってことはお前も同意見か」
「は?なんでそうなるんだよ」
「おいおい、俺達知り合って何年だよ?お前の考えてることなんて、何でもお見通しだぞ。彼女のことが気になってることもな」
「そ、それは!だって、スパイなんだぞ?気にかけなきゃだめだろう」

 そういうことにしておきましょうかねーと、住谷は涼しい顔でコーヒーを口にした。

 *****

「お?アベ・マリアじゃないか。どうした?天上人がこんな下界のカフェテリアにいるなんて」
「あ、藤田くん!やだ、天上人なんて。何言ってるの?」
「だって上にもカフェテリアあるだろう?あ、アトリウムラウンジだっけ?」
「ああ、うん。でもなんか、ここの方が落ち着くからさ」

 副社長室を出たあと、真里亜は人事部に近い3階のカフェテリアに来ていた。

 副社長が部屋にいる時に休憩を取るのは気が引けるが、今は住谷がいる。
 邪魔をしないように、少しゆっくりしてから戻るつもりだった。

「なんかあったのか?」

 コーヒーカップを手に、藤田が向かいの席に座る。

「そういう訳じゃないんだけど…。ねえ、藤田くんって恋人は女の子派?それとも同性派?」

 へっ?!と、藤田が素っ頓狂な声を出す。

「え、何の話?恋人?お前なあ、俺はてっきり、深刻な悩みでもあるのかと心配してたんだぞ」
「そうなの?」
「当たり前だろ。女性秘書がみんな逃げ出した冷血副社長に、秘書課でもないお前がつくなんて。さぞかし辛い目に遭ってるのかと思いきや、恋人の話かよ?」
「だって、真剣に悩んでるんだもん」

 住谷に、副社長の前で「真里亜ちゃん」などと呼ばれては、二人の仲が険悪になってしまう。

 もしかするとまさに今、副社長と住谷がモメているかもしれないと思うと、部屋に戻るのも気が重かった。

「部長も心配してたんだぞ?この間お前が泣きついてきたからな。どうなんだ?その後、副社長とは。イジメられたりしてないか?」
「ああ、うん。イジメられてはない。副社長は相変わらず無愛想だけど、でも慣れたというか、別に平気」
「へえー、さすがだな。やっぱりお前って肝が据わってる。図太いな、アベ・マリア」

 真里亜は眉間にしわを寄せる。

「もう、藤田くん。なんか色々引っかかるんだけど」
「褒めてるんだよ、これでも。一度は逃げ出そうとしたのに、ちゃんと戻って踏ん張ってるんだろ?慣れない秘書の仕事もこなしながらさ。それってすごいことだぞ。誰にでも出来るもんじゃない」

 そうかな…と真里亜は呟く。

「そうだよ。でも悩み事があるなら、一人で抱え込まずに相談しろよ。部長にでもいいし、俺でもいいからさ」
「うん、分かった。ありがとう!藤田くん。なんかちょっと元気出た」
「そっか!」

 真里亜が笑顔になったのを見て、藤田も嬉しそうに笑った。
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