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桜月夜
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次の日は土曜日で、花純は自宅マンションで朝からのんびりと掃除や洗濯をしていた。
午後になると、ポカポカ陽気に誘われて散歩に出かける。
歩いて10分ほどの川沿いに、ズラリと桜の木が植えられていて、毎年お花見するのを楽しみにしていた。
「わあ、今年も綺麗!」
ちょうど満開を迎えた桜を見上げ、花純はうっとりしながら歩く。
川に架けられた小さな橋の中央に立つと、水面にせり出した桜の枝からひらひらとたくさんの花びらが舞い落ち、春風に吹き寄せられて流れていた。
(桜の花いかだ、素敵)
しばし言葉もなく見とれてから、スマートフォンで写真を撮る。
(ふふっ、綺麗に撮れたな。そうだ!)
ふと思いついて、SNSのアプリを開いた。
確か季節ごとに写真コンテストが開催されていて、ハッシュタグをつけて投稿すると「今日の1枚」として良い写真が選ばれる。
今の季節は、桜がテーマだった。
(試しにやってみようかな)
軽い気持ちで、撮ったばかりの写真に「#桜」とつけて投稿する。
(そう言えば、このサイトの運営会社もクロスリンクワールドなのね。すごいなあ)
感心してからスマートフォンをポケットに入れると、またのんびりとお花見を楽しんだ。
◇
「森川さん、おはようございます」
月曜日になり、いつもと同じ時間に出社すると、またしてもエレベーターホールで光星に会った。
「おはようございます、上条社長。先日は美味しいパニーニの差し入れをありがとうございました」
「ははっ、バレちゃってましたか。なんだか恥ずかしい……、ん? ちょっと失礼」
光星は身をかがめると、そっと花純の髪に触れる。
(え? 何を……)
花純が身を固くしていると、ほら、と手のひらを開いて見せた。
「え、あっ! 桜の花びら?」
「そう。だけど取るんじゃなかったな。せっかく君の髪を綺麗に飾ってたのに」
そう言いながら、手のひらに載せた花びらを惜しむように見つめている。
「上条社長って、風流な方なんですね」
「え?どうして?」
「だって、たった1枚の桜の花びらに、そんなに名残惜しそうにするなんて。風流というか、ロマンチスト?」
「そんなこと初めて言われたな。週末に桜の写真をたくさん見ていたんだ。それで花に心奪われたのかも」
照れ隠しのように微笑む光星に、花純も笑みをこぼす。
「やっぱりロマンチストですよ。花に心奪われた、なんて」
「そうかな? でもあの写真を見たら誰でもそう思うよ。見てみて」
そう言うと光星はスマートフォンを操作して、画面を花純に見せた。
「ほら、これ。うちが運営してるサイトに投稿された写真で、『今日の1枚』にも選ばれたんだ。川と桜のコントラストが見事でしょ」
「えっ!」
花純はまじまじと画面を見つめる。
「これ、私が撮った写真です」
「ええ!?」
光星も驚いて、写真を見返した。
「ハンドルネーム『もか』さん?」
「そうです。名字と名前の頭文字を取って」
「ああ、なるほど。そうか、君だったのか。この写真、ほんとに美しいね。どこで撮ったの?」
「自宅マンションの近くです」
「へえ。そんな身近なところに桜の名所が?」
「ふふっ、はい。密かな私の自慢です。いい所に住んでるなって。この時期限定ですけどね」
それにしても「今日の1枚」にも選ばれたとは、と花純はなんだか嬉しくなった。
「選んでいただいて、ありがとうございます」
「いや、俺じゃなくて別の担当者が選んだんだ。けど、俺もこれは文句なしの1枚だ。投稿してくれてありがとう」
「こちらこそ。あ、それではそろそろ行きますね」
「ああ、引き留めてすまなかった」
「いいえ。お仕事がんばってください」
「ありがとう。君も」
花純は笑顔で光星と別れ、エレベーターに乗り込んだ。
◇
その日も順調に仕事をこなし、そろそろ定時の18時になろうとする頃、花純のデスクの電話が鳴った。
埼玉の熊谷支店の店長からの電話だった。
「店長、お疲れ様です。何かありましたか?」
「森川さん、ごめん! 実は発注ミスで、イタリア7日間旅行のパンフレットを切らしてしまって……。急いで近隣の店舗から分けてもらったんだけど、これからご来店予約のお客様にお渡しする分が足りなくて」
花純はすぐさま腕時計に目を落とす。
「お客様のご予約は何時ですか?」
「19時半なんだ」
「分かりました、すぐにお届けに上がります」
そう言って電話を切ると、部長に手短に事情を話し、パンフレットを紙袋に詰めて急いでオフィスを出た。
最寄り駅から電車に乗り、アプリで最短ルートを検索する。
なんとか19時半には間に合いそうだった。
ハラハラしながら電車に揺られ、19時20分に店舗に駆け込んだ。
「お疲れ様です! 間に合いましたか?」
「森川さん! ありがとう。お客様はまだです」
「良かった……」
肩で息をしながら、花純は店長にパンフレットを手渡す。
「助かったよ。本当にありがとう。夕べテレビのバラエティー番組で、イタリア旅行の特集があったらしく、一気にお問い合わせが増えてね。まあ、嬉しい悲鳴だけど」
「そうだったんですね。私ももっとそういった情報の流れに気をつけておきます。近隣の店舗も、同じようにパンフレット切らしてるんですか?」
「ああ。急いで発注かけたけど、届くまで持つかどうかって感じらしい」
「分かりました。私、これから少し他店舗も回ってきますね」
「悪いね、ありがとう」
各駅停車の電車に乗り、ひと駅ごとに降りていくつかの店舗を回る。
どこもやはりイタリアのパンフレットだけが足りない状況だった。
全て配り終えて会社に戻る頃には、23時を過ぎていた。
そのまま直帰でも構わなかったが、中途半端にやり残した作業があり、オフィスに立ち寄った。
案の定、オフィスにはもう誰もいない。
(明日はさすがに7時出社はやめようかな)
そう思いながら作業を終えてパソコンを閉じ、カバンを手に1階へ下りた。
(わっ、なんだか怖い)
エレベーターが開くと、シンと静まり返ったロビーに身がすくむ。
さっさと通り抜けようと足を踏み出した時、隣のエレベーターがポンと開いて思わずビクッとした。
(こんな時間にまだ誰かいたの? もう0時近いのに)
カバンを持つ手にギュッと力を込めて歩き出すと、「森川さん?」と声がした。
「え? あ、上条社長!」
「どうした? こんなに遅くに」
光星は心配そうに歩み寄る。
「あ、えっと、トラブルがあって外回りをしていたので……」
「だからって、女の子がこんなに夜遅くに一人でいるなんて。これから帰るの?」
「はい、そうです」
「車で送る。行こう」
そう言うとスーツのポケットから車のキーを取り出して歩き出す。
花純は仕方なく後ろをついて行った。
エントランスの大きな自動ドアではなく、その横の小さなドアをIDカードをかざして開けると、光星は「どうぞ」と花純を促す。
「ありがとうございます。ここって駐車場に繋がってるんですね」
「そう。あんまり広くないから、案外知られてないんだけどね」
「社長は運転もご自分でされるんですか?」
「ん? もちろん。どうして?」
「いえ、大企業の社長さんって、お抱えの運転手さんがいるイメージだったので。もしくは秘書さんが運転されるとか」
「そんなご立派な企業じゃないよ。それに俺の秘書、本職はパティシエなんだ」
ええ!?と花純は、驚いて仰け反る。
「臼井さん、パティシエだったんですか?」
「そう。君が気に入ってくれたあの焼き菓子も臼井が作ったんだ。取引先とかお客様に出すお菓子を毎日届けてもらってる。そのついでに秘書もやってくれって頼んだんだ。高校時代の同級生で、気心も知れてるからね。どうぞ、乗って」
「え、あ、はい」
情報過多で混乱しているうちに、光星は白い高級車のドアを開けて促した。
「失礼します」
「ドア閉めるよ」
「はい」
パタンとドアが閉まり、革張りのシートに座った花純はドキドキする。
(なんだか上条社長のお部屋にお邪魔したみたい。こういう感じが好みなんだ。いい香りがするなあ)
内装をぐるりと見渡していると、光星が運転席に乗り込んできて、花純は居住まいを正す。
「えっと、自宅マンションの住所を聞いてもいい?」
「はい」
エンジンをかけてカーナビをセットすると、光星はゆっくりと車を発進させた。
聴こえてきた洋楽の歌に、何の曲だろうと思っていると、気づいた光星が「あ、ごめん」とオーディオのディスプレイに手を伸ばす。
「知らない曲だよね。ラジオに変えようか?」
「いいえ、大丈夫です。素敵な曲だなと思っていたので」
「少し古い洋楽なんだ。君は若いから知らないだろうな」
「 私、そんなに若くないですよ。28です」
そうなの?と驚いてから、光星は「ごめん」と慌てて謝る。
「俺より10歳くらい下かと思ってたから、つい。失礼」
「社長より10歳下ってことは、ハタチとかですか?」
「いやいや、なんで? 俺、33だよ」
「そうなんですね。私と同い年くらいに見えるけど、社長さんだからさすがにもうちょっと上の30歳かなと思ってました」
「そうか。でも5歳違うんだね。流行りの曲に変えようか?」
「いえ、ほんとに大丈夫です。このまま聴かせてください」
そう言って花純は、英語のバラードに耳を澄ませた。
ダークな色合いの車内に流れる大人っぽい歌。
何だか自分まで大人の女性になれたような気がする。
会話もなく、ただ静かに歌に聴き入った。
密室に二人きりなのに、この空間の今の雰囲気が心地良い。
やがて花純のマンションが近づいて来ると、光星が控えめに切り出した。
「夜遅いのにごめん。良かったら、君が写真を撮ったあの桜を見せてもらえない?」
「え? あ、はい。じゃあ、次の信号を右に曲がってください。しばらく直進すると川沿いに出ますから」
「分かった」
カチカチと小気味良いウインカーの音と共に、ゆっくりと車が右折する。
そのまま真っ直ぐ走ると、前方に桜の木が見えてきた。
「これは……、見事だな」
圧倒されたように光星が呟く。
「本当に。夜の桜はまた趣がありますね」
「車を停めて少し歩いてもいい?」
「ええ、もちろん」
二人で肩を並べ、他には誰もいない川沿いを歩く。
「あの写真は、あそこの橋の上から撮りました」
「へえ、行ってみよう」
小さな橋の真ん中に立ち、川を見下ろした。
「なんて綺麗なんだろう。言葉を失くすよ」
「ええ、本当に」
川の両側からせり出した桜の枝から、たくさんの花びらが川面に舞い落ち、川をピンク一色に染めている。
「こぼれ桜の、花の浮き橋ですね」
「ああ。その川を照らす花あかりも美しい」
言葉もなく、二人静かに魅入る。
日常の世界から離れ、時間も場所も忘れる感覚。
時が止まったような、どこかにタイムスリップしたような気分になった。
「こうしていると、何千年も昔の人と心が通い合う気がするよ」
「本当ですね。時代が違っても、この美しさに心奪われる気持ちは一緒」
「昔の人が残した桜の言葉は、今も受け継がれている。花霞、桜吹雪、桜影……」
「ふふふ。花衣や、あなたのような桜人さくらびととか?」
「それは君もだよ、花純」
え……、と花純は光星を見上げる。
「純粋な花。君の名刺を見た時に、なんて素敵な名前だろうと思った」
そう言って花純を振り向き、優しく微笑む。
花純は頬を赤らめてうつむいた。
「それは、上条社長だってそうです。光る星、素敵ですね」
「そんなふうに褒められたのは初めてだ」
「そうなんですか? とても綺麗なお名前なのに」
「今までは名乗るのがどこか気恥ずかしかった。だけど君の名前とお揃いみたいで、今は嬉しい」
二人で顔を見合わせてから、また桜を愛でる。
「綺麗な星も見えますね」
「ああ、それに月も。桜月夜だな」
「ええ」
声を潜めて桜を見上げながら、二人静かに時の流れに身を委ねていた。
午後になると、ポカポカ陽気に誘われて散歩に出かける。
歩いて10分ほどの川沿いに、ズラリと桜の木が植えられていて、毎年お花見するのを楽しみにしていた。
「わあ、今年も綺麗!」
ちょうど満開を迎えた桜を見上げ、花純はうっとりしながら歩く。
川に架けられた小さな橋の中央に立つと、水面にせり出した桜の枝からひらひらとたくさんの花びらが舞い落ち、春風に吹き寄せられて流れていた。
(桜の花いかだ、素敵)
しばし言葉もなく見とれてから、スマートフォンで写真を撮る。
(ふふっ、綺麗に撮れたな。そうだ!)
ふと思いついて、SNSのアプリを開いた。
確か季節ごとに写真コンテストが開催されていて、ハッシュタグをつけて投稿すると「今日の1枚」として良い写真が選ばれる。
今の季節は、桜がテーマだった。
(試しにやってみようかな)
軽い気持ちで、撮ったばかりの写真に「#桜」とつけて投稿する。
(そう言えば、このサイトの運営会社もクロスリンクワールドなのね。すごいなあ)
感心してからスマートフォンをポケットに入れると、またのんびりとお花見を楽しんだ。
◇
「森川さん、おはようございます」
月曜日になり、いつもと同じ時間に出社すると、またしてもエレベーターホールで光星に会った。
「おはようございます、上条社長。先日は美味しいパニーニの差し入れをありがとうございました」
「ははっ、バレちゃってましたか。なんだか恥ずかしい……、ん? ちょっと失礼」
光星は身をかがめると、そっと花純の髪に触れる。
(え? 何を……)
花純が身を固くしていると、ほら、と手のひらを開いて見せた。
「え、あっ! 桜の花びら?」
「そう。だけど取るんじゃなかったな。せっかく君の髪を綺麗に飾ってたのに」
そう言いながら、手のひらに載せた花びらを惜しむように見つめている。
「上条社長って、風流な方なんですね」
「え?どうして?」
「だって、たった1枚の桜の花びらに、そんなに名残惜しそうにするなんて。風流というか、ロマンチスト?」
「そんなこと初めて言われたな。週末に桜の写真をたくさん見ていたんだ。それで花に心奪われたのかも」
照れ隠しのように微笑む光星に、花純も笑みをこぼす。
「やっぱりロマンチストですよ。花に心奪われた、なんて」
「そうかな? でもあの写真を見たら誰でもそう思うよ。見てみて」
そう言うと光星はスマートフォンを操作して、画面を花純に見せた。
「ほら、これ。うちが運営してるサイトに投稿された写真で、『今日の1枚』にも選ばれたんだ。川と桜のコントラストが見事でしょ」
「えっ!」
花純はまじまじと画面を見つめる。
「これ、私が撮った写真です」
「ええ!?」
光星も驚いて、写真を見返した。
「ハンドルネーム『もか』さん?」
「そうです。名字と名前の頭文字を取って」
「ああ、なるほど。そうか、君だったのか。この写真、ほんとに美しいね。どこで撮ったの?」
「自宅マンションの近くです」
「へえ。そんな身近なところに桜の名所が?」
「ふふっ、はい。密かな私の自慢です。いい所に住んでるなって。この時期限定ですけどね」
それにしても「今日の1枚」にも選ばれたとは、と花純はなんだか嬉しくなった。
「選んでいただいて、ありがとうございます」
「いや、俺じゃなくて別の担当者が選んだんだ。けど、俺もこれは文句なしの1枚だ。投稿してくれてありがとう」
「こちらこそ。あ、それではそろそろ行きますね」
「ああ、引き留めてすまなかった」
「いいえ。お仕事がんばってください」
「ありがとう。君も」
花純は笑顔で光星と別れ、エレベーターに乗り込んだ。
◇
その日も順調に仕事をこなし、そろそろ定時の18時になろうとする頃、花純のデスクの電話が鳴った。
埼玉の熊谷支店の店長からの電話だった。
「店長、お疲れ様です。何かありましたか?」
「森川さん、ごめん! 実は発注ミスで、イタリア7日間旅行のパンフレットを切らしてしまって……。急いで近隣の店舗から分けてもらったんだけど、これからご来店予約のお客様にお渡しする分が足りなくて」
花純はすぐさま腕時計に目を落とす。
「お客様のご予約は何時ですか?」
「19時半なんだ」
「分かりました、すぐにお届けに上がります」
そう言って電話を切ると、部長に手短に事情を話し、パンフレットを紙袋に詰めて急いでオフィスを出た。
最寄り駅から電車に乗り、アプリで最短ルートを検索する。
なんとか19時半には間に合いそうだった。
ハラハラしながら電車に揺られ、19時20分に店舗に駆け込んだ。
「お疲れ様です! 間に合いましたか?」
「森川さん! ありがとう。お客様はまだです」
「良かった……」
肩で息をしながら、花純は店長にパンフレットを手渡す。
「助かったよ。本当にありがとう。夕べテレビのバラエティー番組で、イタリア旅行の特集があったらしく、一気にお問い合わせが増えてね。まあ、嬉しい悲鳴だけど」
「そうだったんですね。私ももっとそういった情報の流れに気をつけておきます。近隣の店舗も、同じようにパンフレット切らしてるんですか?」
「ああ。急いで発注かけたけど、届くまで持つかどうかって感じらしい」
「分かりました。私、これから少し他店舗も回ってきますね」
「悪いね、ありがとう」
各駅停車の電車に乗り、ひと駅ごとに降りていくつかの店舗を回る。
どこもやはりイタリアのパンフレットだけが足りない状況だった。
全て配り終えて会社に戻る頃には、23時を過ぎていた。
そのまま直帰でも構わなかったが、中途半端にやり残した作業があり、オフィスに立ち寄った。
案の定、オフィスにはもう誰もいない。
(明日はさすがに7時出社はやめようかな)
そう思いながら作業を終えてパソコンを閉じ、カバンを手に1階へ下りた。
(わっ、なんだか怖い)
エレベーターが開くと、シンと静まり返ったロビーに身がすくむ。
さっさと通り抜けようと足を踏み出した時、隣のエレベーターがポンと開いて思わずビクッとした。
(こんな時間にまだ誰かいたの? もう0時近いのに)
カバンを持つ手にギュッと力を込めて歩き出すと、「森川さん?」と声がした。
「え? あ、上条社長!」
「どうした? こんなに遅くに」
光星は心配そうに歩み寄る。
「あ、えっと、トラブルがあって外回りをしていたので……」
「だからって、女の子がこんなに夜遅くに一人でいるなんて。これから帰るの?」
「はい、そうです」
「車で送る。行こう」
そう言うとスーツのポケットから車のキーを取り出して歩き出す。
花純は仕方なく後ろをついて行った。
エントランスの大きな自動ドアではなく、その横の小さなドアをIDカードをかざして開けると、光星は「どうぞ」と花純を促す。
「ありがとうございます。ここって駐車場に繋がってるんですね」
「そう。あんまり広くないから、案外知られてないんだけどね」
「社長は運転もご自分でされるんですか?」
「ん? もちろん。どうして?」
「いえ、大企業の社長さんって、お抱えの運転手さんがいるイメージだったので。もしくは秘書さんが運転されるとか」
「そんなご立派な企業じゃないよ。それに俺の秘書、本職はパティシエなんだ」
ええ!?と花純は、驚いて仰け反る。
「臼井さん、パティシエだったんですか?」
「そう。君が気に入ってくれたあの焼き菓子も臼井が作ったんだ。取引先とかお客様に出すお菓子を毎日届けてもらってる。そのついでに秘書もやってくれって頼んだんだ。高校時代の同級生で、気心も知れてるからね。どうぞ、乗って」
「え、あ、はい」
情報過多で混乱しているうちに、光星は白い高級車のドアを開けて促した。
「失礼します」
「ドア閉めるよ」
「はい」
パタンとドアが閉まり、革張りのシートに座った花純はドキドキする。
(なんだか上条社長のお部屋にお邪魔したみたい。こういう感じが好みなんだ。いい香りがするなあ)
内装をぐるりと見渡していると、光星が運転席に乗り込んできて、花純は居住まいを正す。
「えっと、自宅マンションの住所を聞いてもいい?」
「はい」
エンジンをかけてカーナビをセットすると、光星はゆっくりと車を発進させた。
聴こえてきた洋楽の歌に、何の曲だろうと思っていると、気づいた光星が「あ、ごめん」とオーディオのディスプレイに手を伸ばす。
「知らない曲だよね。ラジオに変えようか?」
「いいえ、大丈夫です。素敵な曲だなと思っていたので」
「少し古い洋楽なんだ。君は若いから知らないだろうな」
「 私、そんなに若くないですよ。28です」
そうなの?と驚いてから、光星は「ごめん」と慌てて謝る。
「俺より10歳くらい下かと思ってたから、つい。失礼」
「社長より10歳下ってことは、ハタチとかですか?」
「いやいや、なんで? 俺、33だよ」
「そうなんですね。私と同い年くらいに見えるけど、社長さんだからさすがにもうちょっと上の30歳かなと思ってました」
「そうか。でも5歳違うんだね。流行りの曲に変えようか?」
「いえ、ほんとに大丈夫です。このまま聴かせてください」
そう言って花純は、英語のバラードに耳を澄ませた。
ダークな色合いの車内に流れる大人っぽい歌。
何だか自分まで大人の女性になれたような気がする。
会話もなく、ただ静かに歌に聴き入った。
密室に二人きりなのに、この空間の今の雰囲気が心地良い。
やがて花純のマンションが近づいて来ると、光星が控えめに切り出した。
「夜遅いのにごめん。良かったら、君が写真を撮ったあの桜を見せてもらえない?」
「え? あ、はい。じゃあ、次の信号を右に曲がってください。しばらく直進すると川沿いに出ますから」
「分かった」
カチカチと小気味良いウインカーの音と共に、ゆっくりと車が右折する。
そのまま真っ直ぐ走ると、前方に桜の木が見えてきた。
「これは……、見事だな」
圧倒されたように光星が呟く。
「本当に。夜の桜はまた趣がありますね」
「車を停めて少し歩いてもいい?」
「ええ、もちろん」
二人で肩を並べ、他には誰もいない川沿いを歩く。
「あの写真は、あそこの橋の上から撮りました」
「へえ、行ってみよう」
小さな橋の真ん中に立ち、川を見下ろした。
「なんて綺麗なんだろう。言葉を失くすよ」
「ええ、本当に」
川の両側からせり出した桜の枝から、たくさんの花びらが川面に舞い落ち、川をピンク一色に染めている。
「こぼれ桜の、花の浮き橋ですね」
「ああ。その川を照らす花あかりも美しい」
言葉もなく、二人静かに魅入る。
日常の世界から離れ、時間も場所も忘れる感覚。
時が止まったような、どこかにタイムスリップしたような気分になった。
「こうしていると、何千年も昔の人と心が通い合う気がするよ」
「本当ですね。時代が違っても、この美しさに心奪われる気持ちは一緒」
「昔の人が残した桜の言葉は、今も受け継がれている。花霞、桜吹雪、桜影……」
「ふふふ。花衣や、あなたのような桜人さくらびととか?」
「それは君もだよ、花純」
え……、と花純は光星を見上げる。
「純粋な花。君の名刺を見た時に、なんて素敵な名前だろうと思った」
そう言って花純を振り向き、優しく微笑む。
花純は頬を赤らめてうつむいた。
「それは、上条社長だってそうです。光る星、素敵ですね」
「そんなふうに褒められたのは初めてだ」
「そうなんですか? とても綺麗なお名前なのに」
「今までは名乗るのがどこか気恥ずかしかった。だけど君の名前とお揃いみたいで、今は嬉しい」
二人で顔を見合わせてから、また桜を愛でる。
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