処刑エンドの悪役公爵、隠居したいのに溺愛されてます

ひなた翠

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第四章:堕落

告白

 沈黙が長く続いた。

 窓の外で鳥が鳴き、午後の陽が傾いていく。打たれた頬の熱が引き始め、代わりにこめかみの傷がじくじくと疼いていた。

「隠居を急いでいるのは、母親のせいか」
 カイルの声が、静寂を破った。低く、慎重に言葉を選んだように感じられた。

「――違う」
「じゃあなぜだ。お前はこの二ヶ月で領地を見違えるほど変えた。橋を直し、道を整え、領民から慕われ始めている。なぜそれを捨てて隠居したがる」

「順番が逆だ。隠居できそうにないから、今の自分にできることを始めただけだ。全てを捨てたいわけじゃない――それに、自分の性格が怖い」
「性格が怖い?」

 カイルがエリオットの言葉を復唱した。

「母上を——見ただろう」
 カイルが隣で頷く気配がした。

「あの血が、俺の中にも流れている」
 打たれた頬をさすった。母の指の形がまだ残っている肌を、自分の指でなぞる。

「レオンに——俺はずっと、ああいうことをしてきたんだ。殴り、鞭を振るい、あの子の身体に傷を刻んだ。母に叩かれて育った人間が、同じことをして、それが愛情だと教えて込んでいた。母と同じだ。俺は母と同じことをしていた。だから早急に、カイルにレオンを引き取ってもらいたくて願い出た」

 喉の奥から、制御できないものが込み上げてくる。

 ――怖いんだ、自分自身が。

 胸の奥に巣食う魔物がいつ目を覚ますのか……。酔って記憶を飛ばした際に、過去の自分が顔を出しレオンに痛い思いをさせてしまった。

 あのときのように、いつかまた自分が獣に戻ってしまうのか不安で仕方がない。

「隠居して一人で暮らしたい。一人なら、手をあげる人間がいないから――誰も傷つけずに済む。でも母もカイルも許してくれなかった」

 目の奥が、熱くなった。

 頬を伝っていく温かい液体に、エリオットは自分で驚いていた。前のエリオットが抱えていた苦しみが、この身体の中に残っていて、それが今、初めて出口を見つけたかのように溢れ出してきた。

「すまない——泣くつもりは——」
 カイルの指が、頬に触れた。

 涙の筋をなぞるように、親指が目の下を滑っていく。そのまま指先が涙を掬い上げ、カイルの唇がそっとエリオットの頬に触れた。涙の跡を、唇で吸い取るようなキスだった。右の頬。左の頬。目尻に溜まった雫を唇で受け止め、温かい吐息が濡れた肌に触れた。

「俺が守ってやる」

 カイルの声は低く、静かだった。碧眼がエリオットの瞳を覗き込んでいる。怒りも欲望もない、透明な光がそこにあった。

 エリオットはカイルの手を払った。

「守られたいんじゃない」
 カイルの碧眼が見開かれた。

「守ってもらっても何も変わらない。母上から守られても、この血は変わらない。俺の中にある暴力は消えない。誰かの後ろに隠れたいわけじゃない」

 言葉が勝手に溢れ出していた。涙と一緒に、ずっと蓋をしていたものが噴き出してくる。転生してからずっと、誰にも言えなかったこと。前世の自分なら虫も殺せなかった臆病な人間だったのに、この身体には暴力の記憶が刻まれていて、いつまた前のエリオットが顔を出すかわからない恐怖。

「ただ——」
 声が途切れた。喉が詰まり、言葉を探した。

「一人が怖い。今だけでいい。そばにいてほしい」
 自分から動いていた。

 カイルの胸に顔を埋めた。広い胸に額を押しつけ、軍服の布越しにカイルの体温を感じた。心臓の音が聞こえた。速かった。規則正しかった鼓動が、エリオットが触れた瞬間に跳ね上がったのがわかった。

 カイルの腕がゆっくりと背中に回ってきた。強く抱きしめるのではなく、そっと触れるだけの手だった。逃げたければ逃げられる力加減。エリオットの意思を確認するような、慎重な腕だった。

 顔を上げた。
 涙で滲んだ視界に、カイルの顔があった。碧眼が近く、金色の睫毛が見えた。

(……キスをしたい)
 自分から。ぎこちなく、不器用に。

 唇の合わせ方がわからなかったし、角度も力加減も知らなかった。ただカイルの唇に自分の唇を押し当てた。歯がぶつかり、鼻がぶつかり、涙の塩味が混じった。

(キスの仕方なんて知らない。前世でも今世でも、まともに誰かの唇に触れたことがないんだから——)

 エリオットの下手なキスに、カイルが応えてくれる。

 不器用な口づけを、丁寧に受け止めた。ぶつかった唇の角度を整え、鼻がぶつからない位置に顔を傾け、エリオットの下唇をそっと挟んだ。教えるように。導くように。焦らず、強引にならず、エリオットのペースに合わせてくれるキスだった。

 唇が離れ、また触れた。二度目は少しだけ上手くできた。三度目にはカイルの舌がエリオットの唇の隙間をなぞり、口の中に入ってきた。温かく、柔らかく、カイルの味がした。舌が絡み、唾液が混じり、甘い匂いが二人の間に立ち上った。

 キスがだんだんと深くなっていった。カイルの手が後頭部に回り、指が髪に絡む。もう片方の手がエリオットの腰を引き寄せ、身体が密着した。カイルの体温が全身に伝わってきて、母に殴られてから冷えていた身体が溶けるように温まっていく。

 涙が止まらなかった。キスをしながら泣いていた。感情が溢れてきて制御できなかった。ただ、この体温がほしかった。この腕の中にいたかった。前世で三十二年間、誰にも求められなかった人間が、初めて自分から誰かを求めている。

 カイルがエリオットの身体を寝台に倒した。

 背中がシーツに沈み、カイルの身体が上に重なった。碧眼が見下ろしてくる。瞳の奥に欲望が揺れていた。

「嫌なら止める」
「――嫌じゃない」

 自分の声が、自分のものだと思えなかった。低く、掠れ、震えていた。涙の跡が乾いていない頬で、エリオットはカイルの碧眼を見つめ返した。

「今は——お前がほしい」
 カイルの瞳が揺れた。碧い目の中に、何かが光った。

 唇が重なった。深く、長く、お互いを貪るようなキスだった。カイルの手がエリオットのシャツのボタンに触れ、一つずつ外していく。布が開き、肌が晒された。冷たい空気が触れ、次の瞬間にカイルの唇が鎖骨に落ちた。温かい唇が肌の上を辿り、首筋に、胸に、腹に、キスを落としていく。

 前回のソファの上とは、全てが違っていた。あの時は取引だった。レオンの引き渡しと引き換えに身体を差し出した。処刑よりマシだと自分に言い聞かせ、歯を食いしばって耐えた。

 今は違う。自分から求めている。自分の手がカイルの軍服を掴み、引き寄せ、唇を重ねている。

 カイルの手が丁寧にエリオットの身体を解いていった。服を脱がせ、肌を露わにし、一つ一つの場所に唇を落としてから次へ進む。急がなかった。貪らなかった。前回のような獣じみた激しさはなく、壊れものに触れるような手つきだった。

 指が入ってきた時、エリオットの身体が強張った。前回の記憶がまだ残っている。カイルの指が止まり、碧眼がエリオットの顔を覗き込んだ。

「力を抜け。ゆっくりやる」

 ゆっくりだった。一本目の指が中をほぐし、二本目が加わるまでに時間をかけた。内壁を撫で、指を曲げ、エリオットの身体が受け入れる準備ができるのを待った。前回は準備もなく押し込まれたが、今夜のカイルは違った。

 三本目の指が入り、あの場所に触れた。腰が浮き、声が漏れた。カイルの指がその場所を覚えていて、的確に、けれど優しく刺激してくる。快感が下腹部から背骨を駆け上がり、頭の芯を痺れさせた。

「入れるぞ」
「ああ」

 カイルの身体がエリオットの中に沈んでいった。ゆっくりと、途中で何度も止まりながら。エリオットの表情を確かめ、苦痛の色が浮かべば止まり、力が抜けるのを待ってから進む。根元まで収まった時、二人の間から同時に吐息が漏れた。

 緩やかに動き出した。引いて、押して、深く沈めて、浅く戻す。前回のような速さも激しさもなく、お互いの輪郭を確かめ合うような律動だった。カイルの碧眼がずっとエリオットの顔を見ていた。快感に歪む表情も、声を堪えて唇を噛む顔も、全て見つめていた。

「声、出していい」
「出すつもりは——んっ」

 奥を突かれ、言葉が途切れた。カイルが角度を変え、あの場所を擦り上げた。全身に火花が散り、声が勝手に漏れた。堪えようとしたが、カイルの腰がまた同じ場所を突き、堪えきれなかった。

「あ——っ、そこは——」
「ここか」

 同じ場所を、何度も突いてくる。律動がゆっくりなぶん、一突きごとの快感が鮮明だった。引き抜かれる時に内壁が擦られ、押し込まれる時に奥を突かれ、二重の快感が波のように押し寄せてきた。

 涙がまた出ていた。快感のせいなのか、感情のせいなのか、わからなかった。カイルの唇がエリオットの頬に触れ、涙を拭うようにキスを落とした。

 カイルの動きが速くなっていく。律動が深くなり、寝台がきしむ音が寝室に響いた。エリオットの腕がカイルの背中にしがみつき、爪が食い込んだ。声を堪えるができなくなり、漏れるままに声を上げ、カイルの名前を呼んだ。

「カイル……カイル——」

 名前を呼ぶたびに、カイルの腰が深く沈んだ。碧眼が潤み、額に汗が滲み、唇が僅かに開いて荒い呼吸を繰り返していた。

「エリオット——もうっ……!」
「中に、出して——」
 カイルが最奥に腰を押しつけた。熱いものが注がれる感覚が身体の奥に広がり、エリオットの背が弓なりに反った。同時に自分も達した。カイルの腹を汚しながら、声にならない声を上げ、全身が痙攣した。

 しばらく、動けなかった。

 カイルの身体がエリオットの上に崩れ落ち、荒い呼吸が重なり合った。心臓の音が二つ、速く、強く、鳴っている。汗の匂いと甘い匂いが混じり合い、寝室の空気がぬるく湿っていた。

 カイルがゆっくりと身体を起こし、繋がりを解いた。エリオットの隣に横たわり、腕を伸ばして肩を引き寄せた。エリオットの頭がカイルの胸に乗り、心臓の音が耳に届いた。

 まだ速かった。けれど、少しずつ落ち着いていく。

「泣いてたな」
「……うるさい」
「嫌だったか」
「嫌じゃない。嫌じゃなかった」

 カイルの指が、エリオットの髪を撫でた。優しい手つきだった。

「お前が泣くのを初めて見た。冷血公爵が泣くとは思わなかった」
「俺だって思わなかった」

 声が掠れていた。

「お前の涙を見た時——正義とか、国とか、そういうものが全部どうでもよくなった。ただ、お前を泣かせたくないと感じた」

 カイルの声は静かだった。天井を見つめながら、独り言のように呟いている。

「守ってやるとは、もう言わない。だが——エリオットのそばにいたい。お前が望む限り」

 エリオットは何も言わなかった。カイルの胸に頬を預けたまま、心臓の音を聞いていた。

(前世では、誰もそばにいてくれなかった。好きだった女にも馬鹿にされ、友人と呼べる人間もおらず、過労で死んだ。この世界に来て、処刑されることばかり怖がって、逃げることばかり考えていた。なのに——)

 カイルの心臓の音が、穏やかになっていく。腕の力が少しだけ緩み、呼吸が深くなっていく。

(俺は浅はかな人間だ)

 ――処刑回避よりももっと大事なものがある。

 目を閉じた。疲労が全身を覆い、意識が遠くなっていく。母に殴られた痛みも、泣いた後の腫れた目も、カイルに抱かれた身体の疼きも、全てが溶け合って境界を失った。

 カイルの腕の中で、エリオットは眠りに落ちた。
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