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第1章
17話―ふわふわパンには魅了の魔力があるようです。
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領主夫妻がお帰りになった翌日、私はソラと共に改めて書斎に呼ばれていた。
アルクさんが使っていた書斎は領主様の仕事部屋だったようで、執務机には現在本来の主であるお父さんが座っている。
「改めて、アーワルド・ローヴェン・アルカンだ」
「えみ・ナカザトです。こっちは契約獣のソラです。アルクさんには大変お世話になっております」
アーワルドさんはアルクさんを素敵なおじ様にしたようなイケおじだった。昨夜は自己紹介くらいしか出来なかったので、今日改めて私がここへ来た経緯や、いかにしてワサビちゃんやソラと契約するに至ったかをアルクさんと一緒に報告する事になったのだ。
アーワルドさんにはワサビちゃんは見えていないそうだ。唯気配は感じているようで、私の肩(定位置)にいるワサビちゃんはぼんやりとした光りの球として認識されている。お屋敷の庭の精霊達に関しては、「今日もいらっしゃるのだろうな」程度だそうだ。
因みにアルクさんのお母さんは魔力が無いらしい。魔力持ちが必ずしも遺伝する、というものでも無いようだ。
昨夜初めてソラと顔を合わせた時は、旅行から帰ったら自分の家に伝説級の獣が居て腰を抜かすところだったと、改めてその時の心境を聞かされた。本当に申し訳なく思う。
アルクさん同様、私の事も異世界人だと直ぐに納得してくれたし、ソラが四聖獣だと直ぐに分かったのだという。明確な何かがあった訳ではなく、直感的な方だと説明された。そういうもんなのだろうか。
来客用のテーブルの方へ移動した私達の手元には、メアリの美味しいお茶と手作りのチーズケーキが置かれている。
今日のは『レア』ではなく『ベイクド』の方だ。
ゼリーのようなプルプルのシュワシュワの舌触りも好きだが、見目麗しい黄金色の焼き具合にしっとりねっとりの口溶けが堪らない、ベイクドチーズケーキが私は大好きだ。
アーワルドさんがやっぱりアルクさんのお父さんだなぁと思ったのは、同じようにチーズケーキを観察しながら吟味しながら食べていたからだ。
「うーん。食べ物が旨くて感動したのは初めてだ」
唸っている時の首の角度まで一緒。可笑しくてつい笑ってしまった。
「えみは表情が豊かで可愛らしいな。それに素直そうだ」
なんと、私を誉める台詞まで一緒ではありませんか。驚きと恥ずかしさで一気に赤面してしまう。
その様子を隣で見ていたアルクさんがクスクス笑っている。
「思った事が全部顔に出てしまうから、そこは少し心配だけどね」
「確かにな。駆け引きは苦手そうだ。……こういう女性はある意味手強いぞ?」
「ええ。今どう攻略しようか目下検討中ですよ」
そんな会話をしながら二人揃ってこっちを見るの止めて欲しい。
きっとそんな風に思いながらチーズケーキを食べている事も、この二人にはお見通しなんだろう。
冗談なのか本気なのか、はたまた父子揃って揶揄われているのか。兎に角早くこの空間から逃げ出したい。そんな事を考えながら、私は目の前のチーズケーキを食べる事に集中するのだった。
まだ話しがあると言って書斎に残った父子と別れ、私は厨房へと向かった。食いしん坊なお友達に食べさせてあげたくて、新しい料理のレシピを試す為だ。
その食いしん坊なお友達は今、二人とも近くの森へ出掛けている。生まれたばかりで魔力の弱いワサビちゃんの訓練の為、ソラが半強制的に連れ出しているのだ。毎日ではないけれど、今日は訓練の日みたい。戦う訓練というよりかは、魔力探知や結界の訓練らしい。私には出来ない事なので力になってあげられないが、お腹を空かせて帰ってくるので魔素の補充の為にも美味しいものを作らなくては。
まずやろうと思ったのは『パン』。
ここのパンは物凄く硬い。それはもうビックリする程。
食パンは作りたいな。あと、あんぱんやクリームパンが出来れば、ティータイムがまた更に楽しくなりそうだ。
想像を膨らませてニヤニヤしながら厨房へ行くと、部屋の前にレンくんがいた。姿を見掛けただけなのに、何故かドキっと心臓が跳ねる。
何だか分からないまま近づくと、こっちに気付いたレンくんが体を向けた。
「どうしたの? 誰か探してる?」
「いや……領主様とは、何を?」
「あ、うん。レンくんとアルクさんに話した事もっかい説明してきた。あとソラとワサビちゃんの契約者になった事も」
「それだけ?」
「? そうだよ?」
「……何か作るのか?」
「あ、そうなの。ふわふわパン作ろうと思って」
「見てって良い?」
「もちろん」
厨房に入ると、早速パン作りの準備をする。
食パンと菓子パンの両方を作るのに、ポーチから二つのボウルと二倍の材料を取り出した。使うのは一緒で、強力粉にイースト、砂糖、塩、バター。後は水。今日は手で捏ねる為、少し熱めのぬるま湯を使う。それらを順にボウルに入れて捏ねていくのだが、これが中々重労働なのだ。
「手伝おうか」と言ってくれたレンくんに片方をお願いし真似てもらう。ぎこちなかった動作は直ぐに様になっていき、力もあるからなのかあっという間に生地がまとまると、つるんとムチっとしたフォルムになっている。
「レンくん上手だね! パン作りむいてるんじゃない?」
「そうかな。でも思ったより力仕事なんだな」
「確かに作るのは大変だけど、苦労した分出来たものが美味しいとそんな苦労も忘れちゃうくらい嬉しいの。皆んなが美味しいって言って食べてくれたら余計にね! 作った方も幸せな気持ちになれるんだよ」
「……そうか」
そこから十五分程しっかり捏ね、表面を引っ張るように伸ばしながら閉じ目を下にまとめていく。一次発酵させるため材料を混ぜ合わせたボウルに閉じ目を下にして戻し、乾かないよう濡れた布巾を固く絞って被せておく。これで生地が二倍程に膨らむまで待つのだ。
その間に食パンの型にバターを塗ったり、菓子パン用のあんことカスタードクリームを準備する。
私はこしあん派なので今日はこしあんパンにしよう。一からあんこを作るには一日じゃ足りないので、今回はパウチのものを使う事にする。
カスタードクリームは割と簡単に出来るし、作る時間もありそうなので作る事にした。
そっちもレンくんが手伝ってくれたので一緒に作った。こんなに長い時間お話しした事が初めてだったから、何だか新鮮だ。最初は変に緊張してしまってどうしようかと思ったけど、パン作りをしていると気が紛れていつも通りおしゃべり出来たと思う。
一次発酵が終わるとガス抜きをして食パンの生地の方を型へと入れる。そのまま二次発酵して焼成だ。
菓子パンの方はベンチタイムを経て、中身を詰め二次発酵だ。
その菓子パン用の生地を切り分けている時、レンくんがポツリと呟く用に言葉を零す。
「えみはアルクさんと恋仲なのか?」
「へぇ?」
あまりにも唐突で変な声が出た。驚いた顔のまま見上げたレンくんは、困ったような戸惑ったような複雑な表情だ。
きっと昨日のアルクさんに手を握られた現場を見られたから、それを受けての発言だったのでしょう。思い出しただけでも恥ずかしい。
「昨日のは、その、話しの流れというか……だからそんなんじゃないよ! 大体アルクさんみたいな素敵な人が私なんか相手にするはずないよ」
「そうかな」
「そうだよ!! ちょっと珍しい髪だし、精霊見えるから何か特別感あるのかもしれないけど、そんなの時間が経てば直ぐ…———」
レンくんの手が私の頬に触れてくる。
何が起こったか分からず、目線を上げて彼を見上げた。こちらに向けられたエメラルドが酷く優しく、穏やかに緩められている。
「な……っ、な…?」
「粉。ついてる」
「あ…ありが……」
驚愕すぎて体が固まってしまった。喉が詰まって声が上手く出てこない。
大きな手が触れたままの頬が熱くて、その熱が身体中に巡っていくようだ。あっという間に身体中が熱くなった。
さっきの感覚を思い出したかのように心臓が音を上げている。その鼓動が耳の直ぐ内側で聞こえている気がして、やけに大きくうるさかった。
「えみ……オレ……」
レンくんが何か言い掛けた時、扉の奥から話し声が聞こえてくる。それがルファーくんとホーンさんの声と分かって、金縛りが解けたかのように体に自由が戻った。
レンくんの手が離れていって、ようやく彼から目を逸らす。心臓はバクバクうるさいままだ。それらを誤魔化すように止まっていた手を動かした。
「そろそろ戻る。邪魔したな」
「あ、うん……手伝ってくれてありがと」
ふわふわパン楽しみにしてると言い残し、レンくんは厨房を出て行った。入れ違いでシェフの二人が入ってくる。
入って来た二人と会話したのは覚えていたものの、その内容を全然覚えてなくて後からビックリした。それくらい今の私は動揺と戸惑いを隠しきれずにいたのだった。
菓子パン作りの続きをシェフの二人が手伝ってくれる。ルファーくんがカスタードクリームを気に入ったようで、これを使ったおやつをもっと作って欲しいと言われた。プリンやタルトが良さそうかな。
またハンナさんとメアリが喜びそうだなと自然と顔も綻んだ。
作業をしながらもレンくんの事が頭から離れず、ときどきぼーっと呆けてはルファーくんとホーンさんから注意を受けるのであった。
こんがりときつね色にふっくらと焼き上がると、たちまちお屋敷中に甘くて優しい匂いが広がった。
訓練から戻ったソラとワサビちゃんを筆頭に、ぞろぞろと人が集まってくる。しまいには、アーワルドさんとアルクさんのお母さんであるナシュリーさんまで厨房にやってきてしまう程だった。
ナシュリーさんは一体おいくつですかと思うほど若々しくて美人だ。まさに美魔女。
そんな彼らに大層気に入られたふわふわパンは、その後三日程朝昼晩と食卓に並ぶことになった。
今日は皆んな大好き食パンで、ハンナさんにメアリ、シェフ三人衆とナシュリーさんも加わって、簡単なサンドイッチを作った。
中庭でささやかなティータイムを過ごすことになり、他にも小さいサイズのあんパンとクリームパン、それから新作の揚げパンドーナツとカレーパンをお披露目した。
後から仕事を切り上げて来たアーワルドさんとアルクさんも加わり、皆んながそれらを幸せそうな笑顔で堪能してくれている。
ワサビちゃんは、その小さい体のどこに入っていくのかと驚く程、次々と菓子パンを胃袋へ収めていく。今日は訓練の日じゃなかったのに、訓練後の如く爆食いしている。そんな姿にも癒されるのだが、お腹を壊してしまわないかそれだけ心配だ。
どの菓子パンも大好評で、アーワルドさんは王宮へ献上したいと言い出す始末。
絶対にやめて欲しいと思う。ろくな事にならないだろうから。
和やかにティータイムを満喫していると、執事長がアーワルドさんへ来客を知らせた。
それはたった今、王宮から使者が来たことを伝えるものだった。
アルクさんが使っていた書斎は領主様の仕事部屋だったようで、執務机には現在本来の主であるお父さんが座っている。
「改めて、アーワルド・ローヴェン・アルカンだ」
「えみ・ナカザトです。こっちは契約獣のソラです。アルクさんには大変お世話になっております」
アーワルドさんはアルクさんを素敵なおじ様にしたようなイケおじだった。昨夜は自己紹介くらいしか出来なかったので、今日改めて私がここへ来た経緯や、いかにしてワサビちゃんやソラと契約するに至ったかをアルクさんと一緒に報告する事になったのだ。
アーワルドさんにはワサビちゃんは見えていないそうだ。唯気配は感じているようで、私の肩(定位置)にいるワサビちゃんはぼんやりとした光りの球として認識されている。お屋敷の庭の精霊達に関しては、「今日もいらっしゃるのだろうな」程度だそうだ。
因みにアルクさんのお母さんは魔力が無いらしい。魔力持ちが必ずしも遺伝する、というものでも無いようだ。
昨夜初めてソラと顔を合わせた時は、旅行から帰ったら自分の家に伝説級の獣が居て腰を抜かすところだったと、改めてその時の心境を聞かされた。本当に申し訳なく思う。
アルクさん同様、私の事も異世界人だと直ぐに納得してくれたし、ソラが四聖獣だと直ぐに分かったのだという。明確な何かがあった訳ではなく、直感的な方だと説明された。そういうもんなのだろうか。
来客用のテーブルの方へ移動した私達の手元には、メアリの美味しいお茶と手作りのチーズケーキが置かれている。
今日のは『レア』ではなく『ベイクド』の方だ。
ゼリーのようなプルプルのシュワシュワの舌触りも好きだが、見目麗しい黄金色の焼き具合にしっとりねっとりの口溶けが堪らない、ベイクドチーズケーキが私は大好きだ。
アーワルドさんがやっぱりアルクさんのお父さんだなぁと思ったのは、同じようにチーズケーキを観察しながら吟味しながら食べていたからだ。
「うーん。食べ物が旨くて感動したのは初めてだ」
唸っている時の首の角度まで一緒。可笑しくてつい笑ってしまった。
「えみは表情が豊かで可愛らしいな。それに素直そうだ」
なんと、私を誉める台詞まで一緒ではありませんか。驚きと恥ずかしさで一気に赤面してしまう。
その様子を隣で見ていたアルクさんがクスクス笑っている。
「思った事が全部顔に出てしまうから、そこは少し心配だけどね」
「確かにな。駆け引きは苦手そうだ。……こういう女性はある意味手強いぞ?」
「ええ。今どう攻略しようか目下検討中ですよ」
そんな会話をしながら二人揃ってこっちを見るの止めて欲しい。
きっとそんな風に思いながらチーズケーキを食べている事も、この二人にはお見通しなんだろう。
冗談なのか本気なのか、はたまた父子揃って揶揄われているのか。兎に角早くこの空間から逃げ出したい。そんな事を考えながら、私は目の前のチーズケーキを食べる事に集中するのだった。
まだ話しがあると言って書斎に残った父子と別れ、私は厨房へと向かった。食いしん坊なお友達に食べさせてあげたくて、新しい料理のレシピを試す為だ。
その食いしん坊なお友達は今、二人とも近くの森へ出掛けている。生まれたばかりで魔力の弱いワサビちゃんの訓練の為、ソラが半強制的に連れ出しているのだ。毎日ではないけれど、今日は訓練の日みたい。戦う訓練というよりかは、魔力探知や結界の訓練らしい。私には出来ない事なので力になってあげられないが、お腹を空かせて帰ってくるので魔素の補充の為にも美味しいものを作らなくては。
まずやろうと思ったのは『パン』。
ここのパンは物凄く硬い。それはもうビックリする程。
食パンは作りたいな。あと、あんぱんやクリームパンが出来れば、ティータイムがまた更に楽しくなりそうだ。
想像を膨らませてニヤニヤしながら厨房へ行くと、部屋の前にレンくんがいた。姿を見掛けただけなのに、何故かドキっと心臓が跳ねる。
何だか分からないまま近づくと、こっちに気付いたレンくんが体を向けた。
「どうしたの? 誰か探してる?」
「いや……領主様とは、何を?」
「あ、うん。レンくんとアルクさんに話した事もっかい説明してきた。あとソラとワサビちゃんの契約者になった事も」
「それだけ?」
「? そうだよ?」
「……何か作るのか?」
「あ、そうなの。ふわふわパン作ろうと思って」
「見てって良い?」
「もちろん」
厨房に入ると、早速パン作りの準備をする。
食パンと菓子パンの両方を作るのに、ポーチから二つのボウルと二倍の材料を取り出した。使うのは一緒で、強力粉にイースト、砂糖、塩、バター。後は水。今日は手で捏ねる為、少し熱めのぬるま湯を使う。それらを順にボウルに入れて捏ねていくのだが、これが中々重労働なのだ。
「手伝おうか」と言ってくれたレンくんに片方をお願いし真似てもらう。ぎこちなかった動作は直ぐに様になっていき、力もあるからなのかあっという間に生地がまとまると、つるんとムチっとしたフォルムになっている。
「レンくん上手だね! パン作りむいてるんじゃない?」
「そうかな。でも思ったより力仕事なんだな」
「確かに作るのは大変だけど、苦労した分出来たものが美味しいとそんな苦労も忘れちゃうくらい嬉しいの。皆んなが美味しいって言って食べてくれたら余計にね! 作った方も幸せな気持ちになれるんだよ」
「……そうか」
そこから十五分程しっかり捏ね、表面を引っ張るように伸ばしながら閉じ目を下にまとめていく。一次発酵させるため材料を混ぜ合わせたボウルに閉じ目を下にして戻し、乾かないよう濡れた布巾を固く絞って被せておく。これで生地が二倍程に膨らむまで待つのだ。
その間に食パンの型にバターを塗ったり、菓子パン用のあんことカスタードクリームを準備する。
私はこしあん派なので今日はこしあんパンにしよう。一からあんこを作るには一日じゃ足りないので、今回はパウチのものを使う事にする。
カスタードクリームは割と簡単に出来るし、作る時間もありそうなので作る事にした。
そっちもレンくんが手伝ってくれたので一緒に作った。こんなに長い時間お話しした事が初めてだったから、何だか新鮮だ。最初は変に緊張してしまってどうしようかと思ったけど、パン作りをしていると気が紛れていつも通りおしゃべり出来たと思う。
一次発酵が終わるとガス抜きをして食パンの生地の方を型へと入れる。そのまま二次発酵して焼成だ。
菓子パンの方はベンチタイムを経て、中身を詰め二次発酵だ。
その菓子パン用の生地を切り分けている時、レンくんがポツリと呟く用に言葉を零す。
「えみはアルクさんと恋仲なのか?」
「へぇ?」
あまりにも唐突で変な声が出た。驚いた顔のまま見上げたレンくんは、困ったような戸惑ったような複雑な表情だ。
きっと昨日のアルクさんに手を握られた現場を見られたから、それを受けての発言だったのでしょう。思い出しただけでも恥ずかしい。
「昨日のは、その、話しの流れというか……だからそんなんじゃないよ! 大体アルクさんみたいな素敵な人が私なんか相手にするはずないよ」
「そうかな」
「そうだよ!! ちょっと珍しい髪だし、精霊見えるから何か特別感あるのかもしれないけど、そんなの時間が経てば直ぐ…———」
レンくんの手が私の頬に触れてくる。
何が起こったか分からず、目線を上げて彼を見上げた。こちらに向けられたエメラルドが酷く優しく、穏やかに緩められている。
「な……っ、な…?」
「粉。ついてる」
「あ…ありが……」
驚愕すぎて体が固まってしまった。喉が詰まって声が上手く出てこない。
大きな手が触れたままの頬が熱くて、その熱が身体中に巡っていくようだ。あっという間に身体中が熱くなった。
さっきの感覚を思い出したかのように心臓が音を上げている。その鼓動が耳の直ぐ内側で聞こえている気がして、やけに大きくうるさかった。
「えみ……オレ……」
レンくんが何か言い掛けた時、扉の奥から話し声が聞こえてくる。それがルファーくんとホーンさんの声と分かって、金縛りが解けたかのように体に自由が戻った。
レンくんの手が離れていって、ようやく彼から目を逸らす。心臓はバクバクうるさいままだ。それらを誤魔化すように止まっていた手を動かした。
「そろそろ戻る。邪魔したな」
「あ、うん……手伝ってくれてありがと」
ふわふわパン楽しみにしてると言い残し、レンくんは厨房を出て行った。入れ違いでシェフの二人が入ってくる。
入って来た二人と会話したのは覚えていたものの、その内容を全然覚えてなくて後からビックリした。それくらい今の私は動揺と戸惑いを隠しきれずにいたのだった。
菓子パン作りの続きをシェフの二人が手伝ってくれる。ルファーくんがカスタードクリームを気に入ったようで、これを使ったおやつをもっと作って欲しいと言われた。プリンやタルトが良さそうかな。
またハンナさんとメアリが喜びそうだなと自然と顔も綻んだ。
作業をしながらもレンくんの事が頭から離れず、ときどきぼーっと呆けてはルファーくんとホーンさんから注意を受けるのであった。
こんがりときつね色にふっくらと焼き上がると、たちまちお屋敷中に甘くて優しい匂いが広がった。
訓練から戻ったソラとワサビちゃんを筆頭に、ぞろぞろと人が集まってくる。しまいには、アーワルドさんとアルクさんのお母さんであるナシュリーさんまで厨房にやってきてしまう程だった。
ナシュリーさんは一体おいくつですかと思うほど若々しくて美人だ。まさに美魔女。
そんな彼らに大層気に入られたふわふわパンは、その後三日程朝昼晩と食卓に並ぶことになった。
今日は皆んな大好き食パンで、ハンナさんにメアリ、シェフ三人衆とナシュリーさんも加わって、簡単なサンドイッチを作った。
中庭でささやかなティータイムを過ごすことになり、他にも小さいサイズのあんパンとクリームパン、それから新作の揚げパンドーナツとカレーパンをお披露目した。
後から仕事を切り上げて来たアーワルドさんとアルクさんも加わり、皆んながそれらを幸せそうな笑顔で堪能してくれている。
ワサビちゃんは、その小さい体のどこに入っていくのかと驚く程、次々と菓子パンを胃袋へ収めていく。今日は訓練の日じゃなかったのに、訓練後の如く爆食いしている。そんな姿にも癒されるのだが、お腹を壊してしまわないかそれだけ心配だ。
どの菓子パンも大好評で、アーワルドさんは王宮へ献上したいと言い出す始末。
絶対にやめて欲しいと思う。ろくな事にならないだろうから。
和やかにティータイムを満喫していると、執事長がアーワルドさんへ来客を知らせた。
それはたった今、王宮から使者が来たことを伝えるものだった。
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