本当の愛を知るまでは

葉月 まい

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迷子のお嬢さん

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(……あれ?)

エレベーターに乗り込み、階数ボタンを押そうとした花純かすみは、人差し指を伸ばしたまま首をかしげた。

(39階が……ない?)

ズラリと並んだ階数ボタンは、一番下の「1」のあとは数字がなく、最後に「51」「52」があるだけだった。

(え、なんで? もしかして、押しすぎて印刷が消えちゃったとか?)

そうしている間にも、エレベーターはウィーンと上がっていく。

(どうしよう。どれが39階なの?)

困り果て、花純は人差し指で下からボタンを数え始めた。

(1、2、3……。ん? ちょっと待って。そもそもこれ、52個もボタンある?)

眉をハの字に下げつつ、とにかく急いで数えていく。
すると後ろで小さくクスッと笑う声が聞こえた。
え?と、花純は振り返る。

「失礼。一生懸命数えている姿が可愛らしくて」

長い足を持て余すように軽く背を壁に預け、口元に手をやって笑いを堪えている長身の男性がいた。
黒髪に涼しげな目元と整った顔立ちで、年齢は同い年くらいだろうか。
まだ早朝7時とあってか、エレベーターに乗っているのは花純とその男性だけだ。

「何階にご用ですか?」

聞かれて花純は男性に向き直る。

「あの、39階に行きたいのですが、ボタンの表示がなくて……」
「39階……。もしかして、シリウストラベルの方ですか? オフィスを転居されたばかりの」
「はい、そうです。本日からこちらのオフィスで勤務が始まるので、初めて来ました」
「なるほど」

その時、スッとエレベーターが止まり、扉が開いた。

「ご案内します。どうぞ」

男性に促されてエレベーターを降りた花純は、足元のふかふかとした心地良さに思わず視線を落とす。

(なんて高級感のある絨毯なの)

まるでゴージャスなホテルのような空間に驚いていると、男性が腕時計に目をやった。

「今、7時10分ですが、始業時間は何時ですか? お時間があれば、このオフィスビルのフロアマップを差し上げようと思いますが」

花純は我に返って答える。

「あ、始業時間は9時です」
「それなら随分余裕がありますね。ご説明しますので、どうぞ」

男性はスッと美しい身のこなしで廊下を歩き始める。
花純は戸惑いつつ、あとをついて行った。

「どうぞ、ソファにお掛けください」
「はい、失礼いたします」

廊下を少し進んだところにある重厚なドアをカードキーで解除し、男性は部屋の中に花純を招き入れる。

「今、コーヒーを淹れますね」
「いえ、そんな。どうぞお構いなく」

花純は恐縮しながら部屋の中を見渡した。

(本当にホテルのお部屋みたい。広いし、デスクやソファも高級そうだし。ここがオフィスだなんて、この方って一体……?)

ちらりと横目で様子をうかがっていると、男性は部屋の片隅のエスプレッソマシーンでコーヒーを二人分淹れてからローテーブルに運ぶ。

「どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
「それと、これがこのビルのフロアマップです」

男性はソファの向かい側に座り、デパートにあるような縦長のパンフレットをテーブルに広げた。

「エントランスがここ。ロビーを進んだここがエレベーターホールです。先ほどあなたが乗ったエレベーターは高層階専用エレベーターで、39階には止まりません」

あっ!と、ようやく花純は事情が分かった。
どうりで階数ボタンの表示がなかったわけだ。

「そうだったんですね」
「はい。エレベーターは左右に4基ずつ、全部で8基あります。右側の4基は、25階までの低層階用。左側の4基中、3基は中層階用、1番奥が高層階用です。39階は中層階用なので、この丸をつけたエレベーターを使ってください」

そう言って男性は、ボールペンで印をつける。

「あとはいくつかお店をご紹介しますね。5階には、朝7時オープンのカフェがあります。ここのベーコンチーズパニーニは絶品ですよ。コンビニは3階、10階はレストランフロアで、和食や洋食など8店舗入ってます。1番おすすめなのは、50階のバーです」
「えっ、バーですか?」

マップを見ながら説明を聞いていた花純は、顔を上げた。

「それって、誰でも入れるんですか?」
「ええ、そうです。どのお店も、一般の方も利用出来ますよ。50階までは出入り自由です」
「50階より上は?」
「51階と52階は関係者以外立ち入り禁止で、エレベーターにIDカードをかざさなければ来られません」

え?と花純は首をひねる。

「ここって、何階ですか?」

すると男性は、またしてもクスッと笑った。

「52階です。確かにあなたは来られましたね。私がエレベーターにIDカードをかざして階数ボタンを押した時に、一緒に乗ってきましたから」

途端に花純は焦って頭を下げる。

「すみません! そういうことだったんですね。大変失礼しました。部外者なのに、高層階エレベーターに乗ってしまって……」
「いいえ。可愛らしい迷子のお嬢さんに、朝からほっこりしました」
「そんな……。いい大人なのにお恥ずかしいです」

赤くなる花純に、男性はフロアマップを折りたたんで差し出した。

「はい、どうぞ。他に何かご不明な点はありますか?」
「いいえ、もう大丈夫です。ありがとうございました」

受け取って頭を下げると、男性は立ち上がってドアへと向かう。

「それにしても、随分朝早くから出社されるんですね。たまたま今日だけですか?」

花純も立ち上がってあとに続いた。

「いえ、大体いつも7時過ぎに出社するようにしています。満員電車が苦手なのと、残業に厳しい会社なのでやり残した仕事を朝やりたくて」
「そうなんですね、分かります。朝のオフィスは静かで仕事もはかどりますよね。なんて、私は夜も残業して終わらなかった仕事を仕方なく朝やってるんですが」
「朝早くから夜遅くまでですか? 大変ですね。お身体大切になさってください」
「ありがとう」

二人でエレベーターホールに行くと、男性は花純を振り返る。

「一旦1階まで下りて、中層階エレベーターに乗り換えてください。ご案内しましょうか?」
「いえ、大丈夫です。ご丁寧にありがとうございました。コーヒーもごちそうさまでした。それではここで、失礼いたします」

エレベーターに乗ると、花純は男性にお辞儀をする。
男性は微笑んで軽く手を挙げながら、花純を見送った。

花純は一度エレベーターで1階まで下りると、隣のエレベーターに乗り換える。
よく見ると分かりやすく『中層階26階~50階』と表示があった。

(ちゃんと書いてあったのに……。あの時はたまたま到着したエレベーターに急いで乗ってしまったから)

今度は無事に39の階数ボタンを押し、花純はもらったばかりのフロアマップを広げた。

(51階と52階はクロスリンクワールド株式会社か……。聞いたことあるような?)

さっきの男性はそこの社員なのだろうか。
それにしてもこの大きなビルの最上階にあんなに立派なオフィスを構えるなんて、一体どういう人なのだろう……、と考えているうちに39階に到着した。
エレベーターを降りると、花純はキョロキョロしながら廊下を進む。

(ワンフロア全てが、うちの会社のオフィスなのよね? えっと、海外ツーリズム事業部は……)

ドアの横のプレートを確認しながら進み、配属先の部屋を見つけると、セキュリティーをIDカードで解除してから中に入った。

「わあ、綺麗なオフィス」

真新しいデスクが並ぶ広々とした空間を見渡し、思わず呟く。

「確か配置は変わってないのよね? 私は壁際の真ん中の席で合ってるかな」

ひとりごちながらデスクに行くと、「森川」と書いた見覚えのあるダンボール箱が置いてあった。
以前のオフィスでの引越し作業の時に、私物を詰めて引越し業者に託したものだ。

「あった! 良かった」

早速箱を開けて、中から筆記用具やファイルを取り出し、デスクに並べる。
ひと通り片付くと、キャビネットの上に置かれたダンボールも荷解きし、ファイルを順に並べていく。

(すごい量……。オフィスの引っ越しって大変なんだな)

花純が勤めるシリウストラベルは、旅行業界ではトップ3に入ると言われる企業だが、ここ数年の情勢で一気に業績が落ち込んだ。
その為、まだ築年数も浅かったピカピカの自社ビルを売却し、いくつかの部署ごとにオフィスを借りることになった。
花純の所属する海外ツーリズム事業部は、今日4月1日からこのオフィスビルで業務を始める。

(自社ビルは綺麗だったからみんなガッカリしてたけど、このオフィスも働きやすそうよね)

そんなことを考えながら次々とダンボールを開けて整理していると、部長が出社してきた。

「森川さん、おはよう。相変わらず早いね」
「おはようございます、部長。キャビネットの整理はあらかた終わりました。他にやることありますか?」
「ありがとう。じゃあ、みんなのデスクにパソコンを配ってくれる? ここにまとめてあるから」
「かしこまりました」

テープで貼られた名前を確認しつつ、デスクに置いていく。

「今日はセットアップやら荷物整理で仕事にならんだろうな。あ、そうだ。森川さん」
「はい、なんでしょう?」
「急ぎのタスクがなければ、挨拶回りを一緒にお願い出来るかな? このビルの他の企業やテナントに挨拶しに行くんだけど」
「かしこまりました」
「助かるよ。近くのデパートが開店したら、手土産を買って来てくれる? 人手が足りないだろうから、杉崎さんと原くんも一緒に行ってもらうといいよ」
「はい、承知しました。10時になったら行ってまいります」

その時、ガヤガヤと声がして社員が数人部屋に入って来た。

「おはようございます!わあ、なんだか新鮮ですね」

明るい声で現れたのは、花純の同期の杉崎千鶴ちづるだった。
その後ろに、同じく同期の原もいる。

「おはよう。ちょうど今、森川さんにお願いしたところなんだけど。杉崎さんも原くんも、あとでデパートに手土産買いに行ってくれるかな? 挨拶回りするから、お菓子の詰め合わせをざっと30個ほど」

部長の言葉に、原が笑顔で頷いた。

「新オフィスでの最初の仕事がお使いとは。これがほんとの、はじめてのおつかい」
「アホ! もう、原の寒いギャグセンスは前のオフィスに置いてきてほしかったわ。ねえ? 花純」

千鶴に言われて、花純は苦笑いを浮かべる。
すると原がニヤリと不敵な笑みを見せた。

「千鶴、知ってるか? 花純って意外と俺のギャグ好きなんだぜ?」
「なにうぬぼれてんのよ。花純は哀れに思って、聞き流してあげてるだけよ」
「違うね。いつも、ふふって笑ってるもん。な? 花純」

花純は、んー?と言葉を濁しつつ笑顔で視線をそらす。

「ほらね。バカな弟を笑って許す姉って感じ」
「千鶴、バカとはなんだ、バカとは」
「あはは! なんで自分で2回もバカバカ言ってんの?」

止まらない千鶴と原のやり取りに、部長がやれやれとため息をつく。

「新しいオフィスで心機一転かと思いきや、相変わらずだな、君たちは。ほら、仕事仕事」

はーい、とようやく千鶴と原はデスクに向かった。

10時になると3人でオフィスを出て、歩いてすぐのデパートに向かう。

「大体さ、千鶴はいっつも俺に寒いギャグだって言うけど、ギャグって言葉、今どき誰も使わないからな」
「えっ、ちょっと。まださっきの会話続いてたの?」
「当たり前だ。決着つくまでやるぞ」
「暇ねー。部長じゃないけど、仕事しなよ?」

いつもの二人の会話を、花純は笑顔で聞きながら歩く。
同期3人組の雰囲気は何よりも心地良かった。

デパートに着くと、地下の洋菓子コーナーに向かう。

「焼き菓子の詰め合わせでいいかな? うーんと、これとかどう?」

ショーケースを指差す花純の横で、原もかがんで覗き込む。

「そうだな。これでいいんじゃないか? 花純、好きそうだな。パッケージも可愛らしくて」
「うん、ここのお菓子好きなの。美味しいんだよ」
「へえ、じゃあ決まりな。これを20箱と、あとの10箱は別の店でおかきとかあられの詰め合わせにするか」
「そうだね、男性や年配の方が多い会社にはそれがいいと思う」

原が早速店員に注文し、支払いを済ませた。

「わっ、すごい量だね。半分持つよ」
「サンキュー。それから、これは花純に」

小さな手提げ袋を渡されて、花純は、え?と首をひねる。

「なあに?」
「ここのお菓子、好きなんだろ? だからこれは、花純の分」
「えっ!だめだよ、原くん。経費でこんなことしたら」
「バレたか。って、うそうそ。ちゃんと別会計で俺の自腹だから、安心しろ」
「いいの? ありがとう! じゃあ、あとで3人で分けよう。ありがとね、原くん」
「どういたしまして」

すると黙って聞いていた千鶴が割って入る。

「ねえ、なんか花純と私で待遇違わない?」
「当たり前だ。花純は千鶴とは違って、オヤジみたいなノリで返してこないからな」
「ちょっと! 誰がオヤジなのよ?」
「ほら、オヤっさん。好きなせんべい選びなよ。このザラメ醤油は?」
「おー、いいな。甘じょっぱくて何枚でもいけらあ……って違うから」

花純は堪えきれずに、あはは!と笑う。

「千鶴ちゃんも原くんも、絶好調だね。新しいオフィスでちょっとドキドキしてたんだけど、すっかり安心しちゃった」
「そうなの? 私は逆に『いい出会いがあるかもー?』なんて期待してたのが、原のせいでガラガラと崩れ落ちたわ。見てよ、今日の私のファッション! アシンメトリーのスカートで気合い入ってるでしょ? なのにせんべい選ぶオヤジ呼ばわりよ」
「ふふっ、千鶴ちゃんの今日の服、すごく大人っぽくて素敵! ほら、あそこの上品なお店で吹き寄せ選ぼうよ」
「そうね、気分はいいとこのお嬢様で」

3人で賑やかに買い物を終えると、たくさんの紙袋を手にオフィスに戻った。
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