処刑エンドの悪役公爵、隠居したいのに溺愛されてます

ひなた翠

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第二章 解放へと動き出す

うまくいかない計画

 馬車が屋敷の門をくぐった頃、身体の異変に気づいた。

 ――怠い。

 朝からずっと頭の隅にあった重さが、王宮から戻る間にはっきりとした不快感に変わっていた。視界の端がぼんやりと霞む。熱があるわけではないが、身体の芯が抜けていくような倦怠感だった。

(風邪か? いや、違う。この感覚は——)

 この身体の記憶を探った。断片的な情報が返ってくる。毎朝、書斎の引き出しからビタミン剤を取り出して飲む習慣だ。飲まないと身体が重くなる。飲めば楽になる。

(ああ、ビタミン剤だ。飲み忘れていた。今朝はレオンを自由にすることで頭がいっぱいで、そのまま王宮に出てしまった)

 馬車を降り、屋敷の玄関を抜けた。廊下を歩く。すれ違った使用人が、いつもより長くこちらを見た。目を伏せるのではなく、じっと視線を絡みつかせてくる。二人目も、三人目も。

(何だ。俺の顔に何かついているのか)

 不快だった。冷血公爵に視線を合わせることすら怖がっていた使用人たちが、今日は妙に目が追いかけてくる。恐怖ではない別の色が視線に混じっていて、その正体がわからないことが気持ち悪かった。

 自室に入り、書斎の引き出しを開けた。小さな硝子の瓶。ラベルには「ビタミン剤」の文字。蓋を開け、錠剤を一つ掌に出して、水で流し込んだ。

 効果は思ったより早かった。十分もしないうちに、視界の霞が晴れ、身体に力が戻ってきた。

(こんなに効くのか。ビタミン剤にしては即効性がありすぎる気がするが——まあ、異世界の薬だ。前世のサプリメントとは成分が違うのだろう)

 朝はレオンの解放を本人に拒否された。カイルへの引き渡し交渉は——まともに話ができなかった。カイルの「甘い匂い」発言から、めちゃくちゃになった。

カイルは「アルファの匂いじゃない」と言っていたが、俺はアルファのはずだ。この身体の記憶でも、周囲の認識でも。なのにアルファじゃない匂いがするとは——どういうことだろうか。

 考えが纏まらないまま、次の問題に移ることにした。隠居計画のもう一つの柱。家督の譲渡。これを進めるには、母の承認が要る。

(母親か。この身体の記憶では——)

 断片が浮かぶ。冷たい視線。甲高い声。幼い頃から「あなたは公爵家の唯一の跡取りです」と言い聞かされてきた記憶が鮮明になる。

(エリオットの硬い表情筋は、母親からの重すぎる期待のせいか――)

 感情を消し、公爵家に相応しく振る舞うために自由すらも自ら剥奪して生きてきたんだ。どこまでも自分に厳しく、完璧を追求してきた結果が……今の――というかちょっと前までのエリオットだ。

 馬車を呼ばせ、母の屋敷に向かった。


    ◇◇◇


 エリザベスの屋敷は、エリオットの屋敷から馬車で半刻ほどの場所にあった。

 公爵家の別邸として管理されているエリザベスの城だった。門を抜け、使用人に案内されて応接間に通される。花の香りが充満する部屋で、エリオットは椅子に座り、母を待った。

(バラの匂い……本来のエリオットは嫌いな匂いのようだ)

 胸に不快感が広がっていく。母親を思い出す匂いとして、嫌な記憶を呼び起こすスイッチの香りとして分類されている。

 遠くから足音が聞こえた。

 規則正しく、硬い靴音が廊下を刻んでくる。エリオットの身体が、反射的に背筋を伸ばした。意識してそうしたのではない。この身体に刻まれた条件反射だ。

 扉が開いて、エリザベスが入ってきた。
 無意識に、スッと立ち上がり姿勢を正す。身体に刷り込まれた行動だ。

(——美しい人だ)

 それが第一印象だ。銀灰の髪は息子と同じ色で、きっちりと結い上げられている。切れ長の瞳も、鋭い顎の線も、エリオットの顔立ちの原型がここにあることを示していた。年齢を感じさせない肌と、隙のない所作。エリオットの冷徹な美貌は、この女性から受け継いだものだった。

 だが目が合った瞬間、寒気がした。瞳の温度が、氷点下だった。

(この人は——怖い。本能が警告している)

「座りなさい」

 エリザベスが向かいの椅子に腰を下ろす。視線はエリオットから外れなかった。値踏みするような、品定めするような目で、こちらを見ている。

 一呼吸おいてから、エリオットはゆっくりと椅子に座った。

「珍しいわね。あなたから訪ねてくるなんて」
「相談があります、母上」
「聞きましょう」

 カイルのときと同様。さっさと要件を済ませて帰りたい。

「家督を弟に譲りたい。私は辺境の領地で——」
「却下」

 エリオットの言葉が終わる前に、エリザベスの声が被せてきた。

「理由を聞いてくれても……」
「聞く必要がないからよ。あなたは公爵家の当主。私が産んだ、正統な嫡子。愛人の子に家督を渡すなど、論外です」

 愛人の子とは弟のことだ。この身体の記憶によれば、父には愛人がおり、その間に生まれた子どもが弟として公爵家に引き取られている。エリザベスにとっては、その存在自体が屈辱だった。

「弟は優秀だと聞いている。領地の管理も——」
「優秀かどうかの問題ではありません」

 エリザベスの声が低くなった。

「血の問題です。あなたは私の血を引いている。あの子は、あの女の血です。公爵家の正統は、あなたしかいない」

(血の問題。前世なら時代錯誤で片づけられる話だが、ここは貴族社会の異世界だ。俺の生きて来た世界のルールは通用しない)

「母上、俺は——」
「私、と言いなさい。何度言えばわかるの」

(一人称を直された。この身体の前の持ち主は「私」を使っていたのか)

「……私は、当主の器ではありません」
「器は作るものよ。あなたはまだ私の手の中にある」

 エリザベスが立ち上がり、エリオットの前に歩み寄った。見下ろしてくる。息子の顔を覗き込んだ——その瞬間、表情が凍った。

 鼻梁に皺が寄り、唇が引き結ばれる。息を吸い込むように目を細めた。

「あなた……匂いが——」

 言いかけた言葉を、エリザベス自身が遮った。手のひらが宙で止まり、一拍の沈黙の後、まったく別の声色で切り出す。

(……匂い?)

 ここでも匂いの話題が出てくる。どういうことだ?

「……そういえば、今朝はカイル殿下に会ったそうね」

(もう耳に入っているのか。この人の情報網はあなどれない——)

「ええ。オメガの処遇について相談に」
「オメガの処遇。あなたが飼っている、あの少年のこと?」

 飼っている。その言い方に、エリオットの中で何かが軋んだ。

「……はい」
「飼っている者について、殿下に相談って。生かすも殺すもあなたの自由じゃない」

 エリザベスの指がエリオットの顎を掴んだ。冷たい指先が顎の骨を挟み、顔を上向かせる。至近距離で、母の瞳が息子の瞳を射抜いた。

「家督を弟に渡す話は、二度としないこと。次にその話題を出したら——わかっているわね?」

 掴まれた顎が痛かった。だが母の前で痛みを表に出さない訓練が染み付いているようだ。表情筋は全く動かず、母の言葉にすらなんの心も動かない。

「……わかりました」
「よろしい」

 指が離れた。エリザベスが踵を返し、元の椅子に戻る。茶碗を手に取り、何事もなかったかのように口をつけた。

 匂いの話題のさいに一瞬だけ浮かんだ母の動揺は何だったのだろう。何かに気づき、何かを恐れ、何かを隠した——そのすべてが、一秒にも満たない時間の中で処理されていた。

(この人は……何かを知っている。俺の匂いについて、何かを)

「帰りなさい。次は朗報を持ってきてちょうだい」
 頭を下げ、応接間を出た。

 廊下を歩きながら、顎に残るエリザベスの指の感触を拭った。

(隠居計画、頓挫。家督譲渡を母上が許さない。カイルへのレオン引き渡しもまだ返事がない。処刑回避のために動いているのに、全方位で壁にぶつかっている)

 馬車に乗り込み、自分の屋敷に向かう。揺れる車内で、額に手を当てた。

(カイルの返事を待つ間に、できることを進めるしかない。レオンの生活環境を改善する。まともな食事、まともな部屋、まともな扱い。それくらいは、母上の許可がなくてもできる)

 馬車が屋敷の門をくぐると、夕暮れの光が屋敷の壁を橙色に染めていた。

転生二日目。解放宣言は失敗、カイルへの交渉は匂いのせいで破綻、母上には一蹴された。成果ゼロ。だが一縷の望みがあるとすれば——カイルの返答か。

 馬車を降り、屋敷に入った。廊下の奥から、小さな足音が聞こえてくる。
 レオンが、笑顔で出迎えてくれた。
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