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第10章 ムンバイへの道(新7日目)
10ー5 逃走は続く(新7日目)
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(暑ぃ……)
開いた目に一面の水色の空が飛び込んで来た。
髪を掻き上げつつ身を起こすと手がぬるりと濡れた。
「うわああっ!」
血だ。血で頭が覆われている。
俺は死んじまうのかとロハンは狼狽した。
手近な草で汚れた手を拭き、足を伸ばして座っていたのを起き上がろうと背を曲げると、
「痛ぇ!」
左臑に熱い痛みを感じ動きを止める。
(何があったんだったか……)
仰げば右手はるか崖から林の木々が乗り出して枝を伸ばしている。
そうだ。警官に追われるうちに左足に鋭い痛みを感じふらついた、途端に崖から落ちたのだ。
左手側はそう大きくない川だ。
ロハンが居るのは、崖の中ほどにせり出した岩のテーブル上に土や砂がたまり、短い草や膝下程度の小木と言えるか言えないかの植物が足元に生えている場所だった。足の側に傾斜して少し下っているが滑り落ちなかったのは小木でひっかかったからだ。
叩き付けられた場所がいつもの練習場のように柔らかく、反射的に受け身を取ったのをぼんやりと覚えている。
川の向こうはまばらな林だ。
せせらぎの音はこの高さまでは届かず、人っ子ひとり見えない。
背中側遠くの地面にプラサットらしき男が横たわっているのを見つけた。服装から間違いない。
生きてはいない。
生きていたら首と体が離れているはずはない。
(……)
兄貴と人懐っこく寄ってきた姿を思い出す。首を背けて眉を寄せた。
(で、俺はこれからどうすりゃいいんだ?)
汗にまみれた太い首を左右に振って様子を覗う。
上からも下からも様子を確かめるのが難しい場所だ。夜、どこかへぶつけた頭から出血して気絶しているのを崖上からのライトで見たなら、死んでいると誤解されても不思議はない。
だがいつロープなど準備を整えて警官共が「遺体」回収にやって来るかもわからない。日の状態からはもう早朝ではない。
首を落とされたらたまるものか!
顔を出して下を覗き込む。地面までは三メートル前後。
持っている一番長いものは履いているジーンズで、これを低木に結んで下へ降りる足しにしたら、
(間違いなくこの低木は折れる。保証する)
だが衝撃を和らげる足しにはなる。ジーンズの長さと自分の身長を足せば三メートルは稼げるのではないか。
ただ万一、無事な方の右足を傷めたら歩けなくなる。
芋虫のように這い回るのでは追っ手から逃げられない。
(どうする?)
やるしかない。いつまでも照りつける太陽に焼かれ続ける訳にはいかない。暑さでやられるか餓死するか警官にとどめを刺されるか。どれも冗談ではない。
ジーンズの裾を細い低木に巻き付け両腕で握ると崖に沿って体を落とす。
ぽきん。
予想通り折れたつまめそうな細い幹。
(パンイチで死ぬのは恰好悪いよな)
回転し今度は意識的に受け身を取った。
それからロハンは長く歩いた。
川に沿って下り、頭の傷をそのままにするのと汚い水で洗うことのどちらが体に悪いかを迷った。流れ出る汗と比例して喉が渇きを訴え、背に腹は代えられず川の水を飲んだついでに頭も洗った。体のあちらこちが痛み左足は引きずっているがそれ以外の問題はない。
頭部は出血しやすいから切り傷程度なのだろうと勝手に決めた。
二度目に川へ入った時浅瀬で横たわり全身を水に濡らした。
目はつぶり口はしっかり閉じ鼻はつまみ、ヤバそうな水を体内に吸い込まないようには気をつけた。こうでもしないと暑くて歩く気力がわかない。水に入ると警察犬が追跡出来ないと聞いたから一石二鳥だ。
崖は次第に下がりまばらに細い木が生えた乾いた大地に光景が変わった。一方川向こうには林がある。
浅そうな場所で川を渡り始めたが、膝下の深さで足を取られて転倒し、左足の不自由さに立ち上がれず流され出した。溺れるかと思うほど水を飲み込みながら見つけた岩にしがみ付きかなり下流で向こう岸に上がった。
時々遠くの尾根に畑仕事らしい男たちを見る以外人は行き交わず、追っ手も見られなかった。木々の陰をたどってしばらく下流へ歩き、額の暑さに耐えられなくなった頃に休憩を取った。
木の幹に寄りかかり座ったまま眠り込んだ。
目が覚めた時には少し日が弱くなっていた。午後もかなり回ったのだろう。
反対側の岸に小屋のようなものを見つけたのは空がうすく赤みがかってきてからだ。
倉庫かと思ったが洗濯物を干してあるところを見ると住居らしい。
このあたりは先ほどより深そうで渡る自信がない。
結局浅い場所まで来た道を三十分以上戻ってから渡った。
(こんなひでー所にどんな奴が住んでいるんだよ)
金具が外れたドアを叩くと、現れたのは白髪の束が踊るように頭上に立つシワの深い老人だった。
「えっと、遭難しました。迎えを頼みたいんで電話を貸してもらえませんか?」
小さな小屋には老夫婦が住んでいた。
父親に連絡をして迎えを待つ間、彼らは怪我の手当をし、水や食事を提供した。
豆がわずかでやたらと辛いダル、やはりチリがきつく青菜と何かわからないものの炒め物と普段なら手を付けないだろうものにもがっつくことしか出来なかった。魚らしき皿だけはベジタリアンだと断った。
礼をするから何か欲しいものはないかと尋ねたのは、テレビでも鍋でも最新のも製品をプレゼントするつもりだったからだ。だが何を勘違いしたのか高い所に仕舞い込んで届かなくなった瓶を出してくれだの、冷蔵庫を動かして裏に落ちたものを拾ってくれだのあらゆることを頼み始め、ロハンが済ませる度に老夫婦はえらく喜んだ。こちらも悪い気はしない。
そして、
「爺さんは縫い物やったことあるのかよ」
針の穴に糸を通して欲しいと言われたもののロハンは縫い物をしたことがない。糸は簡単にへたり小さな穴に通すのは意外と難しい。
「昔は漁師だったからね。漁に使う網は自分で繕っていたよ。だが服の繕いはしたことないな」
「へえーっ。っと、通った」
染みのある針山を見ると何も触りたくなくなるが、
「年を取ると目が駄目になってな、これだけやってくれればいつでも婆さんが繕い物が出来る。ありがたいねえ……」
「そういうもんなんだ」
ドアを叩く音にロハンは手を止める。
老人がドアを開けると防弾チョッキを着た男たちが銃を向けてきた。
その向こうに知った顔を見つけて弾かれたように名前を呼んだ。父の部下だ。
「ロハン君!」
彼は自分を見てぎょっと表情を変えた。そこまでひどい見た目なのか?
「大丈夫です。この人たちは家からの迎えです」
老夫婦に説明し彼らには、
「命の恩人だから脅かさないでもらえる? 後で親父と相談して礼をするから。そうだ、ひとり一本ずつ針の穴に糸通して帰ってよ!」
自分ひとり苦労することはない。
バンに待っていた医者が応急処置にかかる。
「んひぃーーーーーっ!」
痛みに飛び上がりそうになり何度も父の部下に押さえられた。
「これが銃弾だ」
銀色の小さな皿に左足から引っ張り出した弾を乗せて見せられる。よく歩いて来たとロハンは自分を褒めたくなった。
「君の手紙が見つかったんだよ。それでわたしがアウランガバードに詰めていたんだが遠かったんで遅くなった。済まないね」
父の部下が言う。
「途中で場所動かされちまったんです。逃げた時に居たのはプネー~ロナヴァラ間のプネー寄りらしくて」
自分に場所を伝えなかったスンダルやラクシュミへの怒りが再燃する。がラクシュミの会議での冷徹な詰めと彼女を筆頭にした女たちの殺意の目を思い出しすぐにしゅんとなる。
邸宅に居た頃飛ばした紙飛行機を拾った農民から州知事のオフィスに連絡が来て、救出に動く準備を済ませていたのだという。
(礼はたんまりするって書いたもんなあ)
その頃老夫婦の狭い家の中では男たちが膝を並べて針の糸通しと格闘し、老婆はにこにこ笑ってそれを見守っていた。
<注>
・アウランガバード
マハーラシュトラ州内、ムンバイやプネーからは北東にある都市。
開いた目に一面の水色の空が飛び込んで来た。
髪を掻き上げつつ身を起こすと手がぬるりと濡れた。
「うわああっ!」
血だ。血で頭が覆われている。
俺は死んじまうのかとロハンは狼狽した。
手近な草で汚れた手を拭き、足を伸ばして座っていたのを起き上がろうと背を曲げると、
「痛ぇ!」
左臑に熱い痛みを感じ動きを止める。
(何があったんだったか……)
仰げば右手はるか崖から林の木々が乗り出して枝を伸ばしている。
そうだ。警官に追われるうちに左足に鋭い痛みを感じふらついた、途端に崖から落ちたのだ。
左手側はそう大きくない川だ。
ロハンが居るのは、崖の中ほどにせり出した岩のテーブル上に土や砂がたまり、短い草や膝下程度の小木と言えるか言えないかの植物が足元に生えている場所だった。足の側に傾斜して少し下っているが滑り落ちなかったのは小木でひっかかったからだ。
叩き付けられた場所がいつもの練習場のように柔らかく、反射的に受け身を取ったのをぼんやりと覚えている。
川の向こうはまばらな林だ。
せせらぎの音はこの高さまでは届かず、人っ子ひとり見えない。
背中側遠くの地面にプラサットらしき男が横たわっているのを見つけた。服装から間違いない。
生きてはいない。
生きていたら首と体が離れているはずはない。
(……)
兄貴と人懐っこく寄ってきた姿を思い出す。首を背けて眉を寄せた。
(で、俺はこれからどうすりゃいいんだ?)
汗にまみれた太い首を左右に振って様子を覗う。
上からも下からも様子を確かめるのが難しい場所だ。夜、どこかへぶつけた頭から出血して気絶しているのを崖上からのライトで見たなら、死んでいると誤解されても不思議はない。
だがいつロープなど準備を整えて警官共が「遺体」回収にやって来るかもわからない。日の状態からはもう早朝ではない。
首を落とされたらたまるものか!
顔を出して下を覗き込む。地面までは三メートル前後。
持っている一番長いものは履いているジーンズで、これを低木に結んで下へ降りる足しにしたら、
(間違いなくこの低木は折れる。保証する)
だが衝撃を和らげる足しにはなる。ジーンズの長さと自分の身長を足せば三メートルは稼げるのではないか。
ただ万一、無事な方の右足を傷めたら歩けなくなる。
芋虫のように這い回るのでは追っ手から逃げられない。
(どうする?)
やるしかない。いつまでも照りつける太陽に焼かれ続ける訳にはいかない。暑さでやられるか餓死するか警官にとどめを刺されるか。どれも冗談ではない。
ジーンズの裾を細い低木に巻き付け両腕で握ると崖に沿って体を落とす。
ぽきん。
予想通り折れたつまめそうな細い幹。
(パンイチで死ぬのは恰好悪いよな)
回転し今度は意識的に受け身を取った。
それからロハンは長く歩いた。
川に沿って下り、頭の傷をそのままにするのと汚い水で洗うことのどちらが体に悪いかを迷った。流れ出る汗と比例して喉が渇きを訴え、背に腹は代えられず川の水を飲んだついでに頭も洗った。体のあちらこちが痛み左足は引きずっているがそれ以外の問題はない。
頭部は出血しやすいから切り傷程度なのだろうと勝手に決めた。
二度目に川へ入った時浅瀬で横たわり全身を水に濡らした。
目はつぶり口はしっかり閉じ鼻はつまみ、ヤバそうな水を体内に吸い込まないようには気をつけた。こうでもしないと暑くて歩く気力がわかない。水に入ると警察犬が追跡出来ないと聞いたから一石二鳥だ。
崖は次第に下がりまばらに細い木が生えた乾いた大地に光景が変わった。一方川向こうには林がある。
浅そうな場所で川を渡り始めたが、膝下の深さで足を取られて転倒し、左足の不自由さに立ち上がれず流され出した。溺れるかと思うほど水を飲み込みながら見つけた岩にしがみ付きかなり下流で向こう岸に上がった。
時々遠くの尾根に畑仕事らしい男たちを見る以外人は行き交わず、追っ手も見られなかった。木々の陰をたどってしばらく下流へ歩き、額の暑さに耐えられなくなった頃に休憩を取った。
木の幹に寄りかかり座ったまま眠り込んだ。
目が覚めた時には少し日が弱くなっていた。午後もかなり回ったのだろう。
反対側の岸に小屋のようなものを見つけたのは空がうすく赤みがかってきてからだ。
倉庫かと思ったが洗濯物を干してあるところを見ると住居らしい。
このあたりは先ほどより深そうで渡る自信がない。
結局浅い場所まで来た道を三十分以上戻ってから渡った。
(こんなひでー所にどんな奴が住んでいるんだよ)
金具が外れたドアを叩くと、現れたのは白髪の束が踊るように頭上に立つシワの深い老人だった。
「えっと、遭難しました。迎えを頼みたいんで電話を貸してもらえませんか?」
小さな小屋には老夫婦が住んでいた。
父親に連絡をして迎えを待つ間、彼らは怪我の手当をし、水や食事を提供した。
豆がわずかでやたらと辛いダル、やはりチリがきつく青菜と何かわからないものの炒め物と普段なら手を付けないだろうものにもがっつくことしか出来なかった。魚らしき皿だけはベジタリアンだと断った。
礼をするから何か欲しいものはないかと尋ねたのは、テレビでも鍋でも最新のも製品をプレゼントするつもりだったからだ。だが何を勘違いしたのか高い所に仕舞い込んで届かなくなった瓶を出してくれだの、冷蔵庫を動かして裏に落ちたものを拾ってくれだのあらゆることを頼み始め、ロハンが済ませる度に老夫婦はえらく喜んだ。こちらも悪い気はしない。
そして、
「爺さんは縫い物やったことあるのかよ」
針の穴に糸を通して欲しいと言われたもののロハンは縫い物をしたことがない。糸は簡単にへたり小さな穴に通すのは意外と難しい。
「昔は漁師だったからね。漁に使う網は自分で繕っていたよ。だが服の繕いはしたことないな」
「へえーっ。っと、通った」
染みのある針山を見ると何も触りたくなくなるが、
「年を取ると目が駄目になってな、これだけやってくれればいつでも婆さんが繕い物が出来る。ありがたいねえ……」
「そういうもんなんだ」
ドアを叩く音にロハンは手を止める。
老人がドアを開けると防弾チョッキを着た男たちが銃を向けてきた。
その向こうに知った顔を見つけて弾かれたように名前を呼んだ。父の部下だ。
「ロハン君!」
彼は自分を見てぎょっと表情を変えた。そこまでひどい見た目なのか?
「大丈夫です。この人たちは家からの迎えです」
老夫婦に説明し彼らには、
「命の恩人だから脅かさないでもらえる? 後で親父と相談して礼をするから。そうだ、ひとり一本ずつ針の穴に糸通して帰ってよ!」
自分ひとり苦労することはない。
バンに待っていた医者が応急処置にかかる。
「んひぃーーーーーっ!」
痛みに飛び上がりそうになり何度も父の部下に押さえられた。
「これが銃弾だ」
銀色の小さな皿に左足から引っ張り出した弾を乗せて見せられる。よく歩いて来たとロハンは自分を褒めたくなった。
「君の手紙が見つかったんだよ。それでわたしがアウランガバードに詰めていたんだが遠かったんで遅くなった。済まないね」
父の部下が言う。
「途中で場所動かされちまったんです。逃げた時に居たのはプネー~ロナヴァラ間のプネー寄りらしくて」
自分に場所を伝えなかったスンダルやラクシュミへの怒りが再燃する。がラクシュミの会議での冷徹な詰めと彼女を筆頭にした女たちの殺意の目を思い出しすぐにしゅんとなる。
邸宅に居た頃飛ばした紙飛行機を拾った農民から州知事のオフィスに連絡が来て、救出に動く準備を済ませていたのだという。
(礼はたんまりするって書いたもんなあ)
その頃老夫婦の狭い家の中では男たちが膝を並べて針の糸通しと格闘し、老婆はにこにこ笑ってそれを見守っていた。
<注>
・アウランガバード
マハーラシュトラ州内、ムンバイやプネーからは北東にある都市。
応援ありがとうございます!
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