学生旅行紀

ヨージー

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旅行

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 蒸し暑かった日中に比べ、夜は過ごしやすくなった。とはいえ、夕食のラウンジに居る以上、単に会場の空調の話かもしれない。ラウンジには数組しか宿泊客は見られない。須田の話では、ここのオーナーがあまり集客に積極的ではないらしい。それでも営業が立ち回っているのだから、隠れ家ホテルとしての立ち位置はしっかり確保できているのだろう。卒業旅行には少し早いタイミングだったが、四年生になると、配属される研究室によっては、時間を合わせづらくなるだろうとの判断と、このホテルのオススメが夏であることでこの時期になった。でも、彼らとは、またどこかのタイミングで第二回卒業旅行なんてことにもなるかもしれない。けれど、今回ここに来ることができたのは幸運としかいいようがない。もちろん学生には少し高めの料金以上のサービスや、立地にもとても満足できたし、今戴いている料理の品々も、とても日常では味わえないと感じている。しかし、何より彼女だ。ラウンジの隅にある簡易バー。そこで一人カクテルを傾ける彼女だ。彼女は日中、三人で滝が見えるという高台を見に出かけたときにであった。まさか同じホテルだったとは。

「吉永、お前見すぎだろ‥」
「須田、邪魔するな」
吉永は視線をこちらに向けず言った。
「恋愛脳め」
吉永は嫌味に反応しない。
「澤村、こいつどう思う?」
「待て、吉永。あそこの席見てみろ」
澤村は窓際の席を小さく指し示した。そこには年齢差のある男女が二組座っていた。
「なんだ知り合いか?」
「いや、エイチエムの代表にしか見えない」
「なにそれ?」
「おれ、あそこのインターン狙ってるんだよ」
「え、そんな偶然の出会いあるか?」
「だから驚いてるんだろ。これって挨拶行くしかないよな‥、神様の采配だろ?これ」
「おい、今呑んでるんだぞ。まずいだろ」
「いや、今しかないって、ちょっと行ってくる」
「やめとけ、澤村」
澤村は、話を聞かずに席を離れてしまった。
「ちょっと、俺も行ってくる」
吉永も席を離れてしまった。少し沈黙。なにが卒業旅行だ、と投げやりにならなくもないが、普段から彼らとまとまりをもって物事に取り組めたことなんてなかった、と思い直した。彼らとは大学の同じ学科で、一年のころの教養の授業でグループディスカッションをして以来、ことあるごとにつるんでいる。授業によっては二、三人他にもメンバーが増えたが、最低三人は自分たちで常に変わらなかった。サークルに所属しなかった自分にとって二人は最も親しい学友であることに違いなく、大学という、人が多いのに、関わり合う密な時間のない、自由過ぎる環境では貴重な存在だった。吉永はサークルに複数所属している身ではあったが、不思議といつ声を掛けても誘いについてきてくれ、澤村もバイトを掛け持ちする中で時間を作ってくれた。二人とも付き合いはいいが、いざ集まると、今回のように自分の関心事に向かってしまって、集まってる心地がしない。自然体、というのが最も近い表現だろう。気楽なのは構わないが、こうもバラバラだと卒業旅行としての甲斐がない。
「何かおつぎしますか?」
給仕の女性に話しかけられ、現実に戻る。
「あぁ、日本酒でオススメありますか?冷やで一合お願いします」

「あの‥、もしかして株式会社エイチエムの相馬代表ではありませんか?」
澤村は、自分の手のひらが嫌に汗ばんでいるのを感じた。
「ん、あぁそうだが、どこかで会ったかな?」
四人組の話を中座させ、四十手前を感じさせない凛々しい体つきの日焼けした男が反応した。
「はい、ええ、私、澤村文敏と言いまして、御社を進路に志望しようと考えております」
変に上ずった声が自分で恥ずかしい。
「はあ、なるほど、私たちの会社も有名になったものですね、萩谷さん」
相馬はグループのなかの彼より年上に見える男に話しかけた。親子ほど年は離れていないだろうと澤村は目算した。
「驚きですね、相馬さん創業時から考えれば全く考えられない」
萩谷と問いかけられた男が言うと、隣の女性が微笑んだ。
「奥様もお喜びですね」
相馬は萩谷に話しかける。どうやら、萩谷の隣の女性は萩谷の妻らしい。
「食事中になんの約束もなしに話しかけるのはどうかと思いますよ」
相馬の隣の若い女性にやんわり睨まれた。その女性の視線は食事中の相馬らの雰囲気を壊さないようにやんわりとして見えたが、澤村への視線には怒りが感じられ、話しかけに来た自分の踏み切りを大いに後悔した。
「いいじゃないか篠田さん、若者らしい熱心さだよ」
「そう仰られるなら私は構いません。失礼しました」
篠田と呼ばれた女性は相馬を優しく見ると澤村に非礼を詫びた。澤村は既に酔いが覚めるほど自分のした行動に動揺しており、早く立ち去りたい気持ちになっていた。
「すまない、君。一人同席者が増えたんだ、一席頼む」
給仕に相馬自身が声をかけた。
「さあ、まずは志望動機から聞かせてもらおうかな」
相馬のその問いかけに澤村は頭の中が真っ白になった。二人の元に帰りたかった。

「お昼過ぎにお会いしませんでしたか?」
女性がグラスをテーブルに置いて視線をこちらに寄越した。
「私は覚えてないわ。はじめまして」
少したじろいだが、まだ大丈夫。
「確かに話したのは、はじめてです。はじめまして。でも、滝を見に行かれたでしょう?」
「確かに行ったかもしれないけど、そんなに浸れる気分ではなかったの。だからあまり印象に残ってないわ。ごめんなさい」
吉永は、穏やかに視線を逸らしながら、グラスを手に取る女性のしぐさを見て、内心の高ぶりを感じた。
「お一人でいらしたのですか?」
吉永は女性の隣の席に腰かけた。
「座るのなら、何かお飲みなさい」
女性は軽くはにかむ。これは手強いぞ、それに大人だ‥。このオーダーすら試されている気がする。
「ジンリッキーをいただけますか?」
吉永はバーテンにオーダーする。
「ジンは何にいたしますか?」
「お、お任せで」
吉永は横の女性をちらりと盗み見た。女性は、自分のグラスを眺めているだけだった。
「俺は吉永といいます。あなたの名前は教えてもらえますか?」
今日は自分が強気な気がした。二人に見られているかも、と見栄をはっているのだろうか。頭を切り替えてその場に集中する。
「質問が多いのね。私は大場といいます。一人で宿泊しています。満足?」
吉永は彼女の、大場の少し投げやりな口振りになおのこと好感を抱いた。
「いえ、すみません。質問責めにするつもりはありません。少し一緒に呑みませてください」
「君は、吉永くんは学生でしょう?年上の女性にずいぶん強気ね」
「ここはバーですし、少し大人らしくしようかと」
「それ関係あるの?」
大場の視線はくすぐったい。冷静さを損なわないように気を引き締める。
「ここはネットに広告を出していないと聞いてますが、どちらでこちらをお知りになられたのですか?」
「また質問ね。私はあまり人の集まらない静かなところを探していたの。そしたら縁あってここのことを聞いた、だから来ました」
「どうして人の集まらないところを探していたんですか?」
大場の視線がこちらから少し逸れた。
「吉永くんグラス空いてるわよ」
手元を見るとグラスが空きそうになっていた。緊張のあまり早くあけてしまったようだ。
「こちらのかたに、そうね、ジンビターズをお任せでお願いするわ」
大場はバーテンに声をかけた。バーテンの表情が少し揺らいだ気がした。

「お料理はいかがでしたか?」
身なりの整った男が須田に話しかけてきた。
「え、ええ、とても美味しかったです」
「左様ですか、それはありがとうございます。私はこのラウンジを長年仕切っております佐藤と申しますが、学生だけでのお客様は初めてでございます」
佐藤と名乗る男の表情は確かに年齢を重ねているようだと分かるが、その立ち姿は年齢を感じさせない。
「あまり馴染めていないでしょうか?」
須田の質問は、この計画の前段階から気がかりだったことだ。
「とんでもございません。お客様はお若いのにしっかりしていらっしゃる。こういう仕事をしているとお若い方と話す機会も減ってしまいますから、予約を確認したときから宿泊された際にはお話したいと考えていました」
「ありがとうございます。佐藤さんはこちらが長いのですか?」
「ええ、私はこちらの創業のころよりおります。一時は当ホテルの経営方針から傾いた時期もありましたが、本日ちょうどあちらにいらっしゃる相馬様のご援助をもって持ち直しました

視線を追った須田は、椅子に掛けながらも、緊張で体を固くしている澤村が見えて、後悔しているであろう心中を察した。
「おや、お連れの方は相馬様のお知り合いでしょうか?」
佐藤の言葉にどうやら、どこの馬の骨と分からぬ学生が、恩あるお客様にちょっかいを出していることへの注意だと直感した。
「ええ、詳しくは知りませんがそのようです。私は止めたのですが聞かなくて」
佐藤の探るような視線に気づかない振りをする。
「では明日は朝の八時から朝食となりますので、そちらもお楽しみにしていてくださいませ」
佐藤はこちらに笑顔を見せてからゆっくり立ち去る。須田は時計を見た。もうすぐディナータイムが終わる。二人とももう席に戻ってくる気はないらしい。
「部屋にお酒はお願いできますか?」
さきほどの女性の給仕に声をかけた。
「大丈夫ですか?」
給仕は怪訝そうだ。
「ああ、学生ですけど、今日のためにしっかり資金は用意してきましたから」
「あ、いえ失礼しました。そのさきほどからかなりお飲みになられているようでしたので」
「三人分飲まないといけないのでね」
給仕の表情が困惑する。
「すみません、こちらの話です。問題なければあとで部屋からエントランスに電話します」
気を取り直した給仕が仕事らしく振る舞う。
「ええ、それで問題ありません。オーダーは午後十時半まで承れます」
須田は友人二人の現在地をそれぞれ確認してから、席をたった。
「全く楽しい旅行だよ」

「へえ、じゃあ澤村くんはお友達とここに来たんだね。お友達はいいのかい?」
相馬はあたりを見回している。
「いえ、彼らにはいつでも会えますから」
澤村は膝上で拳を固めて、声が上ずらないよう気を付ける。
「でも学生のころの友人は大切にした方がいい。社会にでると価値観の近い相手なんてそうそうであえない」
萩谷はビールをあおぎながら、声をかけてくる。
「あまり呑みすぎると体に障りますよ」
萩谷の妻が夫を気遣う。
「酒くらい自由に飲めないとむしろ寿命が縮む」
「健吾さん、由利さんの言うとおりですよ」
さきほどの視線のするどい篠田が言う。澤村は篠田の目を見れない。
「む、瞳にそう言われると返せんな」
萩谷健吾はグラスを机においた。
「澤村くんがおいてけぼりになっているよ」
相馬が澤村の肩をたたく。
「一応説明しておくと、萩谷はうちの創業メンバーで、篠田くんは萩谷の推薦でうちに入ったんだ。確か‥」
相馬はにこやかで酔いがまわっているようだ。
「家内の友人の娘でよくうちに遊びに来てたんだ。話すうちにうちの会社にピッタリだと思ってね」
萩谷健吾が相馬を捕捉した。
「いや、ほんとに篠田くんが居てくれて助かってるよ」
相馬は澤村に語りかける。
「君にも期待しているよ澤村くん」
相馬は澤村の肩をガシガシ叩く。澤村は思わず相馬の目を強く見てしまう。
「あまり期待させない方がいいですよ」
篠田の一言に澤村はまた視線を落とした。

 目が覚めた。上半身だけ起き上がるとひどい目眩がした。頭の重心がおかしい。布団に戻る。横目に状況を確認する。これはホテルの自室だ。二人はどこだろうか‥。不意に強い吐き気を感じた。起き上がろうとするもふらつく。その場を堪えてやり過ごした。
「あ、起きたか。吉永」
「澤村、か‥」
旅行をともにしている友人が話しかけてきた。シャワーを浴びたようだ。頭をバスタオルでふいている。
「お前昨日はよくも」
澤村は眉間にシワを寄せている。澤村は無愛想で表情の変化に乏しい。彼が見るからに怒っている。こういう事態はいつ以来だろうか。
「昨日。昨日って、あ、大場さん」
立ち上がろうと力んだ途端吐き気を感じて、今度こそトイレに駆け込んだ。
「大場さんて、昨日のあれか。バーで話してた人か」
部屋のトイレの戸を閉めずに倒れこんだため、扉の脇から澤村がこちらを覗き込んでいる。
「お前、人の色恋沙汰を観察して楽しいか?」
こちらとしては強い反感を示したかったが、体に力が入らず、腑抜けた声がでた。
「俺は昨日この先の人生かかってたんだ。お前のあたふたを眺めて笑ってられる暇はなかったね」
澤村はまだお怒りのようだ。
「暇って、こっち見てたんだろうが」
吉永は少し楽になり、その場に座り込んだ。
「俺は、自分がこんなに追い込まれてるのにお前が気楽なもんだから恨めしくてな」
「お前さっきから、昨日がなんだったんだよ」
吉永は部屋の小型冷蔵庫から水のペットボトルを取り出した。
「お前、本当に周りに興味ないな」
澤村は自分のベッドに座り込んだ。

 須田は財布を見て、少しため息をついた。やけ酒というつもりはなかったが飲み過ぎた。旅行はまだ序盤だ。この先一度卸さなくてはならないだろう。クレジットは使いたくない。この旅行のために日雇いバイトを詰め込んだが、普段はもっぱら仕送りで生活を賄っている。バイト生活に戻るつもりはなかった。向かいから通路を歩いてくる佐藤と目があった。
「おはようございます。大浴場へおいででしたか」
佐藤は昨晩と変わらず整った装いをしていた。
「おはようございます。ええ、滅多にこんないい浴場これませんから」
「ありがとうございます。ところで昨晩‥、いえ、何でもありません」
佐藤は一礼してすれ違っていった。
「二人は起きているだろうか」
時計を見ると朝食の時間が近づいていた。
「おはようございます」
ジャージ姿の体格のいい男が挨拶してきたので、会釈した。通りすがりの様子からジョギングでもしてきたように見えた。今から大浴場に行くのは、ゆっくりできないのではないか、と思った。部屋にいるであろう二人は恐らく用意に手間取るであろうという経験則があったので、一人で先にラウンジへ向かうことにした。ホテルは三階建てで崖に面している崖の見える大浴場が見所といえる。ここまでは須田がレンタカーを運転してきた。最寄り駅から一時間半と、なかなか人里はなれた環境が隠れ家ホテルとしての環境を整えているのかもしれない。今日は車で街中まで戻り、観光した上で安宿に泊まり直す。ここに連泊するだけの資金は自分たちには用意できなかった。そのため、今回の旅行の大きなトピックのひとつであったが、あの二人ときたら、少しむかっ腹がよみがえってきたが、忘れることにした。このホテルにはエレベーターがない。少なくとも客が乗れるものはないのだろう。それくらいの不便さが隠れ家には必要だと思う。須田たちの部屋は三階だったが、大きな荷物は持ってあげてもらえたので、特別不満を覚える機会もなかった。ラウンジに入ると整えられたテーブルが目に入り、宅ごとにネームプレートが配置されていた。

澤村は部屋の扉越しにまだ支度の終わらぬ友人を待っていた。
「そんなに具合悪いなら朝飯は諦めろよ」
「いや、朝飯だけなら諦めてる、彼女が、大場さんが俺を待っている」
吉永は壁に持たれながら服を着替えている。とても人前でていくような健康状態に見えなかった。
「あのさ、俺は昨日の顛末を知っている訳ですよ。分かります?」
「顛末?」
苦痛に顔を歪める吉永がこちらを見る。
「そう、昨日お前はバーともあろう場所で、前のめりに突っ伏して潰れてたんだ」
「なっ」
動きを止める吉永に手を止めないよう促して澤村は続けた。
「バーテンから聞いたけど、お前、大場さん?に強い酒ガンガン勧められて、言われるまま飲み続けてたらしい。完全に遊ばれたな」
吉永は言葉が出ない様子だ。
「んでもって、俺が、将来の就職先候補の面々の前で潰れたお前を引きずって帰ったんだよ。須田もいつの間にか居なくなってて、俺ら二人だけこのホテルの有名人だよ」
澤村は最大限の嫌味をこめて吉永を睨んだ。
「それでも、それでも、大場さんに一目だけでも会いにいくんだよ」
ようやく部屋をでてきた吉永は顔色こそ冴えないが身なりは整えていた。澤村は今日の観光地をガイドブックで眺めていた。

 このホテルは横長で、両端と中央に階段がある。吉永たちの部屋は東西に伸びた建物の西側の階段が最も近かった。しかし、一階の食堂は建物の東端に位置していたため、東の階段を使うために三階を澤村と移動していた。
「もう朝食始まってるな」
澤村が腕時計を見ていう。澤村はバイトの掛け持ちが多いから、時間にうるさい人間になってしまっている、と常々思う。
「須田はもうラウンジに居るだろうね」
澤村はこちらに視線を送る。
「おまえよりあとに起きたんだから、知ってるはずないだろ」
吉永は、途切れ途切れに話す。頭の中が揺れ動く感覚が続く。
「須田は集団行動苦手そうだからな」
「それはあるかも」
「あいつグループでのレポートを、一回勝手に終わらせてたことあったな。集まってグダグダするのめんどくさいつって、結果やり直しくらったけど」
澤村は思いだし笑いをしている。
「そんなに出来がひどかったのか?」
「いや、知らない。ダメだったけど、次の日にはまた提出して終わらせてた」
「変わってるな」
「まあ、そのおかげで俺はバイト休まずにすんだけど」
澤村は旅行雑誌をパラパラとめくっている。
「あそこ誰か居るな」
通路の先に中年女性が居るのが見えた。
「萩谷さん」
雑誌から視線を挙げた澤村が言う。
「お前も人のこと言えないな、何、中年好き?」
「違うよ、おれの未来の就職先の関係者。朝は元気な挨拶しなきゃな」
言うと澤村は雑誌を吉永に押し付けて、早足に女性の元へ向かった。
「おいてくのかよ」
吉永は一人ぼやいたが、澤村には聞こえなかっただろう。視線を萩谷という女性に戻す。彼女は部屋の扉を抑えて立っていたがそのまま腰砕けに床へしりもちをついた。澤村の歩調がそれに気づいて一瞬ためらったように見えたが、急ぎそちらに向かっていった。

 須田は連れが遅いので目の前に並ぶ食事をお預けにされていた。ラウンジには暖かな日差しが差し込んでいて、まだ暑さは感じない。他の客はすでに食事を始めており、昨日吉永が見つめていた女性もいた。食事を始めていないのは自分の他に中年男性が一人。四人グループのようだ、と確認したあたりで、その人物が澤村の話していた会社の関係者だと気づいた。
「お飲み物はいかが致しますか?」
「ああ、おはようございます。では牛乳はありますか?」
不意に話しかけられて少し動揺したが、できる限りの笑顔で応戦した。
「ご用意致します」
給仕が下がるのを見届け、携帯の画面を確認する。二人から特に連絡はないようだ。ラウンジの入り口から日に焼けた男性が入ってくるのが見えた。彼は駆け足に食事前の中年男性の元へ向かった。ホテルスタッフも一人一緒のようだ。着替えていたので気づかなかったが、先程すれ違った男だった。男が何か話すと中年男性が立ち上がり、三人は急ぎ足でラウンジを出ていった。何かあったのだろうか。もう一度携帯を確認するが連絡はない。牛乳が配膳されたのを機に、食事を始めることにした。小さな鍋用の固形燃料に火をつけてもらった。頭の中で今日の旅行プランを一通りそらんじた。もう少し時間にゆとりを持たせた方がよかった、と少し思った。自分の荷物はまとまっているが、二人はどうだろうか。特に吉永はそういった点はルーズだ。以前他の旅行で、学割で購入したチケットが見つからないと、駅の改札前で荷物をひっくり返して乗り遅れたことがあった。澤村の几帳面さを少し見習ったほうがいい。

 吉永に萩谷さんのことを任せホテルスタッフを探して声をかけた。
「人が亡くなっているみたいなんです」
澤村は走ってホテルスタッフを探したが、体には冷たい汗を感じていた。あれは始めてみる生々しい死だった。ベッドに寝たまま亡くなっていた篠田を思い出した。部屋は吐瀉物などの匂いがこもっていた。一目で死体だと分かったのは、篠田の首の異様さからだった。恐らく棒状の何かで首を押し潰されたのだろう。明らかに人の首の正常な形を失っていた。萩谷は一度部屋に入って死体を確認してから、人を呼びにでたところだったのだろうか。部屋は入り口から奥まで見えない。そこまで考えたあたりで、スタッフとともに死体のある部屋まで戻ってきていた。スタッフは死体を見るとすぐに他のスタッフにも知らせてくると、その場を離れていった。吉永は萩谷の背中を擦っているが顔色が悪い。それは二日酔いばかりが理由ではないだろう。ここは人里からかなり離れている、警察や救急はどのぐらいでくるのだろう。仮にここで生死の境なんてことになっていたら、緊急車両の遅れで助かるものも助からないのでは、と考えを巡らせた。
「すみません、こちらに体調を崩された方がいらっしゃると伺ったのですが」
白衣の男性が鞄を片手に話しかけてきた。
「えっと、部屋の中に」
男は頷くと中に入りかけ、こちらを振り向いた。
「あ、私はここの常駐医師で、不動と申します」
男は部屋の奥へ向かっていった。彼はまだ状況を詳しく知らないのだろう。常駐医師なんて人がいたのか、と澤村は少し冷静になった。
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