処刑エンドの悪役公爵、隠居したいのに溺愛されてます

ひなた翠

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第四章:堕落

カイルの自覚

 剣が弾かれ、空高く舞い上がる。

 手首に痺れが走り、握りの甘くなった柄を慌てて掴み直した時には、ディートリヒの切っ先が喉元に突きつけられていた。

「三本目。今日は調子が悪いな」

 ディートリヒが剣を引き、間合いを取った。汗もかいていない涼しい顔で、暗い紫の瞳がカイルを見つめている。訓練場には午後の陽が差し込み、木剣同士がぶつかる音がしばらく前まで響いていたが、今は二人の呼吸の音だけが残っていた。

「調子が悪い……」

 カイルは木剣を肩に担ぎ、訓練場の壁際に置かれた長椅子に腰を下ろした。水差しから杯に水を注ぎ、一気に呷る。汗が首筋を伝い、訓練着の襟元を濡らしていた。

「最近、おかしいんだ。俺は」
「おかしいのは、もとからだろう」

 ディートリヒが壁にもたれ、腕を組んだ。木剣を壁に立てかけ、カイルの横顔を眺めている。幼馴染の顔を値踏みするのではなく、壊れかけた玩具を観察するような——飄々としていながらも、どこかに心配の色が混じった視線を感じた。

「まあ、人とずれている箇所は確かにあるとは思うが……そういうことじゃなくて」

 カイルは水の残った杯を両手で回しながら、言葉を探した。喉元まで出かかっている告白を、言葉にしていのかと悩む。

 今まで政策や人間関係について、迷うことがあれば相談することはあったが――恋愛ごとの話しは一度もしたことがない。

(俺が恋愛をしてなかったら――というのもあるかもしれないが)

「女が抱けなくなった」
 ディートリヒの動きが止まった。腕を組んだまま、紫の瞳がカイルに向いた。

「それはおかしいな」
「だろう」

「お前、好色ではないが嫌いでもなかっただろう。寝所の相手に困ったことはないはずだ」
「ない。なかった。少なくともひと月前までは。気が向けば相手を呼び、用が済めば帰した。不能になったわけでもない。身体は問題なく機能している」

 カイルは杯を置き、額に手を当てた。指の隙間から天井が見えた。高い梁が走る訓練場の天井を見上げながら、自分の内側で起きている変化を整理しようとした。

「ただ、女を抱こうとすると——抱く気が失せる。腕の中にいる人間が、俺が望んでいる相手じゃないと萎える」

 ――今までこんなことなかったのに。

 誰でも抱けてた。欲を吐き出したいと思ったら、そこらへんにいる人間で満足できていた。

(今は違う)

 あいつ以外、受け付けない。あいつを抱きたい。あいつの纏う匂いを肺いっぱいに吸い込みながら、達したい。

 冷静に考えると、己が気持ち悪い。誰か一人に固執する人生なんて考えたことなかった。父上は好色で、正妻のほかに大勢の愛人がいた。それが当たり前だと思っていたが……。

 どうもこの身体は違うらしい。

「男なら抱けるのか」
 ディートリヒの声は平坦だった。からかいの色はなく、純粋な確認だった。

「お前は抱けない」
「やめろよ。俺だって抱かれたくない」

 ディートリヒが眉を上げた。片方だけ持ち上がった眉が、不快というよりは本気で嫌だという顔を作っていて、カイルは思わず口元が緩んだ。幼い頃から隣にいる男の、こういう素直な反応が面白くて好きだ。

 カイルは長椅子に背をもたれさせ、天井を仰いだ。午後の光が窓から差し込み、訓練場の床に格子模様の影を落としている。埃が光の中で舞い、ゆっくりと沈んでいく。

「他の男は?」
 ディートリヒが訊いた。

「他の男をどうこうしたいと思ったこともない。ただ——」

 言葉が詰まった。喉の奥で何かが膨らみ、声になるのを拒んでいるように感じた。ただ単に、その事実を自分自身が認めたくないのかもしれない。

「ただ?」
「あいつ、すごくいい匂いなんだ」

 口にした瞬間、自分の声色に驚いた。いつもの淡々とした口調で言ったはず。なのに。上擦り、嬉しそうな声になって喉から発せられていた。

「あの匂いを知った瞬間から、頭から離れない。夜、目を閉じるとあの甘い匂いが鼻の奥に蘇る。勝手に比べているんだ。寝所に来た女の匂いを比べて、萎える」

 ディートリヒが黙っていた。壁にもたれたまま、カイルの横顔を見ている。

「匂いか。レオンか? オメガだもんな。アルファを惑わす匂いをオメガは出すが……ただ——」

 紫の瞳がカイルを見た。

「あいつは性格が悪いぞ」
 レオンの顔が浮かんで、カイルは眉を寄せた。

(は? レオン?)

 大きな瞳に涙を溜めて、怯えた顔をしつつも、挑戦的にこちらを伺っていたオメガの少年が思い出される。こちらに喧嘩を売るような視線を思い出せるが、匂いが思い出せなかった。

 そもそもあのときは、エリオットの匂いにばかり気を取られていて、オメガの存在をあまり覚えていない。

「つまらないオメガに興味はない」
「つまらない、ね」

 ディートリヒが腕を解き、壁から背を離した。長椅子の反対側に腰を下ろし、カイルと同じ方向を見た。訓練場の向こうに、窓から庭が見えた。初秋の風が木々を揺らし、葉が数枚舞い落ちている。

「じゃあ、エリオットか」

 風が窓から吹き込み、カイルの金髪を揺らした。額に張り付いた汗の滲む前髪が揺れ、碧眼が一瞬だけ隠れた。
 二人の間に沈黙が落ちた。

 訓練場に午後の光が差し込み、埃が舞い、遠くで鳥が鳴いていた。カイルの喉が上下した。言葉が喉の奥で形を成し、唇に押し上げられてくる。

「……ほしい」
 声にした瞬間、自分の胸の中で何かが決定的に動いた。

 ――エリオットがほしい。

 あの匂いを、あの身体を……全てを俺のものにしたい。ソファの上で口を塞いだ掌の下から漏れた声が色っぽくて身体を熱くする。何度もイッた後の焦点の合わないと火照った顔が扇状的だった。自分のものにしたい。誰にも渡したくない。

 冷血公爵と呼ばれる男を、心の底からほしいと思っている。アルファの名門として君臨する男を、王太子である自分が欲している。

 レオンの引き取りを条件にしてまで、身体を求めた。あの時、自分がしたことの醜さは自覚している。自覚した上で、もう一度——いや、何度でも抱きたいと思っている自分がいた。

「ほしい、か」

 ディートリヒの声は静かだった。さして驚く様子はない。あの日は隣の部屋にいたのだ。カイルが抱いたのをわかっているのだろう。

「お前がエリオットの屋敷から帰ってきた時の顔、覚えているか」
「おかしかったか?」

 自分では通常通りに振る舞っていたと思っているが。

「教えてやるが、お前、色気が滲み出ていた。恍惚としていたと言ってもいい。好きなやつを満足いくまで抱いた後の余韻に浸る男の顔だった」

「――おっと。そうか。だが、満足いくまでは抱いてない」

(もっと抱きたかったが……あの状況で何度もは無理だろう)

「で? 匂いはエリオットのものなのか?」
「あいつの匂いだが……あいつはアルファだ。アルファからあんな甘い匂いがするのはおかしい」

「その匂い、本人のものか移り香か、確かめたのか?」

 カイルは顔を上げた。ディートリヒの紫の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。

 ――移り香?

「何の話だ」

「エリオットの屋敷にはレオンがいる。しかもレオンは長い間、エリオットが寵愛しているオメガだろう? お前が反応しているのがエリオット自身の匂いなのか、レオンとの情事のあとの移り香なのか——確かめたのか?」

 カイルは眉を寄せた。考えたことがなかった。

(それは盲点だった)
 だが……あの甘い匂いは確かにエリオットからしている。

「関係ない」
「関係ない?」

「移り香だろうが本人の匂いだろうが、関係ない。俺がほしいのはエリオットだ」

 ディートリヒが口元を歪めた。笑みというほどではない、けれど確かに何かが面白かった顔だった。

「お前、完全に堕ちたな」
「自覚はある」

 カイルは立ち上がった。長椅子から離れ、訓練場の中央に歩いていった。床に落ちた格子模様の影を踏み、窓の前で足を止めた。庭の木々が風に揺れている。葉が数枚舞い、地面に落ちた。

 ディートリヒも立ち上がり、壁に立てかけていた木剣を取った。柄を手の中で回し、カイルに切っ先を向けた。

「もう一本やるか。今度はちゃんと集中しろ」

「ああ」

 カイルは木剣を構えた。握りを確かめ、間合いを測る。ディートリヒの暗い紫の瞳が正面にあり、訓練場の午後の光が二人の間に降り注いでいた。

「ただし一つだけ言っておく」
 ディートリヒが構えを取りながら言った。

「エリオットの屋敷にいるオメガの少年。あいつは小狡いぞ。上手くエリオットを騙して、寵愛されているずる賢いオメガだ」

 カイルの眉が動き、先日のレオンの顔が浮かんだ。

 ――だろうな。
(エリオットから離れまいと、必死だった)

「お前の相手を見抜く力は信じている。レオンには気をつける」

 木剣が閃いた。ディートリヒが踏み込み、カイルの肩口を狙った。反射的に受け、弾き返す。木剣同士がぶつかる音が訓練場に響き渡った。

 カイルの身体の奥で、「ほしい」と口にした瞬間の熱が、まだ消えずに燻っていた。
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