ヒーロー

ヨージー

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1.日常

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 木乃美は夏用の制服に袖を通す。冬服とは感じる重みが全然違う。気持ちまで軽くなったような気がする。姿見で全身を確認。木乃美の部屋は日当たりが悪い。安定した光の元で姿見を見るために、朝の陽ざしをカーテンでふさいで、部屋の明かりをつけた。
「うん、いい感じ」
 そういうと今度は鞄を持って再確認。意味もなくポーズをとってみる。前髪に違和感。木乃美はあまり用途通りに活用されない自分の勉強机の引き出しから櫛をとりだす。
「木乃美そろそろ出かけないと」
 木乃美は母親の声でげんなりした。元来母親というものは、現実を感じさせる一つの能力があると感じている。木乃美がどれほど自分の世界に浸っていても、その声一つで現実に引き戻されてしまう。
「今行く」
 木乃美は扉越しに母親に対して張り上げた声にもまた現実を実感するのだった。自分の部屋を出ると母親はもうそこにはいなかった。洗濯カゴを持って家の奥へ向かっているのが見えた。木乃美は母親と反対方向、玄関へ向かう。木乃美の家は平屋で庭付きだ。個人的には階段付きの家にあこがれているが、友達にそれを話すと、疲れるだけだと一蹴されてしまったことがある。木乃美は学校指定の革靴を履く。二年目の革靴は傷みが目立つ。一度父親の靴墨を試そうかとも思ったこともあったが、説明を読んだ時点であきらめた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
母娘のやり取りは家の端と端で声を張り上げて交わされた。外に出る。あまり快晴とは言えない。鞄に折り畳み傘があることを鞄越しに手触りで確認した。天気は優れないが今日は勝負に出なくてはならない。天気のよい日を選んで、占いの順位のよい日を選んで、髪のまとまりのよい日を選んで、勝負に出たかったが、それは叶わなかった。天気はいまいち、占いは最下位付近、髪を整える点に至っては母親によって邪魔されてしまった。それでも、と木乃美は胸に手を当て気持ちの高ぶりを抑えて決意を新たにする。今日が、木乃美の片思いの相手の誕生日なのであった。

 透は空を見上げる。暗い雲が見えた。傘は持ってきていない。帰りに買わなければならないだろうか。透は学校まで徒歩で通学している。学校までは歩いて二十分程度だが、学校は坂の上にあり、労力的には徒歩の方が楽だと考えている。友人は自転車できた方が帰りは楽しいというやつもいた。その点は鼻で笑うことでごまかした。透が徒歩で通学するのはもう一つ個人的な理由があった。透は歩くから、という理由で家を早く出ている。しかし、透は結果として毎日学校で時間を持て余している。すべてはタイミングの話だった。透の右側の道路を水色のバスが通り過ぎる。透は車内に目を凝らす。水色のバスには動物がモチーフのキャラクターがところせましとプリントされている。バスは透から二軒ほど先の家の前で停まった。家の前では母子が待ち構えている。小さな子どもは今にも泣きだしそうだ。母親の後ろに回り込んで隠れた。いつもの光景。そして、停車したバスからいつものあの人が降りてきた。長い髪の毛を後ろで束ね、束ねた髪にはウェーブがかかっている。子どもの泣き声が聞こえた。
 初めて清水さんと出会ったのもこの場所同じ時間だった。通園を嫌がる一樹くんが、逃げ回った果てに透の陰に隠れたのだ。透は一樹のことを内心キューピットだと考えている。
「あ、透くん。おはよう」
清水が振り向きながら挨拶してくれた。透はその振り向きに弱かった。一瞬を噛みしめて応える。
「清水さん。おはようございます」
一樹の母親が一樹を自分の背後から歩道に連れ出す。一樹の声が一段と悲壮感を増した。一樹は透の気持ちを知らずに毎日のように繰り返されるやりとりから、透も清水と同じく、自分を母親から引き離す敵と認識しているようだった。一樹は前後を母親とバスに挟まれ、左右を清水と透に挟まれる。いつも通りだ。今日の一樹は最後の逃走先に透の方向を選んだ。透は両サイドに手を広げ、一樹の必死のタックルの行く手を阻む。一樹が苦肉の策で股下に突っ込んでくるも、透は両ひざで透を挟み込んだ。透は運動神経にあまり自身はないが、サッカーのゴールキーパーならできるのではないかと思ったが、低い位置に蹴り込まれるボールしかとれないか、と思いなおした。捕まった一樹は透の顔を泣きじゃくりながら見上げる。泣き脅しをしているのかもしれない。透は涙をこぼすキューピットの意に背いて抱き上げた。
「今日も俺の方にきましたね」
 透は腕の中で暴れる一樹の攻撃が届かないように腕を伸ばして距離を離す。
「一樹は透くんのことをお父さんの二番手の怪獣役だと思っているのよ」
 一樹の母は透に笑いかける。
「怪獣役?」
「男の子って、自分をヒーローに見立てて、敵と戦いたがるものでしょ」
 清水さんが情報を補足した。
「俺は一樹にとって倒すべき敵なんですね」
 透は一樹を見て少し微笑んだ。
「気に入られてるってこと」
清水は透から一樹をもらい受ける。瞬間透の指に清水の指が触れた。心拍の上がる間もない一瞬の出来事だった。
「今日もお勤めごくろうさま」
 清水の目くばせが透の瞳のレンズに今日のとっておきの一枚として焼き付いた。バスに連れ込まれた一樹の泣き声がまだ聞こえてきている。清水は一樹の母親と透を一瞥してバスに乗り込んだ。バスの扉が閉まる。一樹の母親が透に挨拶をして家に戻っていく。透は通学路を歩き出す。バスが動き出した。透はバスの窓越しに清水の横顔を最後に眺めた。バスは緩やかに加速していく。もう車内は見えない。透は空を見上げた。瞳に焼き付けた清水の写真を頭の中のフォルダに格納していく。透は視線を前に戻す。バスはすでに二つ先の信号にいた。バスが左折する。透は目を凝らし見えない清水をそれでも見ようと試みた。すると、別のことが視界に入った。
「自転車?」
 何か大きなものがバスの後輪前に投げ込まれたように見えた。バスがそれを乗り上げてバウンドする。バスが停車した。扉が開く。清水がバスの外に出てきた。何に乗り上げたのか確認しているのだろう。透はそちらへかけだした。通りの陰から清水の後ろに男が近づくのが見えた。運転手だろうか。いや、違う。透がそう思った時のこと、清水がしびれたように一瞬硬直した。男が清水を抱えるのが見えた。
「清水さん」
 透は思わず叫んでいた。走る速度を速める。男はバスに清水ごと乗り込んだ。透は全力疾走していた。透がたどり着く目前、バスの扉が閉まった。バスの中から一樹がこちらを見ていた。バスが動き出した。先ほどバスの下に投げ込まれたものが自転車であったことが分かった。加速が早い。透はバスをたたく。清水は何をされたんだ。
「おい、停まれ」
 透の声は無力だった。バスはすでに透の足の速さを越えた速度になっていた。

 木乃美は通学にバスを使っている。通学時間のバスは通学する学生以外では大学生や主婦、高齢者が中心だ。しかし、木乃美がバスに乗り込んだときスーツ姿の男がいて少し違和感をいだいた。会社員は学生よりも早い時間のバスを使う。木乃美は部活を最近さぼりがちだ。あまり物事に熱心に打ち込むタイプではない、と自覚している。同じ部活の友だちは華の高校生活を部活で輝かせずに過ごすなんて、と驚きや呆れ顔で反応する。しかし、姉の居る木乃美は、私立高校などでは、クラス全員が部活動に取り組むという文化も薄く、逆に部活に入会している人の方が少ないと聞いていた。自分の周りの常識を押し付けないでほしいものだ、と木乃美は自分の中に考えを持っていた。でも木乃美は、友達の言葉は、木乃美が試合に出れば勝てる、という目算あっての誘いなのも知っている。でも、木乃美には別に目標もある。それに実のところ完全なさぼりというわけでもない。むしろ、より過酷なトレーニングをかせられたりもしていて、今日はそれもあって遅刻前提の通学時間だ。
 木乃美の前の席にスーツの男が座っている。見るからに落ち着かない様子だ。トイレが近いのか、と考えて少し笑いそうになった。男は暗い画面のまま黒の携帯電話を握りしめていた。男はバッグから紙袋を取り出した。宛名の書かれた印刷用紙が貼られている。郵便物だろうか。バスのアナウンスで停留所の名前が伝えられる。前の席の男が身を固くしたことが分かった。男が停まることを知らせるブザーを鳴らした。バスは信号で一度停車した。男が貧乏ゆすりをしている。男が腕時計で時間を確認した。明らかに様子が日常生活と違う状況のように見えた。バスが停留所についた。男が立ち上がる。木乃美は少し違和感がした。男は電子端末で支払いを済ませ下車する。木乃美は視線を戻す。座席に男が手に持っていたはずの紙包みと携帯電話が置き去りになっていた。木乃美は思わず立ち上がり、それらを持って男を追おうとする。後ろで物音がした。下車しようとしたところで、運転手に止められる。
「ちょっと、運賃払ってよ」
「あ、今降りた人の忘れ物が」
運転手がいぶかりながら小包を見ようとしたとき、先ほどとは別のスーツ姿の男がそれらを勢いよく奪い取ろうとしてきた。携帯電話はとられた。木乃美は小包ぶつかられた際に強く握ってしまい、男がバスを下車するのにつられて、一緒に下車してしまった。
「きみたち」
 運転手の声が聞こえた。男が小包を奪い取ろうと木乃美を振り回す。強盗なのだろうか。木乃美は手を離すべきか迷った。すると、男は木乃美のことを無視して、小包をつかんだまま、バスの前方を通って対向車線に移動しようとした。バスの中から運転手が出てくる。木乃美が事態のおかしさを優先して小包から手を離そうとしたとき、甲高いブレーキ音が聞こえた。木乃美は男に突き飛ばされた。
 バスを追い越そうとした車だった。男は数メートル移動している。木乃美は状況を見て、戸惑うバスの運転手をよそに、追突された男の元に駆け寄った。追突した車から運転手が出てきてこちらを見ていた。追突された男はそれでも道路に散らばった小包と携帯電話を回収しようとしていた。立てないようだ。木乃美はそれらを見るに見かねて男に引き寄せた。
「くそ。君、すまない、その小包と携帯電話を九時までに芦屋湖の管理センターにもっていってくれ」
 木乃美は何を言われているのかわからず呆然とする。
「む、子どもが誘拐されているんだ」
 男は震える手で懐から携帯電話を取り出した。画面には暗い部屋にいる数人の子どもたちの画像が表示された。
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