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やり手の社長
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「えーっと、これで大体のところは終わったかな?」
部長と一緒に挨拶回りをしていた花純は、フロアマップを広げて頷いた。
「はい。あとは51階と52階のオフィスだけですね」
「あー、クロスリンクワールドか。なんか緊張するな。噂ではかなりやり手の社長らしいからな」
「え? 部長、この会社のことをご存知なんですか?」
「もちろん。知らない人の方が少ないよ」
花純は、え……と言葉に詰まる。
「森川さんだって、当然知ってるでしょ?」
「いえ、それが存じ上げなくて。すみません」
「いやいや、絶対知ってるって」
そう言うと部長は、スーツのポケットからスマートフォンを取り出した。
「このSNSも、こっちのフリマサイトも、あとはこの動画配信アプリも、全部クロスリンクワールドが作ったんだよ」
「えっ、ええー!?」
花純は驚いてまじまじと部長のスマートフォンに見入る。
どのアプリも、花純もずっと前から使っているものだった。
「これを全部同じ会社が作ってたんですか?」
「そうだよ。クロスリンクワールドは、ソフトウェアやプラットフォーム業界においては最大手だ。コンサルティング、クリエイティブ、テクノロジーの3本柱で業績を大きく伸ばしている。社長もかなり若手なんだよ。時代の流れを読むのが上手くて、常に1歩先のビジネスに着手する。頭がいいのはもちろんだけど、なんて言うか、ビジネスセンスがいいんだろうな」
「そうなんですね。そんなすごい会社がこの上に……。あ、ですが部長。51階と52階は、関係者以外立ち入り禁止のようです。エレベーターすら乗れないみたいで」
そうなの?と、部長は立ち止まる。
「じゃあ、アポ取ってから出直すか」
「はい。私から連絡しておきます」
「頼むよ、ありがとう」
そして花純は部長と一旦オフィスに戻った。
「もしもし、お忙しいところ突然のお電話で失礼いたします。わたくし、株式会社シリウストラベルの森川と申します」
花純は自分のデスクで、クロスリンクワールドの代表番号に電話をかけてみた。
丁寧な口調の電話口の女性に挨拶に伺いたいと話すと、しばらく保留されたあとに明るく返事が返ってきた。
「ご丁寧にありがとうございます。社長が、こちらこそご挨拶させていただきたいと申しております。つきましてはお手数ですが、1階のレセプションでビジターカードを受け取っていただき、高層階エレベーターで52階までお越しいただけますでしょうか?」
「はい、承知いたしました。それではこれから伺いますので、よろしくお願いいたします」
「はい、お待ちしております」
電話を切ると部長に話し、手土産の紙袋を手に二人でオフィスを出た。
「部長、こちらでしばらくお待ちください」
1階に下りると花純は部長にそう断って、タタッとレセプションに向かう。
ビジターカードを受け取ると部長を促し、高層階用のエレベーターに乗った。
カードリーダーにカードをかざしてから、52階のボタンを押す。
「へえ、森川さんよくやり方知ってるね」
「は、はい。まあ」
なんとなく笑顔でごまかす。
最上階に着いて扉が開くと、待っていた様子のスーツ姿のキリッとした男性が深々と頭を下げた。
「この度はご足労いただき、ありがとうございます。社長秘書の臼井と申します。社長室までご案内いたします」
「こちらこそ、ありがとうございます」
部長とお辞儀をしてから、男性のあとをついていく。
向かった先は、今朝案内されたあの部屋だった。
(え……、まさか)
花純が戸惑っていると、秘書の臼井がドアをノックした。
「社長。シリウストラベルの方をお連れしました」
「どうぞ」
中から聞こえてきた声にも覚えがある。
(社長!? まさか今朝の人って……)
開かれたドアの向こうに、あの人がいた。
◇
「はじめまして、クロスリンクワールド株式会社の上条光星と申します」
今朝向かい合って座ったソファで、光星はにこやかに部長に名刺を差し出した。
続いて花純とも名刺交換する。
「株式会社シリウストラベルの森川花純と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「森川花純さんですね。こちらこそよろしくお願いします。どうぞお掛けください」
促す光星を部長が「いえいえ!」と遮った。
「突然お邪魔して、お忙しい社長のお時間を取らせるわけにはまいりません。本日はご挨拶に伺ったまでですので」
「そこまで仕事に追われる人間ではありません。秘書がコーヒーを淹れましたので、よろしければおつき合いいただけますか?」
「あ、はい。それでは少しだけ失礼いたします」
部長に続いて花純もソファに座る。
臼井が3人分のコーヒーと、焼き菓子を載せたプレートをローテーブルに並べた。
「ありがとうございます」
お礼を言ってから、花純は焼き菓子をまじまじと見つめる。
(わあ、なんて可愛らしいの。タルトとマカロンと、桜のアイシングクッキーも! 綺麗……、もう芸術作品みたい。もったいなくて食べられないわ。せめて写真撮りたいー)
その時、クスッという聞き覚えのある声がして花純は顔を上げる。
口元を手で覆った光星が「失礼」と表情を引き締めるところだった。
「心の声が聞こえてくるようで、つい……。お気に召していただけましたか?」
「はい。とても素敵でうっとりしてしまいました」
「お口に合えばいいのですが。どうぞ召し上がってください」
「ありがとうございます。いただきます」
花純は視線を落とし、どれを食べようかと迷う。
見た目の美しさに、どれも躊躇してしまった。
(うーん、この桜のアイシングクッキーを食べるなんて無理。タルトも美味しそうだけど、もうちょっと見ていたいな。イチゴの切り方と飾り方が美しいったらもう。そうすると、マカロンか……。んー、これもコロンとしてて可愛い。えーい、ごめんね。いただきます!)
意を決すると、花純は薄桃色のマカロンを手に取り、そっと口に運ぶ。
(お、美味しい!食感は サクサクほろりで、味わいはこの上なく上品。はあ、まるでセレブのお菓子ね。なんて贅沢なティータイム)
思わず目を閉じ、頬を緩めながらじっくり味わっていると、今度はクククッと必死で笑いを堪える声がした。
花純が声の主を見ると、光星は慌てて真顔に戻って咳払いする。
「失礼しました。まだまだたくさんありますので、他にもご用意しましょうか?」
「いえ、これ以上はいただけません。ありがとうございます」
そう断ってから、花純はプチタルトも食べてみた。
想像以上の美味しさにまたしてもうっとりする花純の横で、部長は光星と何やら雑談している。
「それにしても、クロスリンクワールドの社長さんがあなたのような若くてかっこいい方だとは。雑誌やメディアのインタビュー記事を拝見したことがありますが、写真も一緒に掲載されたらますます注目されるでしょうね。写真はNGなのですか?」
「そうですね。僭越ながらお断りしています」
「それはなぜですか? 注目度も知名度も上がると思いますよ」
「いえいえ、そんな。私はあくまで会社の事業に関するご質問にお答えしているだけですから。今後ますます発展していくIT業界や、人々の暮らしを豊かにするテクノロジーの一助になればと。そこに私の写真はいらぬ情報です」
「ほう……。我が社の経営戦略部なら絶対にあなたのようなイケメン社長を推しまくるでしょうが、こちらの社風はなんだか上質ですね。いや、さすがは日本のトップ企業。余裕が感じられます」
「とんでもない。御社こそ旅行業界をけん引していらっしゃるではないですか。世界中に支社があって、日本国内だけではなく海外での知名度も高い。それに信頼出来る実績と長い歴史がある。弊社はまだまだ遠く及びませんよ」
「いやいや、時代の流れを汲んで突き抜ける勢いとパワーがありますよ。うちはコツコツ小さなことを積み重ねてきた会社ですからね、タイプが違います。なあ、森川さん」
急に名前を呼ばれて、お菓子に夢中だった花純は喉を詰まらせた。
「は、はい。左様でございます」
慌てて頷き、コーヒーを口にすると、光星がふっと笑みをもらす。
そして背後に控えていた臼井を振り返り、何やら目配せした。
「上条社長、それでは我々はそろそろ。本日は突然お邪魔したにもかかわらず、丁寧にご対応いただきましてありがとうございました」
そう言って立ち上がった部長に続き、花純も立ち上がる。
「改めまして、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。こちらはよろしければ皆様で召し上がってください」
渡しそびれていた手土産の洋菓子を差し出すと、光星はお礼を言って受け取り、なぜだか臼井から手渡された紙袋を花純に差し出した。
「え、あの、こちらは?」
「先ほどと同じ焼き菓子です。森川さんが美味しそうに食べてくださったので、お土産にもと思いまして。ご自宅で召し上がってください」
「えっ、そんな。どうぞお気遣いなく」
「いえ、そんな。どうぞご遠慮なく」
やり取りを楽しんでいるような光星に、花純は頑なに首を振る。
「受け取るなんて図々しいこと出来ませんから」
「そんな大げさな。あんなに感激してくださって、私も嬉しかったので」
「ですが……」
部長の手前もあり、どうしたものかと困り果てていると、光星は臼井に紙袋を渡した。
「臼井、お客様のお見送りを頼む」
「かしこまりました」
うやうやしく頭を下げて臼井がドアを開ける。
部長と花純はもう一度光星に挨拶してから部屋をあとにした。
エレベーターホールまで来ると、臼井がボタンを押して二人を振り返る。
「本日はご足労いただき、誠にありがとうございました。ビジターカードはわたくしがお預かりいたします」
「あ、はい。ありがとうございました」
花純がカードを差し出すと、臼井はさり気なく紙袋を手渡しつつ受け取った。
「それでは、わたくしはここで失礼いたします」
エレベーターの扉が閉まるまで頭を下げたままの臼井に、部長と花純もお辞儀をする。
結局花純の手には、いつの間にか焼き菓子の紙袋が握らされていた。
「いやー、それにしてもかっこいい社長さんだったな」
ウィーンとかすかな音と共に1階へと下りて行くエレベーターの中で、部長が思い出したようにしみじみと言う。
「あんなに若くして会社を立ち上げてここまで大きくするって、凡人には無理だもんな。カリスマ性というか、なんか人を惹きつけるオーラのある人だったよな。……って、森川さんはお菓子に夢中で話は聞いてなかったか」
「滅相もない。謹んで拝聴しておりました」
「ははは! 感激してうっとりしながらお菓子食べてたの、私も見てたよ。ほっぺた落っこちなかったかい?」
「はい、かろうじて。ですがお土産までいただいてしまって、大丈夫でしょうか? 結局受け取ってしまってすみません」
「うん、いいんじゃない? 上条社長、ほんとに君に受け取ってほしそうだったよ。おもてなし上手な人だな。秘書の方との連携プレーも見事だし。いやー、いい時間だったよ。話をするだけでパワーをもらえた」
花純も思わず頷いて同意した。
(まさにそんな人だったな。まるで別世界にいるみたいな、一流の人。朝は親切だったし、さっきは凛としてオーラがあって)
それに、と花純は手にした紙袋を握り直す。
(こんな気遣いもしてくれて。楽しみだな、うちに帰ったら今度こそ写真撮ろう)
その時、ポンと音がしてエレベーターの扉が開く。
二人で中層階エレベーターに乗り換えた。
「さてと。今日は荷解きで仕事もぼちぼちって感じだな。森川さん、挨拶回りにつき合ってくれてありがとう。仕事が溜まってないのは君くらいだからね」
「いえ、そんな。お役に立てたのなら良かったです。部長、パソコンのセットアップは大丈夫そうですか? 何かお手伝いすることありますか?」
「大丈夫だよ。ほんとに森川さんは優しいね。杉崎さんなんかこの間の飲み会で、私のこと『昭和のオヤジのデフォルト』とか言うんだよ?」
「ええ!? なんてことを。すみません、言い聞かせておきます」
「ははは! 構わないよ。杉崎さんと原くんはムードメーカーだからね、オフィスの雰囲気を明るくしてくれる。そこに森川さんがきっちり仕事を締めてくれて、バランスの取れたトリオだなと思ってるんだ。これからもよろしく頼むよ」
「はい、ありがとうございます」
39階でエレベーターを降り、オフィスに戻る。
その日は引っ越しの片づけに追われ、皆で定時に退社した。
◇
「ただいま……。ふう、疲れた」
ひとり暮らしのワンルームマンションに帰ると、花純はスプリングコートを脱いでソファに座った。
「晩ご飯、どうしようかな」
ぼーっと宙を見ながら考える。
自分一人の食事なんて適当に済ませたくなるが、なるべく毎日自炊するようにしていた。
(疲れてても彼とつき合い初めの頃は、張り切って料理してたな)
今は恋人はいない。
同い年の彼と大学の4年間つき合っていたが、社会人になって半年後に別れた。
「仕事より、俺との時間を優先してほしい」
そう言われて気持ちが冷め、別れを決めた。
(でもよく考えたら、なんか立場が逆じゃない? 『仕事と私のどっちが大事なのよ』って彼女に言われて、うんざりした男の人みたい)
ストレートの黒髪にきっちりオフィススタイルでいるせいか、控えめで大人しいと周りから言われることが多いけれど、案外自分の性格は男っぽいのかもしれない。
その彼と別れてから恋愛が煩わしくなり、告白されても断ってきた。
28歳になった今も結婚願望はない。
(一人の方が気楽でいいもんね。時間を好きなように使えるし。って、これも男性っぽい考え方かな?)
ふふっと笑ってから立ち上がり、キッチンで親子丼とみそ汁を作った。
いただきますと手を合わせて食べていると、ふとカバンの横に置いた紙袋が目に入る。
(そうだ! いただいたお菓子、早速あとで食べよう)
食事を終えると紅茶を淹れ、わくわくしながら箱を取り出した。
そっと開けると、ブルーベリータルトと白いマカロン、桜の花びらのアイシングクッキーが入っている。
「え、種類が違うんだ。これも素敵!」
じっくり眺めてからスマートフォンで写真を撮る。
一番気に入った花びらのアイシングクッキーの写真を、メッセージアプリのアイコンに設定した。
「うん、可愛い。春らしくていいな」
満足気に画面を見つめてから、心置きなくお菓子を味わう。
(はあ、幸せ。どこのお店のお菓子なんだろう? 気になるな)
紙袋と箱も見返してみたが、無地でロゴや店名も書かれていなかった。
ますます気になって仕方なくなり、花純はクロスリンクワールドのホームページを開いてみる。
(さすがに洋菓子店は経営してないか。でもすごいな、こんなに有名なアプリやサイトをいくつも運営してるなんて。芸能人やインフルエンサーが使ってるSNSもある)
ページを次々開いていると、会社概要に『代表取締役社長 上条 光星』と書かれていた。
部長が言っていた通り、写真はない。
(もしあったら、女性に言い寄られて大変そう。だから敢えて載せてないのかな? 彼女に止められたとかで。あ、もし結婚してたら奥さんか)
でも社長が若くてイケメンだと話題になれば、それだけ会社も注目されるから悪いことばかりではなさそう……と考えたところで苦笑いする。
(いやいや、私なんかが心配したところで余計なお世話だよね。あはは……。さてと! お風呂に入って早く寝よう。明日も早めに出社したいし)
花純はスマートフォンを置くと立ち上がり、バスルームに向かった。
部長と一緒に挨拶回りをしていた花純は、フロアマップを広げて頷いた。
「はい。あとは51階と52階のオフィスだけですね」
「あー、クロスリンクワールドか。なんか緊張するな。噂ではかなりやり手の社長らしいからな」
「え? 部長、この会社のことをご存知なんですか?」
「もちろん。知らない人の方が少ないよ」
花純は、え……と言葉に詰まる。
「森川さんだって、当然知ってるでしょ?」
「いえ、それが存じ上げなくて。すみません」
「いやいや、絶対知ってるって」
そう言うと部長は、スーツのポケットからスマートフォンを取り出した。
「このSNSも、こっちのフリマサイトも、あとはこの動画配信アプリも、全部クロスリンクワールドが作ったんだよ」
「えっ、ええー!?」
花純は驚いてまじまじと部長のスマートフォンに見入る。
どのアプリも、花純もずっと前から使っているものだった。
「これを全部同じ会社が作ってたんですか?」
「そうだよ。クロスリンクワールドは、ソフトウェアやプラットフォーム業界においては最大手だ。コンサルティング、クリエイティブ、テクノロジーの3本柱で業績を大きく伸ばしている。社長もかなり若手なんだよ。時代の流れを読むのが上手くて、常に1歩先のビジネスに着手する。頭がいいのはもちろんだけど、なんて言うか、ビジネスセンスがいいんだろうな」
「そうなんですね。そんなすごい会社がこの上に……。あ、ですが部長。51階と52階は、関係者以外立ち入り禁止のようです。エレベーターすら乗れないみたいで」
そうなの?と、部長は立ち止まる。
「じゃあ、アポ取ってから出直すか」
「はい。私から連絡しておきます」
「頼むよ、ありがとう」
そして花純は部長と一旦オフィスに戻った。
「もしもし、お忙しいところ突然のお電話で失礼いたします。わたくし、株式会社シリウストラベルの森川と申します」
花純は自分のデスクで、クロスリンクワールドの代表番号に電話をかけてみた。
丁寧な口調の電話口の女性に挨拶に伺いたいと話すと、しばらく保留されたあとに明るく返事が返ってきた。
「ご丁寧にありがとうございます。社長が、こちらこそご挨拶させていただきたいと申しております。つきましてはお手数ですが、1階のレセプションでビジターカードを受け取っていただき、高層階エレベーターで52階までお越しいただけますでしょうか?」
「はい、承知いたしました。それではこれから伺いますので、よろしくお願いいたします」
「はい、お待ちしております」
電話を切ると部長に話し、手土産の紙袋を手に二人でオフィスを出た。
「部長、こちらでしばらくお待ちください」
1階に下りると花純は部長にそう断って、タタッとレセプションに向かう。
ビジターカードを受け取ると部長を促し、高層階用のエレベーターに乗った。
カードリーダーにカードをかざしてから、52階のボタンを押す。
「へえ、森川さんよくやり方知ってるね」
「は、はい。まあ」
なんとなく笑顔でごまかす。
最上階に着いて扉が開くと、待っていた様子のスーツ姿のキリッとした男性が深々と頭を下げた。
「この度はご足労いただき、ありがとうございます。社長秘書の臼井と申します。社長室までご案内いたします」
「こちらこそ、ありがとうございます」
部長とお辞儀をしてから、男性のあとをついていく。
向かった先は、今朝案内されたあの部屋だった。
(え……、まさか)
花純が戸惑っていると、秘書の臼井がドアをノックした。
「社長。シリウストラベルの方をお連れしました」
「どうぞ」
中から聞こえてきた声にも覚えがある。
(社長!? まさか今朝の人って……)
開かれたドアの向こうに、あの人がいた。
◇
「はじめまして、クロスリンクワールド株式会社の上条光星と申します」
今朝向かい合って座ったソファで、光星はにこやかに部長に名刺を差し出した。
続いて花純とも名刺交換する。
「株式会社シリウストラベルの森川花純と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「森川花純さんですね。こちらこそよろしくお願いします。どうぞお掛けください」
促す光星を部長が「いえいえ!」と遮った。
「突然お邪魔して、お忙しい社長のお時間を取らせるわけにはまいりません。本日はご挨拶に伺ったまでですので」
「そこまで仕事に追われる人間ではありません。秘書がコーヒーを淹れましたので、よろしければおつき合いいただけますか?」
「あ、はい。それでは少しだけ失礼いたします」
部長に続いて花純もソファに座る。
臼井が3人分のコーヒーと、焼き菓子を載せたプレートをローテーブルに並べた。
「ありがとうございます」
お礼を言ってから、花純は焼き菓子をまじまじと見つめる。
(わあ、なんて可愛らしいの。タルトとマカロンと、桜のアイシングクッキーも! 綺麗……、もう芸術作品みたい。もったいなくて食べられないわ。せめて写真撮りたいー)
その時、クスッという聞き覚えのある声がして花純は顔を上げる。
口元を手で覆った光星が「失礼」と表情を引き締めるところだった。
「心の声が聞こえてくるようで、つい……。お気に召していただけましたか?」
「はい。とても素敵でうっとりしてしまいました」
「お口に合えばいいのですが。どうぞ召し上がってください」
「ありがとうございます。いただきます」
花純は視線を落とし、どれを食べようかと迷う。
見た目の美しさに、どれも躊躇してしまった。
(うーん、この桜のアイシングクッキーを食べるなんて無理。タルトも美味しそうだけど、もうちょっと見ていたいな。イチゴの切り方と飾り方が美しいったらもう。そうすると、マカロンか……。んー、これもコロンとしてて可愛い。えーい、ごめんね。いただきます!)
意を決すると、花純は薄桃色のマカロンを手に取り、そっと口に運ぶ。
(お、美味しい!食感は サクサクほろりで、味わいはこの上なく上品。はあ、まるでセレブのお菓子ね。なんて贅沢なティータイム)
思わず目を閉じ、頬を緩めながらじっくり味わっていると、今度はクククッと必死で笑いを堪える声がした。
花純が声の主を見ると、光星は慌てて真顔に戻って咳払いする。
「失礼しました。まだまだたくさんありますので、他にもご用意しましょうか?」
「いえ、これ以上はいただけません。ありがとうございます」
そう断ってから、花純はプチタルトも食べてみた。
想像以上の美味しさにまたしてもうっとりする花純の横で、部長は光星と何やら雑談している。
「それにしても、クロスリンクワールドの社長さんがあなたのような若くてかっこいい方だとは。雑誌やメディアのインタビュー記事を拝見したことがありますが、写真も一緒に掲載されたらますます注目されるでしょうね。写真はNGなのですか?」
「そうですね。僭越ながらお断りしています」
「それはなぜですか? 注目度も知名度も上がると思いますよ」
「いえいえ、そんな。私はあくまで会社の事業に関するご質問にお答えしているだけですから。今後ますます発展していくIT業界や、人々の暮らしを豊かにするテクノロジーの一助になればと。そこに私の写真はいらぬ情報です」
「ほう……。我が社の経営戦略部なら絶対にあなたのようなイケメン社長を推しまくるでしょうが、こちらの社風はなんだか上質ですね。いや、さすがは日本のトップ企業。余裕が感じられます」
「とんでもない。御社こそ旅行業界をけん引していらっしゃるではないですか。世界中に支社があって、日本国内だけではなく海外での知名度も高い。それに信頼出来る実績と長い歴史がある。弊社はまだまだ遠く及びませんよ」
「いやいや、時代の流れを汲んで突き抜ける勢いとパワーがありますよ。うちはコツコツ小さなことを積み重ねてきた会社ですからね、タイプが違います。なあ、森川さん」
急に名前を呼ばれて、お菓子に夢中だった花純は喉を詰まらせた。
「は、はい。左様でございます」
慌てて頷き、コーヒーを口にすると、光星がふっと笑みをもらす。
そして背後に控えていた臼井を振り返り、何やら目配せした。
「上条社長、それでは我々はそろそろ。本日は突然お邪魔したにもかかわらず、丁寧にご対応いただきましてありがとうございました」
そう言って立ち上がった部長に続き、花純も立ち上がる。
「改めまして、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。こちらはよろしければ皆様で召し上がってください」
渡しそびれていた手土産の洋菓子を差し出すと、光星はお礼を言って受け取り、なぜだか臼井から手渡された紙袋を花純に差し出した。
「え、あの、こちらは?」
「先ほどと同じ焼き菓子です。森川さんが美味しそうに食べてくださったので、お土産にもと思いまして。ご自宅で召し上がってください」
「えっ、そんな。どうぞお気遣いなく」
「いえ、そんな。どうぞご遠慮なく」
やり取りを楽しんでいるような光星に、花純は頑なに首を振る。
「受け取るなんて図々しいこと出来ませんから」
「そんな大げさな。あんなに感激してくださって、私も嬉しかったので」
「ですが……」
部長の手前もあり、どうしたものかと困り果てていると、光星は臼井に紙袋を渡した。
「臼井、お客様のお見送りを頼む」
「かしこまりました」
うやうやしく頭を下げて臼井がドアを開ける。
部長と花純はもう一度光星に挨拶してから部屋をあとにした。
エレベーターホールまで来ると、臼井がボタンを押して二人を振り返る。
「本日はご足労いただき、誠にありがとうございました。ビジターカードはわたくしがお預かりいたします」
「あ、はい。ありがとうございました」
花純がカードを差し出すと、臼井はさり気なく紙袋を手渡しつつ受け取った。
「それでは、わたくしはここで失礼いたします」
エレベーターの扉が閉まるまで頭を下げたままの臼井に、部長と花純もお辞儀をする。
結局花純の手には、いつの間にか焼き菓子の紙袋が握らされていた。
「いやー、それにしてもかっこいい社長さんだったな」
ウィーンとかすかな音と共に1階へと下りて行くエレベーターの中で、部長が思い出したようにしみじみと言う。
「あんなに若くして会社を立ち上げてここまで大きくするって、凡人には無理だもんな。カリスマ性というか、なんか人を惹きつけるオーラのある人だったよな。……って、森川さんはお菓子に夢中で話は聞いてなかったか」
「滅相もない。謹んで拝聴しておりました」
「ははは! 感激してうっとりしながらお菓子食べてたの、私も見てたよ。ほっぺた落っこちなかったかい?」
「はい、かろうじて。ですがお土産までいただいてしまって、大丈夫でしょうか? 結局受け取ってしまってすみません」
「うん、いいんじゃない? 上条社長、ほんとに君に受け取ってほしそうだったよ。おもてなし上手な人だな。秘書の方との連携プレーも見事だし。いやー、いい時間だったよ。話をするだけでパワーをもらえた」
花純も思わず頷いて同意した。
(まさにそんな人だったな。まるで別世界にいるみたいな、一流の人。朝は親切だったし、さっきは凛としてオーラがあって)
それに、と花純は手にした紙袋を握り直す。
(こんな気遣いもしてくれて。楽しみだな、うちに帰ったら今度こそ写真撮ろう)
その時、ポンと音がしてエレベーターの扉が開く。
二人で中層階エレベーターに乗り換えた。
「さてと。今日は荷解きで仕事もぼちぼちって感じだな。森川さん、挨拶回りにつき合ってくれてありがとう。仕事が溜まってないのは君くらいだからね」
「いえ、そんな。お役に立てたのなら良かったです。部長、パソコンのセットアップは大丈夫そうですか? 何かお手伝いすることありますか?」
「大丈夫だよ。ほんとに森川さんは優しいね。杉崎さんなんかこの間の飲み会で、私のこと『昭和のオヤジのデフォルト』とか言うんだよ?」
「ええ!? なんてことを。すみません、言い聞かせておきます」
「ははは! 構わないよ。杉崎さんと原くんはムードメーカーだからね、オフィスの雰囲気を明るくしてくれる。そこに森川さんがきっちり仕事を締めてくれて、バランスの取れたトリオだなと思ってるんだ。これからもよろしく頼むよ」
「はい、ありがとうございます」
39階でエレベーターを降り、オフィスに戻る。
その日は引っ越しの片づけに追われ、皆で定時に退社した。
◇
「ただいま……。ふう、疲れた」
ひとり暮らしのワンルームマンションに帰ると、花純はスプリングコートを脱いでソファに座った。
「晩ご飯、どうしようかな」
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自分一人の食事なんて適当に済ませたくなるが、なるべく毎日自炊するようにしていた。
(疲れてても彼とつき合い初めの頃は、張り切って料理してたな)
今は恋人はいない。
同い年の彼と大学の4年間つき合っていたが、社会人になって半年後に別れた。
「仕事より、俺との時間を優先してほしい」
そう言われて気持ちが冷め、別れを決めた。
(でもよく考えたら、なんか立場が逆じゃない? 『仕事と私のどっちが大事なのよ』って彼女に言われて、うんざりした男の人みたい)
ストレートの黒髪にきっちりオフィススタイルでいるせいか、控えめで大人しいと周りから言われることが多いけれど、案外自分の性格は男っぽいのかもしれない。
その彼と別れてから恋愛が煩わしくなり、告白されても断ってきた。
28歳になった今も結婚願望はない。
(一人の方が気楽でいいもんね。時間を好きなように使えるし。って、これも男性っぽい考え方かな?)
ふふっと笑ってから立ち上がり、キッチンで親子丼とみそ汁を作った。
いただきますと手を合わせて食べていると、ふとカバンの横に置いた紙袋が目に入る。
(そうだ! いただいたお菓子、早速あとで食べよう)
食事を終えると紅茶を淹れ、わくわくしながら箱を取り出した。
そっと開けると、ブルーベリータルトと白いマカロン、桜の花びらのアイシングクッキーが入っている。
「え、種類が違うんだ。これも素敵!」
じっくり眺めてからスマートフォンで写真を撮る。
一番気に入った花びらのアイシングクッキーの写真を、メッセージアプリのアイコンに設定した。
「うん、可愛い。春らしくていいな」
満足気に画面を見つめてから、心置きなくお菓子を味わう。
(はあ、幸せ。どこのお店のお菓子なんだろう? 気になるな)
紙袋と箱も見返してみたが、無地でロゴや店名も書かれていなかった。
ますます気になって仕方なくなり、花純はクロスリンクワールドのホームページを開いてみる。
(さすがに洋菓子店は経営してないか。でもすごいな、こんなに有名なアプリやサイトをいくつも運営してるなんて。芸能人やインフルエンサーが使ってるSNSもある)
ページを次々開いていると、会社概要に『代表取締役社長 上条 光星』と書かれていた。
部長が言っていた通り、写真はない。
(もしあったら、女性に言い寄られて大変そう。だから敢えて載せてないのかな? 彼女に止められたとかで。あ、もし結婚してたら奥さんか)
でも社長が若くてイケメンだと話題になれば、それだけ会社も注目されるから悪いことばかりではなさそう……と考えたところで苦笑いする。
(いやいや、私なんかが心配したところで余計なお世話だよね。あはは……。さてと! お風呂に入って早く寝よう。明日も早めに出社したいし)
花純はスマートフォンを置くと立ち上がり、バスルームに向かった。
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