処刑エンドの悪役公爵、隠居したいのに溺愛されてます

ひなた翠

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第五章:エリオットの秘密

レオンの裏切り

 抑制剤が効き始めると、エリオットの思考がクリアになっていく。

 霧が晴れたように頭が冴え、身体の輪郭が自分のものに戻る。下腹部の疼きの辛さが抑えられ、逆に背中の鞭の傷がじくじくと主張してきたが、動けないほどの痛みではなかった。

 思考が正常になってきて最初に浮かんだのは、レオンのことだった。

(レオン! 母上は「ちゃんと世話してる」と言ったが、あの母が——オメガのレオンをまともに扱っているはずがない)

 寝台から立ち上がった。鬱血の痕が赤黒く残った足首が、足枷の形に皮膚が擦れて少しの痛みを感じた。自由になた足で一歩目を踏み出した瞬間に、予想外に膝が折れてその場に崩れ落ちた。

 九日間、ほぼ動かなかった身体は筋力が落ち、自分の体重を支えることすらままならない状態になっていた。

「おい——」
 カイルが駆け寄り、腕を掴んで引き起こした。エリオットの身体を支え、肩に腕を回す。

「無理をするな。まだ身体が——」
「レオンの部屋に行きたい。あいつも閉じ込められているかもしれない」

 カイルの眉が寄って嫌そうな表情をするものの、エリオットの行動を止めはしなかった。エリオットの身体を支えたまま、二人で寝室を出て廊下を歩いた。屋敷の中は静かだった。母の使用人たちの姿はなく、エリオット付きの使用人たちが怯えた顔で少し遠間の位置で控えていた。

 レオンの寝室の前に着くと、扉の取っ手に手をかける。鍵がかかっているようで、回らなかった。

「執事を呼べ。マスターキーを持ってこさせろ」

 カイルが廊下に向かって声を張った。使用人が走り、執事が鍵束を持って駆けてきた。震える手で鍵を選び、錠前に差し込む。かちりと音がして、扉が開いた。

 レオンの部屋は暗かった。

 エリオットの寝室と同じ状態だ。廊下から差し込む光だけが、床の一部を照らしていた。食事の残骸が床に散らばっている。乾いたパンの欠片と、倒れた水差し。水は零れて乾き、染みだけが残っていた。

 光の中に、白い足が見えた。

 レオンは寝台の隅に座っていた。膝を抱え、壁に背を押しつけている。髪が乱れ、寝衣の裾が汚れていた。廊下の光に目を細め、扉の方を見た。唇が干からび、目の下に濃い隈ができている。

「レオン!」
 エリオットがカイルの肩から手を離し、よろめきながら駆け寄った。

 ――無事だった。

 鎖こそなかったが、暗い部屋に閉じ込められ、食事も満足に与えられていなかったのだろう。頬がこけ、手首が細くなっている。

 手を伸ばして、レオンの肩に触れようとしたが——その手を、レオンに打ち払われた。

 乾いた音が暗い部屋に響いた。レオンの手がエリオットの手首を叩き落とし、細い指がエリオットの腕を突き返していた。

「触らないで」
 冷たい声だった。

(……え?)

 怯えた少年の声ではなかった。エリオットは手を引いたまま、目の前の少年を見つめた。いつもなら「エリオット様」と甘えた声で縋りつくはずだった。暗い部屋に閉じ込められて怖かったと泣きつき、細い腕でしがみついてくると思っていた。そうやって今までは、いつも甘えてきた。

 その手が、エリオットを拒んでいた。

 ——近づいた瞬間、レオンの顔がさらに歪んだ。

 鼻梁に皺が寄り、上唇がめくれ上がった。身体が反射的に示した、生理的な拒絶をされた。

「その匂い……くさい」
 レオンが顔を背けた。

「くさい! 近寄らないで」
 ――くさい?

 レオンがエリオットを見上げた。涙の乾いた頬に、冷たい光が宿っていた。睨まれた細い目には、憎しみのような感情が込められていて、エリオットは頭が真っ白になる。

(どうして? 何が起きているんだ?)

「アルファじゃない」
 静かな声だった。レオンの無感情な声が、何よりも深くエリオットの心を刺した。

「僕のアルファだと思ってたのに——全部嘘だったんだ」
 失望が、ゆっくりと憎悪に変わっていく。

「僕のアルファ」——レオンにとって「アルファであること」だけが価値だったと突きつけられた。オメガが理想のアルファに執着するのは、おかしいことじゃない。とくにレオンのような奴隷以下の扱いで、拾われてくる子は自分を愛し、養ってくれる強いアルファに憧れを抱くものだ。アルファじゃなくなったエリオットに、レオンが縋る理由も甘える価値もない

 足が動かなかった。打ち払われた手がだらりと下がったまま、エリオットは立ち尽くす。九日間の監禁で衰えた身体が、レオンの拒絶に追い討ちをかけるようにその場に崩れ落ちた。

 レオンの視線が動く。エリオットの背後——扉の前に立つカイルを見た瞬間、少年の瞳が変わった。瞬く間に無表情だった顔に、笑顔が差し込む。

「カイル様……!」

 寝台から飛び降りた。監禁生活だったのかと疑ってしまうほど軽やかな足取りで、エリオットの横を、レオンは駆け抜けていった。同じように閉じ込められ、同じように飢えていたはずなのに、アルファの匂いを嗅いだ瞬間に少年の身体は別の生き物のように蘇っていた。カイルの胸に飛び込み、細い腕が軍服の腰に巻きついて、顔を胸元に押しつけると甘え出す。

「怖かったですぅ……ずっと、暗い部屋に閉じ込められて、誰にも会えなくて——」
 声が震えて、レオンの目から涙が溢れていた。

 レオンがカイルの腕の中から、ちらりとエリオットを見た。寝衣の襟元をずらし、肩に残る鞭の古傷を覗かせた。

「この人に……こんな仕打ちまでされたんです。ずっと、ずっと——」

(ああ——終わった)

 脳内に見慣れたゲーム画面が思い浮かぶ。

 悪役公爵エリオット。オメガを虐げ、鞭で打ち、暗い部屋に閉じ込めた残虐な男。王太子カイルがオメガを救い出し、悪役を断罪する——処刑エンド。

(回避できなかった。善政を敷いて、レオンに優しくして、暴力をやめた——全部無駄だった。前の持ち主がやったことの証拠が、レオンの身体に刻まれている。否定しようがない。処刑だ。前世で過労死して、転生して、今度は処刑で死ぬのか。笑えないな)

 目の前が暗くなった。鎖で繋がれた日々よりも、鞭で打たれた時よりも、この瞬間が一番深く、冷たく、絶望していた。

「その匂い、くさい」
 カイルの声が、頭上から降ってきた。

 エリオットは顔を上げた。カイルがレオンを見下ろし……腰にしがみつく少年の肩に手を置いて——引き剥がした。

「退け、クソオメガ」

 突き飛ばされたレオンの身体が、宙を泳いだ。背中から床に落ち、寝衣の裾が広がる。衝撃で息が詰まり、少年の目が見開かれた。

 レオンが転がった先は、外から戻ってきたディートリヒの足元だった。
 ディートリヒが腕を組んだまま、足元のレオンを見下ろしている。感情の読めない涼しい顔で、ただ静かに眺めていた。

「こいつもどこかに連れて行け。目障りだ」
 カイルが振り返らずに言った。ディートリヒが小さく息を吐き、しゃがみ込んだ。レオンの腕を掴み、引き起こす。

「立てるか」

 短い問いかけだった。レオンは答えなかったが、ディートリヒに腕を引かれ、よろめきながら立ち上がる。

 ディートリヒがレオンの腕を引き、廊下の奥へ歩き出した。レオンは一度だけ振り返り、エリオットを見た。嫌悪でも怒りでもない、名前のつかない感情が少年の瞳に浮かんでいた。そして視線を切り、ディートリヒに従って歩いていった。

 足音が遠ざかり、消えた。

「どう、して——」

 エリオットの声が震えていた。理解が追いつかない。レオンは傷を見せ、涙を流し、エリオットの罪を突きつけた。ゲームのシナリオ通りなら、カイルはレオンを守り、エリオットを断罪するはずだ。

「どうして、レオンじゃなくて——」
 背後から、腕が回された。

 カイルが膝をつき、エリオットの背中に胸を押しつけていた。大きな腕がエリオットの身体を包み込み、軍服の硬い布越しにカイルの体温が伝わってくる。鞭傷のある背中に触れないように、腕の位置を慎重に選んでいるのがわかった。その気遣いが、余計に胸を締めつけた。

「もう大丈夫だ」
 耳元で囁かれた。低く、温かい声が鼓膜を震わせた。

「言っただろ。運命の番同士だって」
 エリオットの目から、涙が落ちた。

 カイルの体温に触れた瞬間に、鎖で繋がれた九日間の恐怖と、処刑を覚悟した絶望と、レオンに「くさい」と拒絶された痛みが、全部一度に溢れ出した。

 声は出さなかった。ただ涙だけが、頬を伝って、カイルの腕に落ちていった。カイルは何も言わず、腕の力を少しだけ強めた。
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