処刑エンドの悪役公爵、隠居したいのに溺愛されてます

ひなた翠

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第一章 目覚め

状況把握に努める

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 自室の扉を閉めた瞬間、膝から力が抜けた。

 壁に背中を預け、ずるずると座り込む。冷たい石の床が尻に当たり、身体の芯まで冷えるような感覚が伝わってきたが、構っている余裕はなかった。

 ――ようやく、一人になれた。

 この身体は人前で崩れることを許さない造りをしているらしく、廊下を歩いている間は完璧な姿勢を維持していたが、扉が閉まった途端に糸が切れた。心臓が肋骨を打つ速度が異常で、呼吸が浅い。手を見ると、鞭の柄の跡が掌に赤く残っている。他人の血で汚れた手だった。

(落ち着け。まず深呼吸だ)

 三回、深く息を吸って吐いた。前世で残業が百時間を超えた月に覚えた呼吸法だった。あの時も胸が締めつけられて息ができなくなったが、給湯室で一人で深呼吸をして乗り切る術を心得た。場所が変わっても、やることは同じなんだなと呆れる。

(よし。少し落ち着いた。状況を整理しよう)

 立ち上がり、部屋を見回した。

 前世のワンルームが軽く四つは入る広さの部屋だった。天井は高く、壁には重厚な油絵がかかり、窓際には書き物机と革張りの椅子が据えられている。暖炉には火が入っていて、薪が爆ぜる小さな音だけが部屋に響いていた。本棚には革装丁の書物がびっしりと並び、机の上には未開封の書簡がいくつも積まれている。

 書き物机に近づき、椅子に座った。引き出しを開ける。羽根ペン、封蝋、印璽。引き出しの奥に、小さな瓶が転がっていた。ラベルには「ビタミン剤」と書かれている。

(ビタミン剤か。毎日飲んでいるらしい記憶がある)

 この身体の記憶は、断片的に頭の中に残っていた。自分の記憶というよりも、引き継ぎ資料を読んでいるような感覚で、感情は伴わないが情報としては参照できる。名前、家族構成、使用人の顔と名前、日課、食事の好み——そういったものが、必要に応じて浮かび上がってくる。

 ――こいつ、果物アレルギーなのか。

(整理するぞ。わかっていることを書き出す)

 羽根ペンを手に取り、白紙の羊皮紙に書き始めようとしたが、ぴたりと手が止まる。

(——いや、これ証拠になるな。書くのはやめよう)

 ペンを置いた。頭の中で整理しよう。下手に文字を残したら、自分がこの世界の住人ではないと知られるリスクにもなる。

 第一。BLゲーム『運命の番は貴方だけ』の悪役公爵エリオットに転生した。このゲームは前世で俺の唯一の趣味であり、全ルート制覇済み。課金額は年収の——考えるな。

 第二。原作の流れ。エリオットは、王太子カイルの運命の番であるオメガのレオンを囲い、虐待する。カイルがそれを知り、エリオットを断罪して処刑する。レオンはカイルに保護され、二人は結ばれる。つまりエリオッは、主人公カップルの幸せのために排除される障害物である。

(最終的にはクビを切られて退場するリストラ対象者だ)

 そう考えると、生前と今と……立場に大差はない。首切りに合わないように、低空飛行ながらに必死にもがいて生きていた状況とほぼ同じ。

 第三。現在の時系列。レオンを囲ってからそれなりに時間が経過している。鞭打ちが日常化していることから、原作の中盤から序盤だと推測される。カイルがレオンの存在を知って、運命の番同士で惹かれ合い、愛し合ってからカイルのエリオットへの反撃が始まり、断罪からの処刑へと流れていく。

(つまり、まだ猶予がある、はず)

 第四。今後の取るべき行動だ。処刑を回避するためには、原作の「カイルに断罪される理由」を潰せばいい。理由は「運命の番であるオメガを虐待した罪」だ。ということは——レオンを虐待しなければいい。むしろレオンを解放し、カイルのもとに送り届ければ、断罪の根拠がなくなる。

 ――いや、すでに虐待してしまった事実は消せないが……。

 運命の番とわかっていて、手放さないで自分のモノにしていたからカイルが反撃に出たのだ。なら、早々にこちらからレオンの手放してしまえばいい。障害のない恋を勝手に二人で育んでもらえば、少なかれず処刑は免れるのでは?

(いわゆる損切りだ。損切りは早ければ早いほどいい。含み損を抱えたまま粘るから大損するんだ。レオンを手放し、領地も爵位も弟に渡して、辺境で静かに暮らす。それが最適解だ)

 計画はこうしよう。
 一、レオンに自由を宣言する。
 二、カイルにレオンを引き渡す。
 三、家督を弟に譲る。
 四、辺境の領地の隅で隠居する。
 五、二度と王都に近づかない。

(完璧だ。明日から実行に移す)

 椅子の背にもたれ、天井を見上げた。高い天井に描かれた天使の壁画が、蝋燭の光に揺れている。

(……しかし、あれだな)

 目を閉じた。瞼の裏に、レオンの顔が浮かぶ。上着の襟を握りしめる白い指。涙で潤んだ大きな瞳。怯えた声で名前を呼ぶ、あの掠れた声。

(あの子に、俺は——いや、この身体は、ずっとあんなことを)

 鞭の跡が浮かんだ白い背中を思い出し、胃の底がせり上がるような吐き気が込み上げてきた。歯を食いしばって堪える。

(俺がやったことじゃない。だがこの手がやったことだ)

 掌を見つめた。鞭の柄の跡が、まだ赤く残っている。この手はレオンを打った。この指はレオンの肌を傷つけ、この腕はレオンを押さえつけた。記憶にはないが、身体が覚えている。鞭を握った時の、あの自然な力の入れ方。振り下ろす時の、手首のしなり。繰り返し行ってきた人間だけが持つ、慣れた動作だった。

(明日、レオンに謝ろう。自由にすると伝えよう。食事も、まともなものを出させよう。傷の手当ても——)

 そこまで考えて、思い直した。

(いや、明日まで待つ必要があるか? 悪いと思っているなら、今すぐ行動で示すべきだろう)

 立ち上がった。時計を見ると、深夜を回っていた。

(腹が減っているだろう。あの子は。さっきのプレイの後で、何か食べさせてもらえているのか)

 この身体の記憶を探る。断片的な情報が浮かび上がってくる。レオンへの食事は、使用人が一日に一度、質素なものを運んでいた。量は充分ではなかった。飼っている人間に対して栄養管理をするという概念は、前のエリオットの辞書にはなかったらしい。

(ふざけるな。人を飼っておいて、ろくに飯も食わせないのか)
 怒りが湧いた。

 扉を開け、廊下に出た。厨房の方角はこの身体の記憶が知っている。深夜でも火を落としていない暖炉がある厨房に向かい、そこにいた夜番の使用人を凍りつかせた。

「温かいスープとパンを用意しろ。果物もだ。レオンの部屋に運ぶ」
 使用人の顔から血の気が引いた。

 主人が深夜に厨房に現れ、オメガのために食事を用意しろと命じている。この屋敷の歴史において、おそらく一度も起きたことのない事態だった。使用人は口をぱくぱくと動かし、何か言おうとしたが、エリオットの冷ややかな視線を受けて黙り込み、慌てて鍋に火をかけた。

(俺が怖いのか。そうだろうな。前のエリオットは使用人にも手を上げていたという記憶がある。改善しなければ。だが今は——)

 湯気の立つスープの鍋を見つめながら、エリオットは思った。

(まず、あの子に飯を食わせることだ。話はそれからだ)

 温かいスープとパンと、残り物の果物を盆に載せた。使用人が運ぼうとしたのを制し、自分で盆を持つ。使用人の目が更に見開かれたが、何も言わずに身を引いた。

 レオンの部屋に向かう廊下を歩きながら、エリオットは鏡の前を通り過ぎた。
 冷血公爵の顔が、盆を持って歩いている。この世で最も似合わない配膳係だろう。

 レオンの部屋の前に立つと、足を止めた。扉の向こうに、あの少年がいる。鞭で打たれた傷を抱えて、一人で。

(何を言えばいい。「ごめん」はもう言った。飯を持ってきた? それでいいのか? いきなり優しくしたら怪しまれるだろうか。だが怪しまれようが何だろうが、あの子は腹が減っているに違いない)

 最初の会話の糸口も見つけられないまま、扉をノックした。
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