名もない香りに包まれて。

羽月☆

文字の大きさ
上 下
2 / 6

2 ギュッと蓋をした小瓶に閉じ込めたのは重なった初めての時間。

しおりを挟む
「ほうか、久しぶりだろ?楽しんでる?」

ほうか?そんな名前だった?全然普通じゃない。
どんな漢字だった?
今名刺見たらダメよね。

「ああ。」

「松下さん、こいつちゃんと話出来てた?本当にモグラ並みに外に出ない仕事馬鹿で、そんな奴だけどよろしく。」

私の名前は憶えられてたらしい。
記憶力のいい友達さん。で、誰?

「あ、坂下正太郎です。25歳です。ほうかとは今同じ会社なんだ。」

会社の名前も見たのに、思い出せない、ああ、やっぱり酔ってるんだと思う。
普通だったらもっと色々覚えてられるから。

「そうなんですか。たしか調香師さんということでしたよね。そのような職業の方とは初めてお会いしました。仕事柄、人や物の香りも気になるんでしょうね。」

正面の人に向けて言ってみたら『ほうか』さんが悲しい顔をした。
それを目にした途端、自分がとても嫌な女みたいに、反省をすべきみたいに思えた。
まあ、そう?
でもお互い様だよね?
なんて思ってる時点で本当に嫌な女だろう。
美容師が髪型を気にするように、エステの人がスタイルや肌を気にするように、専門の人がその分野を特に注目するのは当たり前かもしれない。

「さっきのサンプルの方が絶対似合ってるから、本当につけて欲しい。」

あっさりと友達の前でも言ってしまう人。

「何?サンプルって、香りのサンプルあげたの?マジ?・・・・やるな・・・・。」

最後が小声だった。
坂下さんがビックリしてるから『いつもの手』ではないのだろうか。

「こう見えてほうかは結構優秀なんですよ。だからあげたその香りもきっと似合うんじゃないですか?」

坂下さんを見て、ほうかさんを見てお礼を言った。
礼儀です、確かさっきは言えてない。

「ありがとうございます。使わせていただきます。」

そう言ったら思ったより自分の表情が緩んで、恥ずかしくなったのでポケットに視線を動かした。
そこにある4番。

「いつもいくつくらいサンプルを作られるんですか?」

「5種類は作ります。それは第二段です。一度目にはもっとメインの精油を違えて5種類作って、その中で選ばれたものを、ちょっとづつ細かく変化をつけて5種類くらい作ってみます。」

「食事の匂いとかにも敏感だったりするんですか?」

「いえ、それは全然です。」

「おかしいほどに全然だよ。味覚はまた別みたいだし、紅茶とコーヒーを混ぜても気がつかないくらいだと思う。」

「さすがに気がつく。」

「別に構わないだろう。」

「構うよ。何だと思ってるんだ。」

「仕事以外は無頓着って思ってる。」

そう言われたら黙った。そうらしい。
確かにスーツのサイズもどうかと、気になってしまうくらいに・・・・そうだ。

「どうせサンプルは結構な量作ってて、最後には余るじゃん。今回は松下さんにプレゼントすれば?お前が似合うって言うんだったら、似合うだろうし。」

「あ、これ僕の名刺です。」

そう言われて坂下さんの名刺を渡された。
『坂下 正太郎』さん。うん、よし、インプットしてる。
でもさっきの名刺とちょっと雰囲気が違う気がする。

ポケットから取り出して見比べる。
同じ会社と言ってたのに、名刺が違う。そんなものなの?

「あ、ほうか、ちゃんとプレイベートの名刺渡してるんだな。」

坂下さんが私の視線をたどり、やはりそう思ったらしい。
プライベート・・・・・。
必要なの?

「ほうかの仕事はプロとして特別に会社と契約するんだよ。今は僕と同じ会社に偶然いるけど、他の会社とも契約してるから。一応僕とお揃いの名刺もあるはずだけどね。」

「ああ、そうなんですね。」
 
『川瀬ほうか』全然普通の名前じゃなかった。
インプット。

「名前が平仮名って男性では珍しいですか?」

「そうだよね、僕も他に知らない。時々カタカナならいたけどね。」

なんでも代わりに坂下さんが答えてるから、当人は無言のままだ。
よく目は合ってるのに口が開く前にセリフをとられてる状態。
出遅れてるのを見て、頑張れ!なんてちょっと思ったりして。

「ほら、ほうか、ちゃんと喋らないと。」

そう言われても川瀬さんも不本意な表情しか返せないだろうけど。

「じゃあ、ということで。僕も自分のことに専念します。」

そう言っていなくなった。
席を離れる時に肩に手を置かれた川瀬さん。

それを友情というのだろう。

残された二人は、しばし無言で。

「名前、珍しいですね。覚えやすいような、覚えにくいような・・・・。」

「名字の最後が『ア』で終わらなくて本当に良かったと思う。」

久しぶりに声を聞いた。
・・・『あ』ほうか。アホか???
ああ・・・なるほど・・・・確かに。
それは誰かに言われたんだろうか?
気がついたときに本当に良かったと思ったんじゃないだろうか?
そんな表情を勝手に想像したりして。

「良かったですね。男の人は多分ずっと変わらないから。」


「ねえ、さっきのサンプル、少し香りだけでも試してもらえないかな?」

そう言われた。
ポケットから4番のボトルを出す。

「蓋を開けて、そのまま蓋を鼻の少し先の方で丸く円を描くように試してみてくれる?」

動きをつけて教えてもらえて、その通りにやってみた。
朝につけたいような爽やかな香りで、今つけてるもののような甘さはほとんどない。
これを直線的な香りって言うんだろうか?

「どうかな?体につけると体温と反応するし、つけた人の元の香りとも少しは反応するから実際はちょっとイメージが変わるかもしれないけど。」

「すごく爽やかです。透明感のある香りですね。」

「気に入ってもらえるかな?」

「はい。」

「あ、ぎゅっと閉めてね、香りが飛んじゃうから。」そう小さく言われた。

バッグの小さなポケットに入れた。ファスナーがついてるから落とすことはない。
多分帰ったら今までの香りの瓶の横に並べるんだと思う。

「つけてもらえると嬉しい。サンプルとは言っても、それなりのイメージで自分なりに工夫して作ってるんだ。商品化しなくても自分で気に入ってる香りは自分でも使うし、体にはつけないけど。」

「大切に使います。」

そんなに大切に思ってるって言われたら、私も大切にしようと思うし。
今まで使っていたものじゃなくて、こっちに変えるのも何とも思わないかもしれない。

そう、拘ったのは、もう忘れたと、関係ないと思いたい自分の心をきちんと見せたかったから。自分にも、相手にも、周りにも。
でもその香りが私の周りから完全に消えるまでは時間がかかると思う。
それが消えないうちに、さっきの4番をつけても変に混ざり合いそう。
そう簡単には消えないから。
だから、なかなか使い始めることもないのかもしれない。
時々手に取りながら、眺めるだけの日が続くのかもしれない。


「複数の会社と契約することもあるんですか?」

「そうだね。それ以外にイベントとかもあるんだ。地味だけど面白い仕事があるんだよ。」

少し楽しそうな表情になってそう言う。
仕事は本当にプライドを持っていて、きっと楽しいんだろう、好きなんだろう。

「もともとのきっけはね、小さいころ母親の化粧品に興味を持ってね、蓋を開けて匂いを嗅いでたりしてたんだ。ある日そんなところを見つかってね、怒られると思ったら母親も固まってたんだよね。瞬間にいろいろと変な疑惑を思いついたみたいで、しばらくは家族会議で様子を見ようと言うことになったんだと思うんだ。」

「ああ・・・・それは・・・・確かに。調味料とか、シャンプーとかの匂いは別に興味なかったんですか?」

「お風呂の物は興味深くても実際に自分の体についてる間に堪能できるから、それくらいで満足してたし。化粧品はそうはいかないからね。一つ一つをゆっくり味わってたんだ。」

「どうやって誤解が解けたんですか?」

「よくある小学生の作文でね、いろんな香りに興味があるって、仕事にもしたいって書いたんだ。担任の先生が女の先生で真面目に相談にも乗ってくれたんだ。その時は調香師なんて仕事は知らなかったけど、香りを作ったりする仕事なら理系の知識が必要なことを教えてくれたんだ。作文と一緒にそのことを母親と父親と兄に教えたんだけど、本当にまた食卓が静かになったからね。」

「お兄さんはいくつ年上なんですか?」

「5個上なんだ。母親にそれとなく相談されて、違うとは言ってくれたらしいけど兄も中学生だったしね。兄も兄なりにずっと観察してたんだと思うよ。やたらとアイドルの写真とか見せられて誰が好きかとか、どの服が好きかとか、聞かれてた気がするんだ。」

「ずいぶん経ったある夜に兄が疑惑を教えてくれたんだ。もうびっくりだよね。女装趣味とか、ゲイ疑惑とか、性同一性障害とか、いろいろね。」

個人の問題としてもやはり家族も戸惑う問題なんだろう。
体験もないのでよくわからないけど、確かに早いうちに目覚める子もいるし。

「同じ職業の方は女性が多いんですか?」

「理系の化学系研究職だと男性が多いけど、アロマセラピストの方からだと女性が圧倒的だからね。表に出てくるのは女性が多いかもね。」

「なんとなく綺麗な人が多そうな世界ですね。」

「そうだね・・・そうかな?」

そう言って目が合った。

「なんとなくです。私は他の方を知らないのでなんとなくです。」

「僕もあんまり知らない。会社にいるのはやっぱり男性が多いからね。」

「香水以外にも、関わったりもするんですよね。」

「もちろん。化粧品とかバスルームから台所から、あとは食品もあるし。虫除けとかペット関係まで。いろいろやったよ。」

「今日持っていたサンプルが虫除けじゃなくて良かったです。香水だとグンとおしゃれなプレゼントです。」

「さすがに虫除けだったらあげないよ。だから僕もラッキーだった。」

すっかり雰囲気が馴染んでる気もする。
仕事のことや家族のエピソードを語る笑顔は柔らかい。

「私じゃなかったら、誰にあげてたんですか?」

そう言ったら途端に不機嫌な顔になった。

「たまたま約束がキャンセルになったって言ったのにそう言うの?別に誰かにあげるつもりはなかったよ。サンプルとは言っても企業依頼の商品だよ。一応秘密情報だし。それにもし、涼さんがまとってる香りが似合ってると思ったら、あげなかったと思うよ。絶対そのサンプルの方が似合うって僕がそう思ったんだから、試してみて欲しかったんだし。」

眉間のしわが分かりやすい感情の表れだった。

「はい。ありがとうございます。」

「信じてる?」

「はい。」

まあ、信じるかも。

「ねえ、名刺をもらえないかな?」

そう言われて差し出した。
特に驚く情報なんて何もない名刺だ。
さっきサラリと名前も呼ばれたし。

「残念、一緒に仕事をすることなんてちらりともない会社なんだね。」

確かにまったくかかわりはないだろう。
事務機器メーカーに香りのサンプルが必要な事態は起こらない。
消しゴムとかペンとか、昔一時期そんなものがあった気もするけど。

「イメージ通りの名前だね。」

「そう言われます。」

「ほうかさんは?どう言われますか?」

「珍しすぎて、誰もイメージがないんだよね。だから特には言われない。川瀬の方で呼ばれることが意外に少ないんだ。一度覚えてもらえたら、そっちで呼ばれるんだよね。」

「お兄さんも珍しい名前ですか?」

「そうなんだ。父と母の名前からとってるんだけど、『にか』っていうんだ。平仮名だよ。」

「見た目が外人っぽかったら国籍不明の名前ですね。」

「そこは同じ顔だから、バリバリの日本人です。」

「どちらも女性でも使えますね。」

「そうだね、母親の『実花』の『みか』からとってるからね。女の子が生まれてもそのままだったかも。もしそれで本当に疑惑が疑惑じゃなくて、ちょっと違う方向の性に目覚めてたら、母親も父親も名前から後悔したかも。」

仲のいい家族について話をする。
やはり正直らしい、似合わないとはっきり言う正直さはきっと香りのプロとしてのプライドや自信や何か。失礼なんて思ったけど、そうも思えてくる。

「涼さんは?どんな子供時代?家族?」

「私は普通ですよ。特ににぎやかでもない、放任でもない、普通の距離の家族で、あんまり披露できるエピソードが思いつかないです。」

「兄弟姉妹は?」

「一人です。そこは兄姉が欲しかったです。友達の話が羨ましくて。家族三人って意外に静かなんです。父親も仕事が遅くて、母と二人でいる時間は長かったし、週末三人いても同じ話を父親に向かって披露することもなくて。」

「そうなのかな?家は兄がムードメーカーだったから。兄がいないと確かに静かなんだよね。大学で一人暮らししていなくなった日なんてビックリしたくらい。丁度塾に行き始めたり僕もいない時間が増えてたから本当にバラバラになった感じが強かったかもね。」

「無口は今更想像できませんが。」

「それはちょっとお酒も飲んだし、いつも一人作業が多いから本当は言葉を出したいんだけど、本当に仲いい奴じゃないと気を遣うんだよ。その点会社勤めじゃないと一期一会だよね。」


「あ、だから今は特別に楽しい。友達になるにもまず知ってもらいたいし、それ以外でも、まずは知り合いたいから。」

時々静かな表情を見せてくれる。
それにちょっとだけビックリする。
しおりを挟む

処理中です...