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6.生きていく中で対面するもの

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脳裏にはあの箱型の部屋が浮かんでいた。
それをケーキの紙箱のように、丁寧な指使いで側面の紙扉を開けてみる。
そっと覗いてみると、朝夕の色違いの太陽光や晩の月明かりがそれぞれ粒となって空中に淡く漂っている。
浮かぶ色とりどりの粒の輝きの中、白い椅子の上で時を過ごす消えてしまいそうな淡い人影。
もし自分にもこの箱が与えられてしまったのならば。
お姉さんのようにその事実を受け止めて、希望を閉ざし、そこに自分を溶け込ませることができるのでしょうか。
ただ、人生に与えられてしまうものは箱に限らない。
何が与えられるか分からない。
“与えられる”という表現はいささか間違っているかもしれない。
それは受け取るものではない。
訪れる。
“対面する”ものかもしれない。



扉を開けると、上部に備え付けられていたベルが歓迎の音を鳴らし揺れた。
夜に足を踏み入れている、薄明るい闇空を背に。
生温かい外気から、トマトソースやガーリックフランスパンの香りがたちこめるカフェに入る。
そこで時間を過ごす人々は、満たされた様子で自分の人生の一時を捧げていた。
顔見知りの店員に頬笑み目配せをして、カウンターの一番端、客に渡して最後に預かるためのメニュー表が数部無造作に置かれている場所の席につく。
この席は一般の客は座らないような物置席。
ただ、私は副店長の妹という小さな権限を使ってこの席を自分の特等席にしていた。
「佳代ちゃん久しぶり」
店員の一人である百夏ももかさんが私の前にあるメニュー表の数部をまとめる。
「百夏さんっ。お久しぶりです。今日も忙しそうですね」
「おかげさまで。新メニューが好評でね。アオリイカと紀州梅・香味野菜の和風パスタ。おいしそうでしょ?」
そう言って、彼女はまとめられたメニュー表の和風そうなパスタを指差した。
「じゃあ、それで」
重い学生カバンを足元の編みカゴに入れる。
仕事に戻る百夏さんの後ろ姿の先には、キッチンに立っている姉の姿。
パスタを一本味見してから、再度塩を振っている。
その姿を私は幾度も強く意識して目にしてきた。
特に、父が夢を求めて突然ベトナムに旅立ってから。
姉は、あの403号室のお姉さんのように限定された箱に入れられてしまっているのだろうか? 
進学校のためアルバイトを厳しく禁止されているのを言い訳に働く苦労を背負っていない私を、姉は与えられた。
いや、そのような状況が訪れ、対面した姉は、より一層強く塩をふるようになった。
濃いめの味にするためではない。
一振り一振りに気持ちを込めて力を入れた。
「生」をまっとうするために。

とりあえず私はいつもそうするように携帯の画面に目をやる。
透也先輩からの連絡はない。
「ナル……?」
ふと浮かんだ言葉をネットで調べようと口に出しかけたが、その言葉は完璧な形に出来上がる前に空中分解された。
あのお姉さんの病気。
なんていう病気だったかな……。
403号室でお姉さんから長く積もった話を聞いた後、濃く重い寂しさをおすそ分けされたような心持ちになり一人でマンションの部屋に戻ることができなかった。
気づいたら姉のいるカフェに足が向いていた。
透也先輩の女友達によく思われていないことを相談するために403号室に出向いたのに、そこではそんな軽量の悩みを相手にするほどのスペースは皆無だったんだ。
だからと言って姉に相談する可能性は一切ない。
それは生まれた時からの契約のようなもの。
「私達は恋の話はお互いしません」と幼い頃に落書き帳にクレヨンでサインしたのだ。
ま、それは私の頭の中で作り出した設定ではあるが、雰囲気的にはそういうものだ。
でも姉にとってはその契約自体必要ないのではないか?
パスタの味見以外に真剣になる姉を想像することができない。

不意に振り向いてみると、カフェの窓からこぼれる灯りが街頭を歩く人々を瞬間瞬間に照らし出していた。
透也先輩……生温かい夜はなんだか気持が悪くなります。
一体何をしているのか分からない父が過ごすベトナムも、こんな気候なんでしょうか?
透也先輩は、この漠然とした説明のしようのない解決のしようのない気持ちが心に現れることはありますか?
私はときどきあります。
そういう時、私は誰かにこの気持ちを聞いてもらえる権利はあるのでしょうか?
透也先輩にはまだ……この気持ちをどう言えば分かってもらえるか分かりません。
「まだ」と言っても、「いつか」分かってもらえる自信があるわけでも……。
深く考え込んだ瞬間、まわりの食欲をそそる香りや食器の音や人々の笑い声が何かに吸いこまれて消滅した気がした。
まるであの403号室のような静けさだ。
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