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『弓弦、優さんを越えちゃいけません。一番は、お兄さんに譲りなさい』

 眠れない夜だと思ったのに、僕はいつの間に眠っていた。枕には涙の染みができている。
 子供の頃に母親に言われた言葉を思い出す夢を見た。

 父に褒められるのが好きで、頭を撫でてもらいたくて……行動していた。母からの一番を譲りなさいと言われてから、僕は父への甘え方がわからなくなった。

 甘える僕の裏で兄さんが、唇を噛みしめて必死に何かに耐えるような表情をしているのを見てしまったから……これは僕がしてはいけない行為だったと知った。




 僕の母は、いわゆる後妻だった。家のための結婚をした父は、母と長く愛人関係だったらしい。なかなか二人目が授からないなかで、母の妊娠を期に兄の母とは離婚をして、後妻におさまった。
 愛人からの成りあがりだった母は、怖かったんだろう。まわりの人間からの視線と、圧力から自分を守りたかった。
 精神を病み、妹の百合を産んで……そのままこの家から出ていった。




 どこをどうやって朝の支度をして、学校に来たのか覚えてないが……いつも通りの時間に僕は大学の席についた。
 ほどなくして、幼馴染の和真が昨日と変わらない笑みで「おはよう」と声をかけて僕の隣に座った。

「あ……あ、ああ」
 鞄の中から教科書を出す手を止めて、僕は曖昧に答えると下を向いた。

「昨日は悪かった」
「な、なんのこと?」

「優さんに……」
 少し汗ばむ和真の手のひらで、僕の手を握られる。びくっと肩が震えると、僕は握られた手を引っ込めた。

「やめて。よ、良かったね。念願の恋が成就して。ぼ……僕は別の席で今日は授業を受けるから」

 僕は机に一度出したノートや筆箱を鞄の中にねじ込んだ。席を立とうとすると、和真に手首を掴まれた。

「……嘘をつかせて悪かった。利用したのは俺なのに」
「和真、何を言っているのか、僕にはわからない。利用したのはお互い様でしょ? せっかく好きな人と一緒になれるチャンスなのに、この世の終わりみたいな顔をして固まって……バカじゃないの?」

 だめだ……きつい。

 和真に掴まれている手首が熱くて、見えない手で首を絞められてるみたいに苦しい。呼吸をしたいのに、息が吸えないんだ。

 無理。僕は和真の顔を見れない。
 好き、だよ。愛してるんだよ、和真。

 僕は今できる精いっぱいの笑みを和真に見せると、鞄を抱えて講義室の後ろへと移動した。

 馬鹿のは自分だ。

 和真と兄さんと想いを共有したあとの自分の身の振り方まで考えてなかった。傍にいたいのにいられない和真の熱を、僕が味わう未来しか見てなかった。

 だって……兄さんが本当に和真を受け入れるなんて思わなかったから……。
 一時の熱病に置かされるよりも、兄さんは次期家元としての未来を取ると思ったから。

「僕はなんて……浅はかで醜い人間なんだ」
 教授が入ってくると淡々と授業が始まった。

 ときより心配そうに和真が後ろを振り返って僕を見てくる。その視線が苦しくなる。

 幼馴染として。利用するだけ利用して、ポイ捨てした罪悪感から気にているのはわかってる。それでもその視線が、今僕だけを見ているという高揚感で全身の血が沸騰しそうになる。

 同時に和真の身体はもう、兄さんの所有物なのだと思うと血の気が下がり、吐き気が増した。
 鞄から勉強道具も出さず、授業開始十五分で僕は大学を早退した。
 


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