処刑エンドの悪役公爵、隠居したいのに溺愛されてます

ひなた翠

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第五章:エリオットの秘密

救出

 九日目の朝、身体が限界を訴えた。

 目を開けた瞬間に、下腹部の疼きが全身を支配していた。腹の奥が脈打つように熱い。口元が濡れていた。枕に涎の染みがあった。いつの間にか口から垂れていたらしい。唇を拭おうとした手が震え、指先の感覚が曖昧になっているのに気づいた。

 寝台から身を起こそうとして、腰の下の異変に気づく。

 シーツが濡れていた。臀部の間から、温かい液体がじわりと滲み出している。触れると、指先にぬるりとした透明な蜜が絡みついた。匂いが立ち昇る。甘い、濃密な匂い。部屋に充満していた自分の匂いよりもさらに濃く、脳の奥を痺れさせるような甘さだった。

(――ああ、やっぱり)
 オメガだった。

 身体の奥から押し出されるように、じわじわとシーツを濡らしていく。腹の疼きは脈拍に合わせて強くなり、身体が何かを——求めている。頭の中に霧がかかり、思考がまとまらなかった。

 扉が開いて、母が入ってきた。いつもの時間の、いつもの確認——だが、母の足がぴたりと止まった。鼻が動き、目が見開かれた。

 部屋に充満した甘い匂い。蜜で濡れたシーツ。寝台の上で身体を丸めて荒い息をしているエリオットの姿を、母は凍りついたように見つめていた。

「あ——」
 母の口から、声にならない声が漏れた。

「あ、ああ——ああああああッ」

 絶叫だった。両手で頭を抱え、後ずさりながら、壁にぶつかって止まった。目が狂ったように見開かれ、瞳孔が震えている。正気が剥がれ落ちていくのが、エリオットの目にもわかった。

「嘘よ——嘘、嘘、嘘——」

 母は壁にかけてある鞭に手を伸ばした。革の柄を握りしめ、よろめきながらエリオットに近づいてくる。目は涙で濡れていたが、涙の奥にあるのは恐怖でも怒りでもなかった。心の崩壊だ。

「背中を出しなさい!」

 悲鳴に近い怒鳴り声で命令をする。エリオットは身体を起こし、背中を向けた。昨日の傷がまだ塞がっていない背中を、薄いシャツ越しに晒す。

 鞭が落ちた。傷の上を打たれ、息が止まった。シャツに赤い線が広がっていく。二度目。三度目。痛みが重なり、背中全体が燃えるように熱かった。

 だが母の手は震え、打つたびに狙いがずれていた。肩に当たり、腕をかすめ、寝台の縁を叩いた。鞭を振る力が弱くなっていく。嗚咽を漏らしながら、鞭を振り続けていた。

「母上」
 エリオットは背中を向けたまま、静かに言った。

「私はオメガなんですね」
 鞭が止まった。

 沈黙が落ち……蝋燭の炎が揺れ、母の影が壁の上で歪んでいた。

「アルファよ」
 母の声は掠れていた。

「私は今、ヒート中なんですよね」
「だからアルファだって言ってるじゃない」

 母の声が裂けた。甲高く、ひび割れた声が暗い部屋に反響した。

「私が産んだのよ。公爵家に嫁ぎ、アルファの息子を産んだの。あなたはアルファ。アルファなの。アルファなんだから——」

 繰り返すたびに声が震え、言葉が崩れていく。母は自分自身に言い聞かせていた。目の前の現実を——蜜で濡れたシーツと甘い匂いに充満した部屋と、ヒートに喘ぐ息子の姿を、否定しようとしていた。

「ビタミン剤が来ないから。ビタミンが切れているだけ。ただの体調不良よ。ただの——」

 母が鞭を振り上げた。
 その腕を、後ろから掴まれた。

「——ッ!」

 母の身体が引き戻された。大きな手が母の手首を締め上げ、鞭が床に落ちた。
 母の腕を掴んでいるのはカイルだった。

 軍服の襟元が乱れ、額に汗が滲んでいた。走ってきたのだろう。肩で息をしながら、掴んだ母の腕を振り払うように離し、寝台の上のエリオットを見た。

 瞳が怒りで揺れた。エリオットが今まで見たことのない、剥き出しの激怒が紺碧の瞳に燃えていた。

「議会に来ないから、どうしたのかと思えば——こういうことか」

 声は低く、静かだった。静かであるほど怒りが深いことを、エリオットはもう知っていた。カイルの視線が部屋を走った。一本だけの蝋燭。寝台の脚に巻かれた鎖と、エリオットの足首の足枷。血が滲んだシャツ。

 一通り見渡して、何が起きていたのか理解したようだった。

「ディーク」

 カイルが振り返らずに呼んだ。廊下にディートリヒの姿があった。腕を組み、扉の枠にもたれて立っている。その涼しい顔にも、僅かに眉根が寄っていた。

「このクソ女を連れて行け。牢に閉じ込めろ」

 母が叫び声をあげ、何かを言おうとしていた。だがディートリヒが無言で母の腕を取り、部屋から引きずり出していく。母の足が床を擦る音と、甲高い悲鳴が廊下に響き、遠ざかっていった。

「鍵は」

 カイルが離れていく母に向かって短く訊いた。ディートリヒが母のドレスのポケットから小さな鍵を抜き取り、放り投げた。カイルが片手で受け取り、寝台の脇に膝をついた。

 足枷に鍵を差し込む。金属が擦れ、かちりと音がして、錠が外れた。鉄の輪がエリオットの足首から落ち、鎖が床に崩れた。赤く腫れた足首に、鬱血の痕が残っていた。

「大丈夫か」

 カイルの声が近かった。顔を上げると、碧いの瞳がすぐそこにあった。怒りはまだ消えていなかったが、エリオットを見つめる目だけは別の色を帯びていた。

「……身体がつらい」

 声が掠れた。自分の声がこんなに弱々しいことに驚いた。冷血公爵の顔を保つ余裕すらなかった。身体は燃えるように熱く、下腹部の疼きは収まらない。

 カイルが軍服の内ポケットから、懐紙に包まれた白い錠剤を取り出した。

(あれは——俺のビタミン剤? なぜカイルが持っているんだ?)

 カイルが錠剤を自分の口に含んだ。

「——え」
 唇が塞がれた。

 カイルの唇がエリオットの唇に重なり、舌が錠剤を押し込んでくる。温かい唾液と一緒に、硬い錠剤が舌の上に転がった。苦い味が広がる。カイルの舌がエリオットの舌に触れ、錠剤を奥へと送り込んだ。喉が動き、飲み下した。

 唇が離れた。銀色の糸が一瞬だけ二人の間に架かり、途切れた。

「身体の疼きは、これで少し楽になるはずだ」

 カイルが低い声で言った。エリオットの額に汗で張りついた髪を、指先で横に払った。

 数分で効果が出始めた。下腹部の疼きが薄れていく。脈打つような熱が引き潮のように退き、頭の中の霧が晴れていく。五感の鋭さが鈍り、部屋に充満していた甘い匂いが薄くなった。身体が——元に戻っていく。

(効いている。疼きが収まっている。ビタミン剤でこんなことは起きない。あれはやはり——)

「オメガだった」
「そうみたいだな」

 カイルの声は穏やかだった。エリオットがオメガであることに驚いている様子はなかった。

「お前の母親は、抑制剤をビタミン剤だと偽って飲ませていたようだ。俺が以前、お前の部屋から拝借した錠剤を調べさせた。あれはオメガの抑制剤だった」

(拝借——カイルが薬を持ち出していたのか)

「お前からの甘い匂いに、これで説明がつく」

 カイルがエリオットの頬に手を添えた。大きく、温かい掌。頬骨の形をなぞるように、親指がゆっくり動いた。

「他のアルファは薬が効いている間は気づけない。俺だけが気づいたのは——運命の番だからだ」

 唇が重なった。

 ただ、唇が触れている。柔らかく、温かく、甘い圧力。カイルの手がエリオットの後頭部を支え、指が髪に絡んだ。深くはなかった。ゆっくりと、確かめるように、唇の形をなぞるだけのキスだった。

「……カイル」
「ん?」

「俺は、ずっとアルファだと思ってた」
「知ってる」

「オメガだった」
「そうだな」

「……怖い。自分の身体なのに、何が起きているのかわからない」

 カイルがエリオットの額に唇を落とした。汗ばんだ額に、乾いた唇の感触が触れる。

「大丈夫。俺がそばにいるから」

 その声を聞いた時、鎖で繋がれた日々の恐怖が、不意に輪郭を失った。消えたわけではない。ただ、カイルの声と体温に包まれて、恐怖の形がぼやけていった。
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