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第2章 これは生き残りのゲーム(2日目)

2ー5 祈り

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 礼拝室は広間の玄関側、ベジタリアン食堂奥にある。通路を入った奥が第一礼拝室(ヒンドゥー)、第二礼拝室は(その他)と平面図に書かれていた。

 クリーム色のカーペットが敷かれた部屋に折り畳み椅子が数脚。前方に棚があるだけの殺風景なスペースで、
「馬鹿にしている」
「やっぱりそう思う?」
 シャキーラの言葉に昨夜一度入ってみたというマリアが大きく頷く。
 ヒンドゥー教徒以外の七人揃って部屋に入った。
 前方に楽譜を置くような金属製の書見台が三つ並んでいる。左からクルアーン、聖書、グル・グラント・サーヒブ。
 三つの宗教で大事されている聖典があればいいだろうとばかりに陳列されているのはいい気持ちはしない。
 この時点でジャイナ教徒のバーラムは、自分は部屋で礼拝するのでここは使わないと抜けた。

 信徒がいないシーク教のグル・グラント・サーヒブは横に、クルアーンを前方、聖書を後方に設えそれぞれの礼拝場所と決めた。金曜はムスリム、日曜はクリスチャンが優先。ただし、
「問題は今日は何曜日かってことだ」
「体調やその他の状況から、昨日が校外学習の日だと僕は判断している。だから今日は水曜日、と仮定しておけばいい」
 目が覚めて空腹だがそこまで酷くはなかった。
 注射や点滴の跡もなく栄養補給していないなら昨日が当日だ。
 そうアッバースに答え、次にムスリム定例の祈りの時間を尋ねる。
「その間は遠慮するからさ」
「いや、場所分けたんだしそこはいいと思うぜ。ただ方向がな……何もないだろ?」

 イスラム教徒がメッカに向かって礼拝するのは知っている。普段アッバースはムスリム用のアプリでお祈り時間や方向をチェックしていた。
「ヒンドゥー教徒は神像を東に向けて据えることが多い。向こうの礼拝室、ちょっと見たけどこの方向に神様の像や絵が並んでた」
 腕で男子棟方面を示す。
「礼拝室自体北東に置くことが多い。ならばここは北東の隅だ」
 玄関側の壁が北で振り子時計が南、男子棟が東で女子棟が西となる。
 今朝は見る余裕がなかったが、
「昨日の夜中央窓が開いた時に少し風が吹いていた」
 ラクナウ周辺でこの時期の夜風方向から幕の揺れを考えても、仮想した方角とは矛盾しない。
「君たちには大雑把なところでは役に立たないだろうけど」
 横のアッバースに微笑む。
「いや。……ベストを尽くせばアッラーは聞いてくださるだろう」
「夜外に出た連中は月見てたりしないか?」
 ダウドが口をはさむ。その時間の月の位置でもおよその方位はわかる。
「サントーシュは見えなかったそうだ。シュルティからは聞いていない」
 首を横に振った。


 ひと通り決まるとムスリムたちはお浄めのため一旦解散した。
 スティーブンとマリア、ルチアーノで聖書の回りに集まる。
 マリアが聖書をぱらぱらと開いて、
「ここだ!」
 と手を止めた。
(聖書占いか)
 ルチアーノは控えめに眉をひそめた。
 開いたページで何かを得ようとするその手の使い方は好きではない。
 占いや呪いはイエス様が嫌ったもの、関わってはならないと施設の先生から厳しく教えられた。
(だけど俺の名前が「ルチアーノ」になったのはインド占星術ジョーテーシュで最初の文字はRだって出たからだ)
 名付け親の恩人の名だそうで、
(外国人の神父あたりだろうけど。ジョンとかジョージとか目立たない名前の方が良かったよな)
 名乗る度に相手を困惑顔にさせる珍しさは迷惑だ。
「コリント第二 12」
 マリアが示したページをスティーブンが読む。


 ……すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。


 痛いところに刺さった。
 悪い連中に監禁され行き詰まっていることは間違いない。
 そして自分は強くない。我がクラスのスター男子三人、このスティーブンとアッバースとナラヤンはまともではない状況下でも皆のために働いている。『Out of rules!』が降りてこないようにと小さくなって身を隠すだけの自分とは大違いだ。意図せず自嘲の笑みが浮かぶ。
 主の祈りを一緒に唱え、スティーブンが、
「わたしたち皆が早く悪しき者たちの手から逃れられますように」
 と述べてから跪きそれぞれの祈りに入った。
 しばらくして、
「ルチアーノ。何か歌わない?」
 マリアが丸い目で頼んできた。

 ルチアーノは学生聖歌隊の隊員だ。
 学院併設の教会で毎日曜日歌い、学校行事にも出るのでクラスの人間は皆知っている。
 歌うことが好きだったので学内のポスターを見て気軽に入隊したが聖歌の歌唱はボリウッドソングやインドポップスとは全く違った。
 子どもの頃からの聖歌隊経験者が多く、神様の歌を歌える喜びに浸ったのは初めのうちだけで今では劣等感製造機だ。音程は外す、声が伸びない、それ以前にまともに声が出ていない。
 大人の方の聖歌隊はこれまた音楽を専攻したセミプロもいる本格派だ。合同練習の時など逃げ出したくなる。
 神様の元、聖霊の働きがある場所だから自分にも優しく、歌い方も親切に教えてもらえるがこれほど出来ない自分が社会に出たらいったいどうなるのだろう。
 考えると恐ろしかった。
 それでも皆の厚意に甘え、学校でも施設でもない場所に安心もしている。神様に奉仕する場所を利用する自分をルチアーノは冷たく眺めていた。
 という訳でレパートリーはあまりないが、
「『聖母マリアをあがめよ』はどう?」

 Jai Jai Jai maa Mariya

 落ちこぼれ聖歌隊員の自分がリードを取りマリアとスティーブンが後に続く。
 マリア様がイエス様をいつくしむように、神様が自分たちをあわれんで早く救ってくださいますように。芯から祈りを込めてルチアーノは歌った。
 母の愛などわからない。マリア様がどのようにイエス様を愛していたのか想像がつかない。だが助けて欲しい気持ちは本物だ。


「綺麗な歌声だったな。さすが聖歌隊!」
 部屋を出ていくルチアーノにアッバースが声をかけた。普段なら背中を叩いていくがしなかったのは、礼拝前のお浄めを済ませていたからだろう。
 彼がやたらと自分に話しかけてくるのは奨学生同士の気安さだ。クラスでは他にアディティがそうだが彼らは成績優秀者が学費免除または減免になる本物で、自分は学院と同じ修道会の施設にいて入試に通れば学費を出してもらえるだけの別系統だ。それが証拠にいつも上位のふたりとは成績が全く違う。
 その辺分かりそうなものだがアッバースは気にしていないのだろうか。
(……本当に凄い奴は気にしないんだろうな)

 さて、神様にはお願いした。自分はどう生き延びようか。
 何をどう使うのが一番有利か。
 父も母も知らない自分がこんな場所で人知れず死ぬなど悔しすぎる!
 


<注>
※聖書は新共同訳より引用しました
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