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第二話 龍の住まう川
14 暗躍
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そんな騒ぎも届かない本坊の奥。山伏雲景の居室にて。灯台の火皿の上で踊る朱色の光が、室内に立ち込める、ねっとりとしてぬるい薄闇を揺らしている。
(まずい、まずいぞ。いいやしかし、これほどの機会を逃すのも阿呆じゃろう)
雲景の目は、正面に端座した娘のしなやかな肢体に釘づけである。
まだ十代後半と見える、うら若き女。夕刻に彼女が本坊の戸を叩き一晩の宿を願い出た瞬間、降って湧いた今宵のお楽しみに、密かに心躍らせたものである。けれども事態は急変した。何とも間の悪いことに、妖山城主白澤源三郎剛厚とその妻が突然現れたのだ。
彼らが山寺を訪れた理由が、本当に狐狸《こり》のいたずらによる遭難なのか、疑わしい。もしかすると雲景の暗躍を知り、例の一件への関与を示す証拠を探しに来たのではあるまいか。もしそうならば、早々にあれを処分しなくてはならない。
いやしかし、領主直々に乗り込んで来るなど妙だ。その上、妻を連れている意味がわからない。さらに、河童の変装をしたあの侍女は何なのだ。もしや、それら不可解な点は全て、雲景を油断させるための巧妙な手口では。
「あの、雲景様?」
膝を突き合わせた娘が、潤んだ瞳で見上げてくる。思考に沈んでいた雲景の意識は瞬時に浮上。色事の気配に引き寄せられた。
あれを隠した床板の辺りから視線を戻し、雲景はごくりと唾を呑む。
熟れた柘榴の色に濡れた唇、絹布を掛けたかのようにきめ細かく白い頬、それを飾る細い首。呼吸に合わせて柔らかく膨らむ胸部から腰元にかけての稀有な曲線。
妖艶だ。ただの村娘にしては肉づきがいい。夕日の下で見た時にも美しい女人だとは思ったが、もう少し素朴な印象を覚えたものだ。
眼前の娘は記憶よりもずっと艶かしい。薄闇の中ゆえだろうか、まるで別人になったかのようなのである。この女人、末法の世に舞い降りた天女か、それとも。
「雲景様、もしかして呆れてますか? あたしがはしたないから……」
「いいや、そのようなことはありませんぞ。夫の非道に深く傷ついた女人が俗世を捨て、仏の道を志すのは何もおかしくはない」
娘はほっとしたように頬を緩め、膝を滑らせて距離を詰める。
「そして」
艶やかな唇が開き、細い指が雲景の腿を撫でた。
「地獄のような暮らしから救ってくれたお方にこの身を委ねるのも、当然の成り行きです」
娘の顔が視界いっぱいに迫ってくる。麝香のような蠱惑的な匂いが強烈に立ち込めて、全身が痺れたようになり動けない。そして、柔らかで官能的な唇がいよいよ重なり合うというその瞬間。雲景の意識は恍惚の彼方に飛び去った。
「……何て情けないこと」
鼻の下を伸ばした表情で失神して板床の上に転がる雲景を冷たく一瞥し、村娘は部屋の端に足を進める。
雲景は、軽く唇を重ねただけで生気が枯渇して昏倒してしまった。これだから、だらしなく老いるに任せた男は嫌なのだ。
村娘は、先ほど雲景がしきりに視線を向けていた辺りに膝を突くと、床に指先を這わせる。何度か床板を撫でてから不自然な窪み見つけ、指を差し込み板を引き上げた。
露わになった床下から、湿った黴の臭いが立ち上る。娘は躊躇いもせず闇の中に腕を突っ込むと、真新しい木箱を取り出した。
あからさま過ぎる隠し物の在処を視線だけで暴露してしまった雲景。村娘の当初の企みでは、雲景を誘惑しつつ口を割らせるつもりだったのだが、そのような小細工など不要であった。つくづく呆気ない。
「まあ、時間もないのだし、ちょうどよかったけれど」
その時、遠く山奥から、甲高い悲鳴のような音が響き渡り、村娘の鼓膜を揺らした。
――ヒー、ヒョー。
「トラツグミ? 夜が更けたわね。急がないと」
トラツグミは春夏の深夜から明け方にかけて鳴く鳥だ。
――ヒョー、ヒョエッ。
「いいえ、違う鳥かしら?」
どちらにしても、夜明けは刻々と近づいている。村娘は気を取り直して箱を開く。中には想像の通り、書状が収められていた。
ごくりと唾を呑み、紙を開く。記されていた内容は想定の範囲内であるが、謀の手段については記載がない。他にも委細を記した書面があったのだろうか。いいや、それよりも。
「見たことのある筆跡だわ。それなのに、どうしてこれは」
村娘の目が驚愕に見開かれる。黒い瞳が、書状の末尾、署名の部分に釘づけになっている。
「まさか……。いいえ、でもそんなこと」
――ヒョー。
鳥の声が近くなる。おどろおどろしい音が夜気を揺らす。
――ヒー、ヒョー……。
「う、うわああああああ!」
絶叫と同時、何かが蹴倒されたような音が鳴り、本坊が揺れた。一呼吸の間をおいてから、慌ただしい足音が行き交い始めた。
「まずいわね」
姿を目撃されるわけにはいかぬのだ。村娘は辺りを見回し、誰の目もないことを確認すると、丸めた書状を口に咥えた。そして。
どろん、と白煙が立ち上り、人の娘の姿はかき消えた。代わりに夜の境内に跳び出したのは、一匹の白い狐であった。
(まずい、まずいぞ。いいやしかし、これほどの機会を逃すのも阿呆じゃろう)
雲景の目は、正面に端座した娘のしなやかな肢体に釘づけである。
まだ十代後半と見える、うら若き女。夕刻に彼女が本坊の戸を叩き一晩の宿を願い出た瞬間、降って湧いた今宵のお楽しみに、密かに心躍らせたものである。けれども事態は急変した。何とも間の悪いことに、妖山城主白澤源三郎剛厚とその妻が突然現れたのだ。
彼らが山寺を訪れた理由が、本当に狐狸《こり》のいたずらによる遭難なのか、疑わしい。もしかすると雲景の暗躍を知り、例の一件への関与を示す証拠を探しに来たのではあるまいか。もしそうならば、早々にあれを処分しなくてはならない。
いやしかし、領主直々に乗り込んで来るなど妙だ。その上、妻を連れている意味がわからない。さらに、河童の変装をしたあの侍女は何なのだ。もしや、それら不可解な点は全て、雲景を油断させるための巧妙な手口では。
「あの、雲景様?」
膝を突き合わせた娘が、潤んだ瞳で見上げてくる。思考に沈んでいた雲景の意識は瞬時に浮上。色事の気配に引き寄せられた。
あれを隠した床板の辺りから視線を戻し、雲景はごくりと唾を呑む。
熟れた柘榴の色に濡れた唇、絹布を掛けたかのようにきめ細かく白い頬、それを飾る細い首。呼吸に合わせて柔らかく膨らむ胸部から腰元にかけての稀有な曲線。
妖艶だ。ただの村娘にしては肉づきがいい。夕日の下で見た時にも美しい女人だとは思ったが、もう少し素朴な印象を覚えたものだ。
眼前の娘は記憶よりもずっと艶かしい。薄闇の中ゆえだろうか、まるで別人になったかのようなのである。この女人、末法の世に舞い降りた天女か、それとも。
「雲景様、もしかして呆れてますか? あたしがはしたないから……」
「いいや、そのようなことはありませんぞ。夫の非道に深く傷ついた女人が俗世を捨て、仏の道を志すのは何もおかしくはない」
娘はほっとしたように頬を緩め、膝を滑らせて距離を詰める。
「そして」
艶やかな唇が開き、細い指が雲景の腿を撫でた。
「地獄のような暮らしから救ってくれたお方にこの身を委ねるのも、当然の成り行きです」
娘の顔が視界いっぱいに迫ってくる。麝香のような蠱惑的な匂いが強烈に立ち込めて、全身が痺れたようになり動けない。そして、柔らかで官能的な唇がいよいよ重なり合うというその瞬間。雲景の意識は恍惚の彼方に飛び去った。
「……何て情けないこと」
鼻の下を伸ばした表情で失神して板床の上に転がる雲景を冷たく一瞥し、村娘は部屋の端に足を進める。
雲景は、軽く唇を重ねただけで生気が枯渇して昏倒してしまった。これだから、だらしなく老いるに任せた男は嫌なのだ。
村娘は、先ほど雲景がしきりに視線を向けていた辺りに膝を突くと、床に指先を這わせる。何度か床板を撫でてから不自然な窪み見つけ、指を差し込み板を引き上げた。
露わになった床下から、湿った黴の臭いが立ち上る。娘は躊躇いもせず闇の中に腕を突っ込むと、真新しい木箱を取り出した。
あからさま過ぎる隠し物の在処を視線だけで暴露してしまった雲景。村娘の当初の企みでは、雲景を誘惑しつつ口を割らせるつもりだったのだが、そのような小細工など不要であった。つくづく呆気ない。
「まあ、時間もないのだし、ちょうどよかったけれど」
その時、遠く山奥から、甲高い悲鳴のような音が響き渡り、村娘の鼓膜を揺らした。
――ヒー、ヒョー。
「トラツグミ? 夜が更けたわね。急がないと」
トラツグミは春夏の深夜から明け方にかけて鳴く鳥だ。
――ヒョー、ヒョエッ。
「いいえ、違う鳥かしら?」
どちらにしても、夜明けは刻々と近づいている。村娘は気を取り直して箱を開く。中には想像の通り、書状が収められていた。
ごくりと唾を呑み、紙を開く。記されていた内容は想定の範囲内であるが、謀の手段については記載がない。他にも委細を記した書面があったのだろうか。いいや、それよりも。
「見たことのある筆跡だわ。それなのに、どうしてこれは」
村娘の目が驚愕に見開かれる。黒い瞳が、書状の末尾、署名の部分に釘づけになっている。
「まさか……。いいえ、でもそんなこと」
――ヒョー。
鳥の声が近くなる。おどろおどろしい音が夜気を揺らす。
――ヒー、ヒョー……。
「う、うわああああああ!」
絶叫と同時、何かが蹴倒されたような音が鳴り、本坊が揺れた。一呼吸の間をおいてから、慌ただしい足音が行き交い始めた。
「まずいわね」
姿を目撃されるわけにはいかぬのだ。村娘は辺りを見回し、誰の目もないことを確認すると、丸めた書状を口に咥えた。そして。
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