処刑エンドの悪役公爵、隠居したいのに溺愛されてます

ひなた翠

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第一章 目覚め

逃れられない過去の罪

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 ノックの後、返事はなかった。

 もう一度叩こうとして、やめた。この身体の前の持ち主は、今までノックなどしなかっただろう。返事を待つという発想すらなかったはずだ。

「入るぞ」
 声をかけてから扉を開けた。

 石壁に囲まれた小さな部屋で、ベッドと簡素なテーブルと椅子が一脚。窓は高い位置にあり、月明かりが細く差し込んでいる。壁には使われなくなった鎖の金具が残っていて、かつてはレオンを繋いでいたのだろうとわかる。今は鎖こそ外されているが、この部屋自体が檻のようなものだ。

 テーブルの上に、手をつけていない食事の残骸があった。干からびたパンの端と、冷めきったスープの入った椀。一口も飲まれていない。スープの表面に膜が張り、匙は横に置かれたまま動かされた形跡がなかった。

(食べてないのか。出されたものすら食べられない状態なのか——食事は一日一回しかないというのに)

 胸の奥が絞られるように痛んだ。

 レオンはベッドの上にいた。エリオットの上着を羽織ったまま、身体を丸めている。部屋に入ってきたエリオットを見上げる瞳は大きく、蝋燭の灯りを反射して琥珀色に光っていた。

「食事を持ってきた」

 テーブルの上の冷めた食事を脇に寄せ、盆を置いた。湯気の立つスープ、焼きたてのパン、果物が三つ。厨房で手に入ったものを見繕っただけだが、この部屋に出されていた食事とは雲泥の差だった。

 パンからは小麦の香ばしい匂いが立ち、スープの湯気が部屋の冷えた空気に白く溶けていく。

 レオンの喉が、小さく鳴った。

 それを恥じるように、レオンは唇を噛んだ。視線がパンとスープの間を行き来し、湯気を目で追っている。

「いただいても……よろしいのですか」
 許可を求める声が、妙に幼く感じた。

 温かいスープが目の前にあり、腹が空いていて、でもそれに手を伸ばしていいのかわからない。叩かれた後に優しくされることの意味を、この子は知らないのか、あるいは知りすぎているのか。

「食べろ。冷める」
 短く言った。この声帯では、それ以上柔らかい言い方ができなそうだ。

 エリオットが頷くと、レオンは最初の一口をゆっくりと口に運んだ。

 スプーンを持つ指が微かに震えている。スープを唇に運び、飲み込み、一瞬だけ目を閉じた。温かいものが喉を通り、胃に落ちていくのを味わうように。

 咀嚼する頬が動くのを見ながら、エリオットは思った。

(この子は、一体どんな扱いを受けてきたのだろう)

 食事の許可を求める十八歳など……見たことがない。だが目の前で、許可を得てから温かいスープを飲んで目を閉じる少年がいる。前世の記憶にある、終電後のコンビニ弁当を一人で食べていた自分と、どこか似ているように感じた。

(——違う。この子の場合は、俺がそうさせたんだ。この身体が)

 レオンがパンをちぎり、スープに浸して食べ始めた。二口、三口と食べるうちに動作が少し早くなる。空腹が遠慮を追い越し始めていた。頬に色が戻り、唇についたスープの滴を舌で舐め取る仕草は、年相応の少年のものだった。

 その変化は、数秒で消えた。

 レオンの目の色が変わった。食べる速度が落ち、スプーンを置き、エリオットを見上げる。涙の膜が瞳を覆い、怯えた表情が顔全体に広がった。

「なぜ急に、優しくするのですか」
 震える声だった。
「昼間は、あんなに……激しかったのに」

 激しかった。鞭で打ち、寝衣を乱し、痛みを与えていた。その行為の最中に転生が起き、突然止まり、上着を掛けて謝罪し、今度は夜中に食事を運んでくる。レオンの立場からすれば、不気味以外の何物でもないだろう。

「……気が変わった」
 ――というか、中身が変わったのだが、それを説明する気はない。

「信じてもらえなくても構わない。ただ、もうお前を傷つけることはない」

 レオンの瞳が揺れた。信じていいのか、罠なのか、測りかねているような光だ。唇が微かに動いたが、言葉にはならなかった。

「傷を診せてくれ」

 エリオットは椅子をベッドの脇に寄せ、座った。厨房で見つけた清潔な布と、薬棚から持ち出した軟膏を取り出す。

「背中の傷だ。上着を脱がせるが、いいか」

 また許可を求めた。二度目の「前例のない行為」に、レオンの表情が固まる。それでも小さく頷き、肩から上着を滑らせた。

 背中が露わになった。

 赤い線が何本も交差し、古い傷は紫色に変色し、今日つけたばかりの傷は縁が腫れ上がっている。肩甲骨の間に特に集中していて、振り下ろす角度が一定だったことがわかる。几帳面に、繰り返し、同じ場所を打っている。

(前のエリオットは、これを——楽しんでいたのか)

 吐き気を飲み込み、布に軟膏をつけた。傷の縁に触れないように、腫れた部分に薬を塗っていく。指先に力を入れないよう意識したが、手が震えていた。

「……痛くないか」
「大丈夫です」

 レオンの声は静かだった。背中を向けたまま、微動だにしない。エリオットの指が傷に触れるたびに、肩の筋肉がわずかに強張るが、声は漏らさなかった。痛みに慣れているのだろう。

(慣れさせたのは俺なんだろうな)

 手当てを続けながら、エリオットは次の傷に軟膏を塗ろうと、レオンの肩に軽く触れた。
 その瞬間、レオンがエリオットの手首に頬を寄せた。

 縋りついたように見えた。傷の痛みに耐えかねて、近くにある温もりに無意識に触れたように見えた。

「エリオット様の匂い……少し、変わりましたね」
 匂いを指摘され、返答に困った。

(変わった? まあ、中身が丸ごと入れ替わったんだから、匂いも変わるのか? いや、匂いにそんな仕組みがあるか? わからないが……)

「気のせいだろう」
「……そうかもしれません」

 レオンが手首から頬を離した。離した後も、何かを考え込むような表情が一瞬だけ浮かんだが、すぐに怯えた子供の顔に戻った。

 手当てを終え、上着をレオンの肩に戻した。

 この身体がレオンの肌に触れるのは、今までは暴力か性行為だけだったはず。軟膏を塗るために触れたのは、おそらく初めてのことだろう。指先に残る柔らかい肌の感触が、掌の鞭の跡と重なって、妙な矛盾を生んでいた。

「明日、薬師を呼ぶ。それと——」
 言葉を選んだ。この喉は、優しいことを言い慣れていない。

「明日、話がある。今日はもう休め」
「……おやすみなさいませ、エリオット様」

 掠れた声でそう告げたレオンの視線が、テーブルの上の果物に一瞬だけ移った。林檎がひとつ残っている。手を伸ばしかけて、やめた。エリオットが見ている前で欲を見せることを、この子は自分に許していないようだった。

「好きなだけ食べろ。許可は要らない」

 レオンの指が止まった。エリオットの目を見つめ、それから林檎に手を伸ばした。白い指が赤い実を掴み、一口齧る。果汁が唇の端から零れ、レオンが慌てて手の甲で拭った。

 その仕草は、やけに妖艶な行動に見え、目を奪われた。

「ゆっくり休め」
 最後にそう伝えると扉を閉め、廊下に出る。壁にもたれ、天井を仰いだ。

(最低な男の身体に入ってしまった。あの子の背中の傷は、全部この手がやったことだ。許してもらおうとは思わない。ただ——これ以上は増やさない。それだけは、絶対に)

 深呼吸を三回して、気持ちを落ち着けた。肺が冷たい空気で満たされ、少しだけ頭が澄む。

(明日、レオンに自由を宣言する。カイルと会えるように尽力しよう。その後に隠居計画を実行に移す)

 隠居するなら、母上に話を通す必要がある。家督の譲渡は母上の承認も要る。あの人が承認するかどうかは……わからないが。

 この身体の記憶が、母の姿である冷たい視線と甲高い声を断片的に返してくる。

(あの人は、手強い。前世の部長より手強そうだ)

 前途多難だと自覚し、精神的に疲労した重い身体を引きずるようにして自室に戻った。

 ベッドに倒れ込み、天蓋を見上げる。柔らかい寝具が身体を包み、前世のせんべい布団とは比較にならない寝心地の良さに少々感動する。公爵の身体は疲労しているのに、頭の中の元サラリーマンは眠れそうになかった。

(前世の俺は誰にも必要とされなかった。仕事でも恋愛でも、俺がいなくなっても誰も困らない)

 天蓋の布が、蝋燭の残り火に揺れている。

(だが今は——少なくとも一人、俺の行動次第で人生が変わる人間がいる。あの子を、ちゃんと幸せにしてあげよう)

 目を閉じた。レオンの林檎を齧る音がまだ耳の奥に残り、まるで何かを誘うような官能的な仕草に身体の奥が疼いた。
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