処刑エンドの悪役公爵、隠居したいのに溺愛されてます

ひなた翠

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第六章:碧眼の光に導かれ

鎖の根源

 牢獄は、王宮の最深部に位置していた。

 湿り気を帯びた石造りの階段を下りるたび、肌を撫でる空気は温度を失っていく。壁を伝う水滴が、揺れる蝋燭の炎を反射して鈍く光った。前を行くカイルの広い背中を追い、エリオットは半歩後ろを歩いた。首筋に残る番の噛み痕が、歩調に合わせて微かに疼く。高まった熱は抑制剤によって鎮まっていたが、肌の奥にはまだあの夜の余熱が体内で燻っていた。

 番を契ってから、三日の月日が流れた。猛烈なヒートは凪ぎ、背中に刻まれた鞭の傷もようやく痛みが引き始めている。霧が晴れたような思考は明瞭で、周囲には冷血公爵としての鉄面皮を保つ余裕が戻っていた。

「無理に会う必要はない」
 カイルが足を止めず、低い声で言った。

「会う」

 エリオットは短く応じた。確かめなければならない真実があり、断ち切らなければならない過去がある。

 牢の前で看守が仰々しく敬礼し、腰に下げた鉄格子の鍵を開けた。油の切れた重い扉が耳障りな音を立てて開き、薄暗い独房が口を開ける。

 母は、そこにいた。

 冷たい石の床に直接腰を下ろし、壁に背を預けて虚空を見つめていた。三日前まで身に纏っていた豪奢な紫紺のドレスは泥に汚れ、裾は無惨に引き裂かれている。結い上げられていたはずの髪は乱れて肩に落ち、削げた頬には深い隈が刻まれていた。かつてエリオットを支配していた高圧的な女の面影は、どこにもなかった。ただの抜け殻だった。目の前に座り込んでいる小刻みに震える女が、自分を産み育て、鎖で繋ぎ、鞭で打ち据えた張本人であるとは、にわかには信じがたかった。

「母上」

 声をかけると、母の瞳がゆっくりと彷徨った。エリオットの姿を捉えるまでに、ひどく時間がかかった。やがてエリオットの顔を認め、その背後に佇むカイルを一瞥すると、また力なく視線を前方へ戻した。

「……来たの」

 掠れた声だった。鼓膜を突き刺すようなあの甲高い叫びは消え失せ、喉の奥から絞り出すような湿った響きだけが残っていた。

 エリオットは鉄格子の前に立ち、母を冷徹に見下ろした。カイルが背後で腕を組み、壁に身を寄せる。言葉は発しない。エリオットが真実を掴み取るのを、静かに待っていた。

「あの薬は、何だったのですか」

 感情を排して訊ねた。答えはすでにカイルから聞き及んでいる。それでも、母の口から直接吐き出させる必要があった。

 母は答えを返さなかった。指先で何もない虚空をなぞり、意味のない動きを繰り返している。焦点の合わない瞳は、石の床の一点を見つめていた。

「ビタミン剤よ」
 やがて、母が木霊のように呟いた。

「果物アレルギーのための、ただのビタミン剤。それだけ……」
「母上」
「ビタミン剤なの。あの薬は、あなたの健康を……」
「オメガの抑制剤だった」

 エリオットが言葉を遮った。

「カイルが調べた。あの錠剤はオメガのフェロモンとヒートを強引に抑え込む、強力な抑制剤だった。俺は……アルファではなかった」

 重苦しい沈黙が独房に落ちた。蝋燭の炎が大きく揺れ、母の影が湿った壁の上で歪に伸長した。

「あなたが生まれた時、産婆が真っ青な顔をして告げたわ。『オメガです』と」

 母の薄い唇が、震えながら言葉を紡ぎ始めた。堰を切ったように、隠蔽されてきた記憶が溢れ出す。

「信じられるはずがなかった。わが家はアルファしか生まれない、高貴な血統。名門の誇りを守り抜いてきた一族だった。公爵家に嫁ぐ際、私は亡き義母に誓ったの。必ずや至高のアルファの跡継ぎを産んでみせます、と。それが……」

 言葉が途切れた。母の手が膝の上で固く握りしめられ、鋭い爪が掌の皮膚を白く突き刺した。

「オメガだった。よりによって、忌まわしいオメガだった。公爵家の正統なる跡継ぎが、他者に跪く性だなんて」

(知らなかった。そんな事実は……ゲームの設定にさえ存在しなかった。母がどのような呪縛の中でそれを隠し続けてきたのか、シナリオには一行の記述もなかったのだ)

「誰にも明かせなかった。あの人にも言えなかった。夫には愛人がいたから。もし息子がオメガであると知れれば、即座に愛人の子を跡継ぎに据えると宣言したに違いないわ。義母には疎まれ、社交界からは嘲笑される。アルファを産むと約束した嫁が、オメガを産み落としたなどと……」

 母の声は、奈落の底へ沈んでいくかのように低くなっていった。

「私はあの人の正妻よ。なのに、あの人は私に見向きもしなかった。卑しい愛人の部屋に入り浸り、愛人の子ばかりを慈しんで。私に残されたのは、あなただけだった。あなたがアルファであったからこそ、私は正妻の座に踏み留まれた。あなたがオメガであると露見すれば、私は……この家での居場所を完全に失う」

 母の瞳から、音もなく涙が零れ落ちた。かつての激情的な泣き喚きとは違う、絶望に裏打ちされた静かな涙だった。

「だから、全てを塗り潰した。産婆を多額の金で黙らせ、五歳の頃から抑制剤を飲ませ続けた。果物アレルギーのためのビタミン剤だと偽れば、誰も疑いを持たなかった。あなたは完璧なアルファとして成長し、当主の座を継いだ。私の描いた筋書き通りだった。全てが、完璧に運んでいたのに……」

「薬の供給が途絶えたことで、全てが狂い始めた」
 母の独白を補完するように、エリオットが呟いた。

「あの雨のせいよ。あの忌々しい雨さえ降らなければ。街道が崩れ、荷が届かないなんてことがなければ……」
 母の声が、悲鳴に近い響きを帯びて裂けた。

「あの雨が全部壊した。あなたはアルファ……アルファでなければならなかったのに」
「母上」
「あなたは、アルファなのよ!」

 狂乱した母が、石の壁に後頭部を打ちつけながら叫んだ。鈍い音が冷たい空間に響く。エリオットが思わず鉄格子に手をかけ、身を乗り出そうとした瞬間、カイルの大きな手が肩を強く制した。

 母は壁に背中を押しつけたまま、肩を激しく上下させて虚空を睨みつけていた。

「オメガが当主を務めるなど、あってはならない。私が血を吐く思いで守り抜いてきたものが、全て……全て灰になった」
「それならば」

 エリオットが静寂を保ったまま、言葉を置いた。

「俺を隠居させてくれればよかった」
 母の身体の震えが、ぴたりと止まった。

「当主の座を弟に譲りたいと、母上に申し出たはずだ。あの時、母上が俺の意思を尊重していれば、これほどの惨劇には至らなかった。隠居した身であれば、たとえオメガであることが露見しても、公爵家の権威を揺るがす致命傷にはならなかったはずだ」

 母の瞳が大きく見開かれた。言葉を探すように口が動くが、意味を成す音は出てこない。

「あなたしか……いなかったのよ」
 ようやく絞り出されたのは、消え入るような震え声だった。

「あの女の息子に、この家を明け渡すなど、到底許せるはずがない。あなたが……あなたが当主でいてくれなければ、私は……私自身の存在意義が……」

 言葉は嗚咽へと変わり、母は膝を抱えて丸くなった。壁に縋り付くようにして、声を殺して泣いた。肩が小刻みに震えるだけの、救いのない慟哭だった。

 エリオットは鉄格子の前から動かず、ただその姿を視界に収めていた。

(追い詰められていた事情は、理解できる)

 この女はエリオットを鎖で縛り、鞭で打ち、暗い部屋に監禁した。幼少期から本来の性を奪い、偽りの人生を強要した。その罪は決して許されるものではなく、許すつもりも毛頭ない。

 だが、この母もまた、時代の歪みに追い詰められた被害者であったのだ。

 夫には顧みられず、愛人に地位を脅かされ、唯一の盾が「アルファの息子」という幻想しかなかった。その盾がオメガであると知った瞬間、母の世界は音を立てて崩壊したのだろう。鎖も鞭も、エリオットへの憎しみではなく、恐怖から生じたものだった。息子を守るためではない。自分自身の居場所を死守するための、防衛的な暴力だったのだ。

 あまりに醜く、身勝手な動機だった。しかし、そうでなければこの女の精神は、とっくに粉々に砕け散っていたに違いない。

(許しはしない。だが、納得はした)

 二十余年にわたる虚飾の人生。アルファとして育てられ、アルファとして振る舞い、アルファの傲慢さで周囲を傷つけてきた。レオンに振るった暴力さえ、母から継承した負の連鎖であったのだ。全ての悲劇は、この独房で泣き崩れている女の小さな嘘から始まり、噛み合わない歯車が回り続けた結果に過ぎなかった。

 そして、その根源にあるのはこの世界の不条理な構造そのものだ。政略結婚という名のもとに愛のない契りを結ばされ、夫の不貞だけが許容される。アルファという絶対的な価値観に縛られた家系において、正妻という椅子を守るためには、嘘を真実として生きる道しかなかったのだ。

 母は膝に顔を埋めたまま、静かになった。時折、肩が微かに揺れ、押し殺した嗚咽が石壁に吸い込まれて消えていく。

(母もまた、この残酷な時代の犠牲者に過ぎなかったのだ)

「……帰ろう」

 カイルの低い囁きに、エリオットは静かに頷いた。母に背を向け、迷いのない足取りで石の階段を上り始める。地上へ出ると、春の陽光が眩いほどに降り注いでいた。

 カイルは何も問わなかった。ただエリオットの隣を歩き、冷えた手をそっと取り、指を深く絡めた。大丈夫だ、と語りかけるような力強い温もりが、エリオットの手を包み込んでいた。
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