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第一章 目覚め
転生の瞬間
部屋は薄暗く、蝋燭の灯りだけが壁に揺れる影を落としていた。
広い寝室だった。天蓋付きのベッドが部屋の中央に据えられ、深紅のカーテンが半ば開かれている。シーツは乱れ、枕元には革の拘束具が無造作に置かれていた。調度品は上等なものばかりで、壁にかかった油絵も暖炉の装飾も品があったが、部屋の空気にはそぐわない匂いが混じっている。汗と、微かな甘さと、革の匂い。
ベッドの上で、少年が四つん這いになっていた。
薄い寝衣が肩からずり落ち、白い背中が蝋燭の光に照らされている。背中から腰にかけて、赤い線が何本も交差していた。古いものは薄紫に変色し、新しいものは鮮やかに浮き上がっている。柔らかな亜麻色の髪が汗で額に張り付き、大きな瞳は涙で潤んでいた。唇を噛み、声を堪えようとしているが、鞭が落ちるたびに喉の奥から微かな嗚咽が漏れる。
少年の名はレオン。
華奢な身体はシーツの上で震えていて、掴んだ枕の布が指の間で皺になっていた。怯えている——ように見えた。涙がシーツに染みを作り、頬は上気して赤く、噛みしめた唇の端から唾液が糸を引いている。
だが、それだけではなかった。
寝衣の裾から覗くレオンの下半身は、背中に走る痛みとは無関係に、はっきりと反応していた。薄い布地を内側から押し上げるように熱が膨れ、先端から滲み出したものが布を濡らしている。透明な糸がシーツに垂れ、蝋燭の光を受けてかすかに光っていた。シーツには幾つもの染みが広がり、少年の身体が長い間この状態にあったことを示していた。
鞭を握る手は、美しかった。
長い指、整った爪、白い肌に浮き上がる筋と血管。その手の持ち主は寝台の脇に立つ長身の男で、銀灰の髪が蝋燭の光を冷たく反射している。切れ長の瞳は感情を映さず、薄い唇は真一文字に引き結ばれていた。冷徹という言葉がそのまま人の形を取ったような容貌であり、薄暗い寝室の中で、男の存在だけが異質な冷気を纏っている。
エリオット。公爵家当主にして、王家に次ぐ名門貴族の長。
上質な白いシャツの袖を肘まで捲り上げ、鞭を片手に立つ姿には、これが日常の行為であるという慣れが滲んでいた。
鞭が振り下ろされた。
レオンの身体が跳ね、シーツを掴む指が白くなる。押し殺した声が漏れ、背中に新しい赤い線が一本加わった。
エリオットの視線が、レオンの身体を上から下へと移動した。震える背中、汗に濡れた項、そして——濡れたシーツの染みに、目が止まる。
「痛いはずだろう」
低い声が部屋に落ちた。感情のない、事実を確認するだけの声だった。
「なのに涎を垂らして、シーツまで濡らしている」
鞭の先端でレオンの寝衣の裾を持ち上げた。布の下から露わになったものが、蝋燭の灯りに照らされる。先端から糸を引く透明な液体が、鞭の革に触れて光った。
「始末の悪い身体だ——」
言葉が途切れた。
――頭が、割れる。
そう感じるほどの激痛が、こめかみから頭頂部を貫いて走った。
エリオットの動きが止まる。鞭を握った腕が力を失い、指の間から革の柄が滑り落ちた。床を打つ乾いた音が、やけに大きく響く。視界が歪み、寝室の壁が溶けるように揺らぎ、蝋燭の炎が二重にも三重にも見えた。
頭の中に、映像が流れ込んでくる。
蛍光灯。灰色のデスク。積み上がった書類の山。コーヒーの染みがついた安物のマグカップ。深夜のオフィスの、あの独特の淀んだ空気——知っている。知っている匂いだった。コンビニ弁当と缶コーヒーと、誰かが置き忘れた弁当の残り香が混じった、覚えのある不快な匂い。
場面が変わった。居酒屋の赤い提灯。向かい合う女性の笑顔。綺麗な人だった。よく笑い、よく食べ、こちらの話を楽しそうに聞いてくれた。好きだった。彼女の前にいると、六十時間続いた残業の疲れも忘れられた。
また場面が変わる。オフィスの給湯室。扉越しに聞こえてくる声。彼女の声だった。
——あんな不細工な男と付き合うわけないじゃん。無理無理。ただ飯食べさせてくれるから利用してるだけ。
笑い声。複数の笑い声が重なり、胸の奥に杭を打ち込むように響いた。
デスクに戻り、椅子に座る。左胸が、握り潰されるように痛んだ。視界が暗くなり、同僚の声が遠ざかり、蛍光灯の白い光が細い線になって——消えた。
意識が、戻ってきた。
蛍光灯はなかった。あるのは蝋燭の揺れる炎と、天蓋付きのベッドと、汗と甘さと革が混じった匂いだった。
膝に力が入らなかった。壁に手をつき、身体を支える。指先が冷たく、心臓だけが異常な速さで脈打っている。
右手に、何かを握っていた痕跡が残っていた。掌に革の柄の跡が赤く刻まれ、指の関節が痛い。視線を落とすと、足元に鞭が転がっていた。
(何だ……何が起きた)
頭の中で声がした。自分の声だった。だがこの低く掠れた声は、自分のものではない。少なくとも、三十二年間聞き慣れた自分の声ではなかった。
(ここはどこだ。俺は——誰だ)
記憶が混濁している。二つの人生が頭の中でぶつかり合い、濁流のように渦を巻いていた。コンビニ弁当の味を知っている舌が、今は上等な紅茶の残り香を感じている。
ベッドの上のレオンが、身を起こしてエリオットを見つめていた。涙の膜を通した大きな瞳に、困惑の色が浮かんでいる。主人が突然動きを止め、鞭を落とし、壁にもたれかかって動かない。異常な事態に怯えるように、レオンの唇が微かに震えていた。
「すまない」
上着を脱ぐと、レオンの肩にそっとかけた。
「エリオット……様?」
その声を背中に受けながら、エリオットは部屋を出た。
足取りは確かだった。この身体は感情に関係なく、完璧な姿勢と歩行を維持する訓練が染みついているようで、頭の中が嵐でも背筋は伸び、足音は一定の間隔を刻んでいた。
廊下に出る。石壁に等間隔で設えられた燭台が、長い廊下を橙色に照らしている。使用人とすれ違ったが、相手は壁に張り付くようにして道を空け、目を伏せた。恐怖していた。この身体の持ち主が、日頃どういう存在であるかを物語る反応だった。
廊下の突き当たりに、大きな姿見があった。
金の縁取りが施された、人の背丈ほどある鏡。通り過ぎようとして——足が止まった。
鏡の中に、男がいた。
銀灰の髪が額にかかり、切れ長の瞳が冷ややかな光を湛えている。高い鼻梁、薄い唇、顎の線は刃物のように鋭い。人間というよりも彫刻に近い完成度の顔立ちが、感情の一切を排した表情でこちらを見返していた。恐ろしいほど美しい男だった。
(……誰だ、このイケメン)
鏡に手を伸ばした。指先がガラスの冷たい表面に触れ、向こう側の男も同じように手を伸ばしている。
(これは、鏡だよな)
右手を上げた。鏡の中の男も右手を上げた。口を開けた。鏡の中の男も口を開けた。頬に触れた。指先の下に、滑らかな肌の感触がある。骨格の輪郭が掌に伝わってくる。自分の知っている顔ではなかった。三十二年間、毎朝洗面台で見ていた丸い輪郭も、一重の細い目も、どこにもない。
(これが……俺の顔?)
心臓が跳ねた。
指先が頬から顎へ移動し、鋭い線をなぞる。鼻梁に触れ、眉の形を確かめる。すべてが知らない骨格だった。だが同時に、この身体は当然のようにこの顔の筋肉を動かす方法を知っていて、眉を寄せれば眉が寄り、唇を引けば唇が引かれた。
——見覚えがある。
指が止まった。心臓が、もう一度強く脈打つ。
この顔を、知っている。この銀灰の髪を、この切れ長の瞳を、この冷たい美貌を。どこかで見た。何度も見た。画面の向こう側で。スマートフォンの小さな画面で。深夜のベッドの中で、イヤホンをして、声を聞いていた。
(待て——)
記憶の底から、何かが浮上してくる。ピクセルで描かれた銀灰の髪。立ち絵の冷ややかな微笑。選択肢を間違えるたびに流れる処刑エンドの暗転画面。
(待て待て待て——)
BLゲームだった。
前世で唯一の趣味だった。仕事で磨り減った心を癒すために、深夜にこっそりプレイしていたオメガバースBLゲーム。推しは王太子カイルで、全ルートを制覇し、隠しエンドも回収し、課金額は考えたくもなかった。
そのゲームに出てくる悪役がいた。
オメガを監禁し、虐げ、王太子に断罪されて処刑される冷血公爵。名前はエリオット。容姿は——銀灰の髪に、切れ長の瞳に、冷たい美貌。
鏡の中の男が、こちらを見ている。
エリオットが、こちらを見ている。
(嘘だろ)
鏡に映る顔は、微動だにしなかった。内側で爆発している動揺を、一ミリも表面に通さない。完璧な無表情。冷血公爵の顔。
(嘘だろ——俺が、処刑される悪役かよ)
膝から力が抜けそうになった。だがこの身体は崩れ落ちることを許さず、背筋は真っ直ぐなまま、足音一つ乱さなかった。頭の中だけが、嵐の中に放り込まれた小舟のように揺れている。
廊下の奥から、小さな足音が聞こえてきた。
振り返ると、レオンが寝室から出てきていた。エリオットの上着を肩に羽織り、裸足のまま廊下に立っている。鞭の痕が残る身体を上着で隠し、涙の跡が残る頬でエリオットを見つめていた。
「エリオット様……どこに行かれるのですか」
怯えた声。捨てられることを恐れる子犬のような瞳だ。
エリオットは、その大きな瞳を見つめ返した。上着の襟を握りしめるレオンの指に、目が止まる。白くなるほど強く、布を掴んでいた。あの瞬間——上着を掛けた時と同じ、取り上げられまいとする力の込め方だった。
(この子が、レオンか)
ゲームの主人公である少年が、今、目の前に立っている。生身の身体で、涙を流して、指で上着を握りしめている。
(ゲームでは、エリオットが処刑された後に王太子に保護されるキャラだった。虐げられ続けた末に、やっと自由になる——いや、今それを考えるな。まず状況を整理しろ)
「……部屋に戻れ」
口から出た言葉は、思った以上に冷たかった。この声帯は優しい声の出し方を知らないようだった。
「傷に障る。明日、薬師を呼ぶ」
レオンの瞳が見開かれた。困惑と、何か別の感情が混じった光が揺れる。薬師を呼ぶ——その言葉が信じられないというように、小さく唇が震えた。
「おやすみなさいませ……エリオット様」
掠れた声でそう言い、レオンはゆっくりと寝室に戻っていった。裸足の足音が石の廊下に小さく響き、やがて扉が閉まる音がした。
一人になった廊下で、エリオットは鏡に映る自分の顔をもう一度見つめた。
冷血公爵の顔は、変わらず完璧に無表情だった。
(整理しよう。俺は死んだ。心臓が止まって死んだ。そしてBLゲームの悪役に転生した。このまま何もしなければ、王太子の運命の番を虐げた罪で処刑される。つまり——)
鏡の中の男の唇が、微かに動いた。
(——俺は、何か対策を講じないと……死ぬ)
冷血公爵エリオットの美貌の裏側で、三十二歳の元サラリーマンの脳が、かつてないほどの速度で回転し始めていた。
広い寝室だった。天蓋付きのベッドが部屋の中央に据えられ、深紅のカーテンが半ば開かれている。シーツは乱れ、枕元には革の拘束具が無造作に置かれていた。調度品は上等なものばかりで、壁にかかった油絵も暖炉の装飾も品があったが、部屋の空気にはそぐわない匂いが混じっている。汗と、微かな甘さと、革の匂い。
ベッドの上で、少年が四つん這いになっていた。
薄い寝衣が肩からずり落ち、白い背中が蝋燭の光に照らされている。背中から腰にかけて、赤い線が何本も交差していた。古いものは薄紫に変色し、新しいものは鮮やかに浮き上がっている。柔らかな亜麻色の髪が汗で額に張り付き、大きな瞳は涙で潤んでいた。唇を噛み、声を堪えようとしているが、鞭が落ちるたびに喉の奥から微かな嗚咽が漏れる。
少年の名はレオン。
華奢な身体はシーツの上で震えていて、掴んだ枕の布が指の間で皺になっていた。怯えている——ように見えた。涙がシーツに染みを作り、頬は上気して赤く、噛みしめた唇の端から唾液が糸を引いている。
だが、それだけではなかった。
寝衣の裾から覗くレオンの下半身は、背中に走る痛みとは無関係に、はっきりと反応していた。薄い布地を内側から押し上げるように熱が膨れ、先端から滲み出したものが布を濡らしている。透明な糸がシーツに垂れ、蝋燭の光を受けてかすかに光っていた。シーツには幾つもの染みが広がり、少年の身体が長い間この状態にあったことを示していた。
鞭を握る手は、美しかった。
長い指、整った爪、白い肌に浮き上がる筋と血管。その手の持ち主は寝台の脇に立つ長身の男で、銀灰の髪が蝋燭の光を冷たく反射している。切れ長の瞳は感情を映さず、薄い唇は真一文字に引き結ばれていた。冷徹という言葉がそのまま人の形を取ったような容貌であり、薄暗い寝室の中で、男の存在だけが異質な冷気を纏っている。
エリオット。公爵家当主にして、王家に次ぐ名門貴族の長。
上質な白いシャツの袖を肘まで捲り上げ、鞭を片手に立つ姿には、これが日常の行為であるという慣れが滲んでいた。
鞭が振り下ろされた。
レオンの身体が跳ね、シーツを掴む指が白くなる。押し殺した声が漏れ、背中に新しい赤い線が一本加わった。
エリオットの視線が、レオンの身体を上から下へと移動した。震える背中、汗に濡れた項、そして——濡れたシーツの染みに、目が止まる。
「痛いはずだろう」
低い声が部屋に落ちた。感情のない、事実を確認するだけの声だった。
「なのに涎を垂らして、シーツまで濡らしている」
鞭の先端でレオンの寝衣の裾を持ち上げた。布の下から露わになったものが、蝋燭の灯りに照らされる。先端から糸を引く透明な液体が、鞭の革に触れて光った。
「始末の悪い身体だ——」
言葉が途切れた。
――頭が、割れる。
そう感じるほどの激痛が、こめかみから頭頂部を貫いて走った。
エリオットの動きが止まる。鞭を握った腕が力を失い、指の間から革の柄が滑り落ちた。床を打つ乾いた音が、やけに大きく響く。視界が歪み、寝室の壁が溶けるように揺らぎ、蝋燭の炎が二重にも三重にも見えた。
頭の中に、映像が流れ込んでくる。
蛍光灯。灰色のデスク。積み上がった書類の山。コーヒーの染みがついた安物のマグカップ。深夜のオフィスの、あの独特の淀んだ空気——知っている。知っている匂いだった。コンビニ弁当と缶コーヒーと、誰かが置き忘れた弁当の残り香が混じった、覚えのある不快な匂い。
場面が変わった。居酒屋の赤い提灯。向かい合う女性の笑顔。綺麗な人だった。よく笑い、よく食べ、こちらの話を楽しそうに聞いてくれた。好きだった。彼女の前にいると、六十時間続いた残業の疲れも忘れられた。
また場面が変わる。オフィスの給湯室。扉越しに聞こえてくる声。彼女の声だった。
——あんな不細工な男と付き合うわけないじゃん。無理無理。ただ飯食べさせてくれるから利用してるだけ。
笑い声。複数の笑い声が重なり、胸の奥に杭を打ち込むように響いた。
デスクに戻り、椅子に座る。左胸が、握り潰されるように痛んだ。視界が暗くなり、同僚の声が遠ざかり、蛍光灯の白い光が細い線になって——消えた。
意識が、戻ってきた。
蛍光灯はなかった。あるのは蝋燭の揺れる炎と、天蓋付きのベッドと、汗と甘さと革が混じった匂いだった。
膝に力が入らなかった。壁に手をつき、身体を支える。指先が冷たく、心臓だけが異常な速さで脈打っている。
右手に、何かを握っていた痕跡が残っていた。掌に革の柄の跡が赤く刻まれ、指の関節が痛い。視線を落とすと、足元に鞭が転がっていた。
(何だ……何が起きた)
頭の中で声がした。自分の声だった。だがこの低く掠れた声は、自分のものではない。少なくとも、三十二年間聞き慣れた自分の声ではなかった。
(ここはどこだ。俺は——誰だ)
記憶が混濁している。二つの人生が頭の中でぶつかり合い、濁流のように渦を巻いていた。コンビニ弁当の味を知っている舌が、今は上等な紅茶の残り香を感じている。
ベッドの上のレオンが、身を起こしてエリオットを見つめていた。涙の膜を通した大きな瞳に、困惑の色が浮かんでいる。主人が突然動きを止め、鞭を落とし、壁にもたれかかって動かない。異常な事態に怯えるように、レオンの唇が微かに震えていた。
「すまない」
上着を脱ぐと、レオンの肩にそっとかけた。
「エリオット……様?」
その声を背中に受けながら、エリオットは部屋を出た。
足取りは確かだった。この身体は感情に関係なく、完璧な姿勢と歩行を維持する訓練が染みついているようで、頭の中が嵐でも背筋は伸び、足音は一定の間隔を刻んでいた。
廊下に出る。石壁に等間隔で設えられた燭台が、長い廊下を橙色に照らしている。使用人とすれ違ったが、相手は壁に張り付くようにして道を空け、目を伏せた。恐怖していた。この身体の持ち主が、日頃どういう存在であるかを物語る反応だった。
廊下の突き当たりに、大きな姿見があった。
金の縁取りが施された、人の背丈ほどある鏡。通り過ぎようとして——足が止まった。
鏡の中に、男がいた。
銀灰の髪が額にかかり、切れ長の瞳が冷ややかな光を湛えている。高い鼻梁、薄い唇、顎の線は刃物のように鋭い。人間というよりも彫刻に近い完成度の顔立ちが、感情の一切を排した表情でこちらを見返していた。恐ろしいほど美しい男だった。
(……誰だ、このイケメン)
鏡に手を伸ばした。指先がガラスの冷たい表面に触れ、向こう側の男も同じように手を伸ばしている。
(これは、鏡だよな)
右手を上げた。鏡の中の男も右手を上げた。口を開けた。鏡の中の男も口を開けた。頬に触れた。指先の下に、滑らかな肌の感触がある。骨格の輪郭が掌に伝わってくる。自分の知っている顔ではなかった。三十二年間、毎朝洗面台で見ていた丸い輪郭も、一重の細い目も、どこにもない。
(これが……俺の顔?)
心臓が跳ねた。
指先が頬から顎へ移動し、鋭い線をなぞる。鼻梁に触れ、眉の形を確かめる。すべてが知らない骨格だった。だが同時に、この身体は当然のようにこの顔の筋肉を動かす方法を知っていて、眉を寄せれば眉が寄り、唇を引けば唇が引かれた。
——見覚えがある。
指が止まった。心臓が、もう一度強く脈打つ。
この顔を、知っている。この銀灰の髪を、この切れ長の瞳を、この冷たい美貌を。どこかで見た。何度も見た。画面の向こう側で。スマートフォンの小さな画面で。深夜のベッドの中で、イヤホンをして、声を聞いていた。
(待て——)
記憶の底から、何かが浮上してくる。ピクセルで描かれた銀灰の髪。立ち絵の冷ややかな微笑。選択肢を間違えるたびに流れる処刑エンドの暗転画面。
(待て待て待て——)
BLゲームだった。
前世で唯一の趣味だった。仕事で磨り減った心を癒すために、深夜にこっそりプレイしていたオメガバースBLゲーム。推しは王太子カイルで、全ルートを制覇し、隠しエンドも回収し、課金額は考えたくもなかった。
そのゲームに出てくる悪役がいた。
オメガを監禁し、虐げ、王太子に断罪されて処刑される冷血公爵。名前はエリオット。容姿は——銀灰の髪に、切れ長の瞳に、冷たい美貌。
鏡の中の男が、こちらを見ている。
エリオットが、こちらを見ている。
(嘘だろ)
鏡に映る顔は、微動だにしなかった。内側で爆発している動揺を、一ミリも表面に通さない。完璧な無表情。冷血公爵の顔。
(嘘だろ——俺が、処刑される悪役かよ)
膝から力が抜けそうになった。だがこの身体は崩れ落ちることを許さず、背筋は真っ直ぐなまま、足音一つ乱さなかった。頭の中だけが、嵐の中に放り込まれた小舟のように揺れている。
廊下の奥から、小さな足音が聞こえてきた。
振り返ると、レオンが寝室から出てきていた。エリオットの上着を肩に羽織り、裸足のまま廊下に立っている。鞭の痕が残る身体を上着で隠し、涙の跡が残る頬でエリオットを見つめていた。
「エリオット様……どこに行かれるのですか」
怯えた声。捨てられることを恐れる子犬のような瞳だ。
エリオットは、その大きな瞳を見つめ返した。上着の襟を握りしめるレオンの指に、目が止まる。白くなるほど強く、布を掴んでいた。あの瞬間——上着を掛けた時と同じ、取り上げられまいとする力の込め方だった。
(この子が、レオンか)
ゲームの主人公である少年が、今、目の前に立っている。生身の身体で、涙を流して、指で上着を握りしめている。
(ゲームでは、エリオットが処刑された後に王太子に保護されるキャラだった。虐げられ続けた末に、やっと自由になる——いや、今それを考えるな。まず状況を整理しろ)
「……部屋に戻れ」
口から出た言葉は、思った以上に冷たかった。この声帯は優しい声の出し方を知らないようだった。
「傷に障る。明日、薬師を呼ぶ」
レオンの瞳が見開かれた。困惑と、何か別の感情が混じった光が揺れる。薬師を呼ぶ——その言葉が信じられないというように、小さく唇が震えた。
「おやすみなさいませ……エリオット様」
掠れた声でそう言い、レオンはゆっくりと寝室に戻っていった。裸足の足音が石の廊下に小さく響き、やがて扉が閉まる音がした。
一人になった廊下で、エリオットは鏡に映る自分の顔をもう一度見つめた。
冷血公爵の顔は、変わらず完璧に無表情だった。
(整理しよう。俺は死んだ。心臓が止まって死んだ。そしてBLゲームの悪役に転生した。このまま何もしなければ、王太子の運命の番を虐げた罪で処刑される。つまり——)
鏡の中の男の唇が、微かに動いた。
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