処刑エンドの悪役公爵、隠居したいのに溺愛されてます

ひなた翠

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第二章 解放へと動き出す

レオンの運命の番・王太子カイル

 王宮は、ゲームの画面で見たものと同じだった。

 白い石壁と青い屋根。正門から続く長い回廊には、等間隔に騎士が立ち、来訪者を無言で値踏みしている。エリオットが通り過ぎるたびに、騎士たちの背筋が僅かに強張るのが見えた。冷血公爵の名は、王宮にまで轟いているらしい。

 王太子カイルの執務室は、王宮の東棟にあった。

 この身体の記憶が道順を知っている。議会で何度か顔を合わせているが、私的に訪問するのは初めてだ。扉の前に立つ近衛兵に名を告げると、暫しの間を置いて中に通された。

 そもそもとカイルとエルオットは不仲だ。冷血公爵と、正義感の塊で誰からも愛されるカイルが仲がいいはずがない。

 カイルの執務室は質実だった。

 王太子の部屋にしては飾り気がない。壁には地図と軍の編成表が掛けられ、机の上には書類が整然と積まれている。窓から差し込む光が、室内を明るく照らしていた。

 窓際に男が立っていた。
 振り返った瞬間、エリオットの足が止まった。

(——王太子カイル)

 ゲームの立ち絵は、現実の十分の一も伝えていなかった。

 金髪に碧眼。背が高く、肩幅が広い。軍人としての鍛錬が隅々まで行き届いた身体に、上質な軍服が張り付いている。顔立ちは整っているが、エリオットのような冷たさはない。意思の強い眉、真っ直ぐな目、引き結ばれた唇。正義、という言葉がそのまま人の形を取ったような男だった。

(これが推しか。画面越しに見ていた推しが、今、俺の目の前にいる。三次元の推し。課金した全額が報われるような顔面をしている——いや、感慨に浸っている場合じゃない)

「エリオット公爵か。珍しいな」

 カイルの声は低く、警戒を隠さなかった。碧眼がエリオットを射抜くように見つめている。

(無駄話をする間柄でもない。さっさと要件を済ませて帰宅しよう)

「単刀直入に言う」

 エリオットは姿勢を正した。冷血公爵の顔面が、ここでは武器になる。感情を一切見せない端正な仮面が、交渉の場では相手に隙を与えない。

「私が囲っているオメガの少年——レオンを、引き取っていただきたい」

 室内の温度が数度下がると、カイルの碧眼が僅かに細まった。眉間に皺が寄り、唇が引き結ばれる。警戒が、一段階上がったのが見て取れた。

「冷血公爵が、寵愛のオメガを手放すと?」

「寵愛……そうかもしれない。だからこそ、あの子にはふさわしい扱いを受けてほしい。私のもとでは限界がある。殿下に引き取っていただき、正当な保護を与えてやってほしい」

「俺に? なぜ俺なんだ」
(運命の番だからだ——とは言えない)

「殿下の人柄を買っている。オメガの権利を守る法整備を推進しておられるとも。あの子を任せられるのは、殿下しかいない」

 カイルの碧眼が細まった。エリオットの顔を探るように走る。裏に何かあるのではないかと疑いたくなる気持ちは痛いくらいに伝わった。

「お前に何の得がある。冷血公爵が善意で動くとは思えないが」
「得はない。強いて言えば——」

(処刑されないという最大の得があるって言えればいいけど)

「——身軽になりたいだけだ」

 カイルが一歩近づいた。碧眼に疑念が渦巻いている。口を開きかけた——その瞬間、言葉が途切れた。
 碧眼が一瞬、焦点を失った。鼻梁の横に皺が寄り、僅かに顎が上がる。何かの匂いを嗅ぎ取った動物のような反応だった。

(何だ? 急にどうした)

 カイルの瞳孔が開いていた。
 碧眼の中心が黒く広がり、呼吸が変わる。肩が上下し、拳が握られた。

「何だ……この匂いは」

 声が掠れていた。先程までの冷静な王太子の声ではない。喉の奥から絞り出すような、抑えの効かない声だった。

「お前から……アルファの匂いじゃない。何だこれは。甘い——」
 カイルの手がエリオットの腕を掴んだ。

 引き寄せられた。抗う間もなく、身体が密着する。カイルの体温が胸板を通じて伝わってきた。鍛えられた身体の硬さが、布越しにわかる。碧眼が至近距離にあり、その瞳の中で理性と本能が殴り合っているのが見えた。

「離——」
 唇を塞がれた。

 カイルの唇がエリオットの唇を押し潰すように重なった。柔らかさなどなかった。歯がぶつかり、唇が圧迫され、舌が強引にこじ開けてくる。口の中に侵入してきた舌が、歯列を撫で、上顎を這い、エリオットの舌に絡みついた。

(キス⁉︎ キスされている……推しに、なんで?)

 頭が真っ白になった。前世で三十二年、唇に触れた他人は歯医者だけだった。昨夜レオンと身体を重ねたが、キスはしていない。

 つまりこれが——口づけらしい口づけは、これが初めてだった。

 甘い、と思った。

 唇がゆっくりと離れた。唾液の橋が引かれ、切れて落ちた。

 カイルの目は充血していた。呼吸は荒く、額に汗が浮かんでいる。掴まれた腕が痛いほどに締め上げられている。

「くそ……何だ、この……」

 カイルの手がエリオットの肩へと移動してぐっと圧をかけられる。「跪け」と言わんばかりに下へと強く押される。

(――え、は?)

 膝が折れた。カイルの手が肩を押し下げ、石の床に片膝をつく形になった。目の前に、カイルの腰があった。軍服のベルトの金具が視界の中心にあり、その下の布地が不自然に張っている。

(こいつ……勃起してるのか?)

「すまない……止められない——」

 カイルの声が震えていた。自分の行動に恐怖しているような声だった。手は肩を押さえつけたまま離さない。碧眼には理性の光が残っていたが、身体は本能に従って動いていた。

(これは……まさか。フェラをしろと? 俺が?)

 ベルトが外された。カイルの手が自分の衣服を乱し、布の下からこぼれ出たものがエリオットの目の前に現れた。立ち上がったそれは太く、先端は既に濡れていた。アルファの雄の匂いが鼻を衝き、脳の奥が痺れるように揺れた。

「頼む……」

 カイルの声は懇願だった。命令ではなく、懇願。止められない自分に苦しんでいる声だった。そのくせ手は肩を押さえつけ、腰が前に出てくる。先端がエリオットの唇に触れた。

(無理だ。前世で童貞を貫いた男に、いきなりこんなことが——でも、この圧力——アルファの身体が、勝手に——)

 口が開いた。

 カイルのアルファとしての支配力に、この身体が反応した。唇が開き、舌が迎え、先端が口腔に侵入してくる。太さに顎が軋み、喉の奥に当たって反射的に咳き込みそうになった。涙が目尻に滲む。

 カイルの手がエリオットの後頭部を掴んだ。銀灰の髪が指の間から零れる。腰が前後に動き始め、口の中でそれが出入りする。湿った音が執務室に響いた。

 ――屈辱だ。

 だが屈辱の底で、別の感覚が渦巻いていた。

(——俺は、これをレオンにしていたのか)

 強制。支配。抗えない力で組み敷かれ、したくないことをさせられる。この身体がレオンに強いてきたことが、今、自分に返ってきている。

(これが、あの子が感じていたことか)

 涙が頬を伝った。喉の奥が痙攣し、息ができない。それでもカイルの動きは止まらず、奥まで突き入れられるたびに視界が滲んだ。

 カイルが果てたのは、それから長くない時間の後だった。
 頭上で、カイルが壁を殴る音がした。

 鈍い衝撃音と、微かな呻き。指の皮が裂け、血が白い石壁に筋を作っている。碧眼が見開かれ、自分の手と、膝をついたエリオットを交互に見つめていた。

「何を——俺は何をしたんだ——」

 カイルの声が震えていた。自分の衝動に恐怖している。アルファとしての本能に支配され、訪問者に性行為を強制した。その事実がカイルの内側を粉砕しているのが、表情から読み取れた。

「すまなかった。あの匂いに——自分でも何がなんだか——弁解のしようがない——」
 エリオットは膝の上で拳を握っていた。

 唇に残る感触。喉の奥の異物感。口元を拭った手の甲が、涙と唾液と精液で濡れている。

(人生最大の屈辱だ。前世の給湯室で、好きだった女に笑い者にされた時以上の——)
 だがその屈辱の中に、冷たく硬い核があった。

(これがレオンの日常だった。この身体が、毎日これを強いていた)

 立ち上がった。

 膝が震えていたが、この身体は崩れない。背筋が伸び、顔が上がり、冷血公爵の無表情が完成する。口の端に残った液体を親指で拭い、視線をカイルに向けた。

 カイルが壁に背をつけ、血の滲んだ拳を握りしめたまま、エリオットを見つめていた。碧眼に、後悔と困惑と恐怖が渦巻いている。

 エリオットが動いた。

 一歩でカイルとの距離を詰め、軍服の襟を掴んだ。カイルの目が見開かれる。反応する前に、引き寄せた。
 唇を、押し当てた。

 カイルが息を呑んだ。だがエリオットは構わず、唇をこじ開けた。さっきカイルがしたように、強引に。舌でカイルの歯列を押し広げ、口腔に侵入する。鼻がぶつかり、歯が当たった。キスの作法などわからない。だがそんなものは必要ない。

 飲み込みきれずに口の中に残っていたものを、カイルの口へ押し戻した。

 カイルの舌の上に、まだ温かい自分自身の精液が流れ込んでいく。カイルの全身が硬直した。碧眼が限界まで見開かれ、喉がひくりと動いた。反射的に飲み込んでしまったのか、口の中の異物に気づいて凍りついたのか——どちらでも構わなかった。

 唇を離した。カイルの唇から白い糸が一筋引かれ、切れて落ちた。

「お返しだ」

 低い声で言い放った。カイルの碧眼が、口の中に残る自分自身の味に気づき、顔から色が失せていく。

「レオンの件——頼んだぞ」

 襟を離し、踵を返した。扉に向かって歩く。背筋は伸び、足音は一定の間隔を刻んでいた。冷血公爵の完璧な退出。

 扉を閉め、廊下に出た。
 三歩歩いて、壁にもたれかかった。

(何やってるんだ、俺は)

 膝が笑っていた。手が震えている。心臓が喉元まで上がってきて、吐きそうだった。

(前世で女性の手すら握れなかった男が——男にキスして、口の中にあった精液を、口移しで本人に返すとか……。最悪だ)

 壁に額をつけた。冷たい石の感触が、少しだけ頭を冷やしてくれた。
 深呼吸を三回。掌の震えが、少しだけ収まった。

(帰ろう。早く口をすすいで綺麗にしたい)

 廊下を歩き始めた。王宮の長い回廊に、冷血公爵の足音だけが規則正しく響いている。すれ違う騎士たちが道を空けるのを、視界の端で捉えながら、エリオットは一つだけ確かなことを噛みしめていた。

(カイルは——本来は悪い人間じゃないのだろう。匂いに支配されて、自分でも止められなかった。壁を殴って、震えて、謝った。あれは本物の後悔だったと感じる)

 正門を抜け、馬車に乗り込んだ。

 馬車が走り出した。揺れる車内で、エリオットは唇に指を当てた。

(……あいつの味が、まだ残っている)

 窓の外を見た。王宮の白い壁が遠ざかっていく。

(次にやるべきことを考えろ。母上に会う。家督の件を相談する。それから——)
 口の中の苦い味は、王宮を出てからもしばらく消えなかった。
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