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ep.9 5年前のこと Side伊吹
4.
◇◇◇
祖父の言う「シビアなビジネスの世界」「政財界」、これまで無縁だった世界だ。
だが、今回とある業界のパーティーに出席した結果、伊吹は自分の甘さ、ふがいなさ、無力さを思い知らされた。
別段、何かをされたわけではない。それにある程度の想定はしていた。
だが、微笑んで穏やかそうに見えても、腹の底の読めぬ大人たち。抜け目のない視線。隙を見せたら、あっという間に餌食にされそうだ。たった1つの失敗が命取りになる。
そういった世界に、たとえ若宮柳之介という後ろ盾はあろうとも、何の権力も財力も持たない、ただのしがない貧乏学生である自分は足を踏み入れたのだ。
そして自分はそんな学生の身において、ホテルの再興などという前人未到のことを成し遂げようとしている。
礼儀作法と業界マナーの師である宝生寺鞠花がトレーナーとして付き添い、伊吹の粗を適宜忠告して矯正してくれたおかげで何とか形にはなっていた。
(だが、こんな俺では、はるちゃんをエスコートすることも、守ることもできない)
伊吹にそれらの術が身に着くまでには、あと数年はかかるだろう。
認めたくはなかったが、祖父の言う通りだと認めざるを得なかった。
祖父が伝えたかったのは、「榛名に非があるのではない。今の伊吹が無力なのだ」という事実だった。
由比榛名。だれよりも大事で大切で、愛おしい恋人。
会えば恋しくなる。誰のものにもしたくない、自分のものでいて欲しい。
だが、榛名の幸せを考えたら――
このまま交際を続けても、数年間は時間が取れず会えないかもしれない。
会うことはできる――伊吹の仕事に巻き込んでしまえば。だがそれは結果として彼女を傷つけることになる。
就職して東京での生活を始め、仕事を覚えなければならない大事な時期だ。
それなのに、伊吹のために、他にもあれやこれやと学ばされては身がもたないだろう。
(はるちゃんには笑っていて欲しい。普通の生活を送って、のほほんとしているのが彼女には似合っている)
――伊吹の出した答えは『別離』だった。
この5年、多くの出会いがあったが、誰一人として伊吹の心が動くことはなかった。
彼の心を動かせるのは、記憶の中にいる榛名だけだった。
「はるちゃん、今日も行ってくるよ」
大学生時代、榛名から京都のお土産としてもらった猫のぬいぐるみ。
これを常日頃から鞄の中に潜ませて1人になった時に話しかけていた。
ホテルロイヤルヴィリジアンの9階シングルルームに住み始めてからは、ベッドのヘッドボードに置いて、榛名との日々を思い返しながら眺めていた。
自分から手を離したのだ。榛名のことは諦めなければならない。
すでに結婚しているかもしれない。そうでなくても恋人はいるだろう。彼女の幸せを壊すようなことはあってはならない。
それなのに……伊吹の心の中では、榛名への想いが今でもマグマのように燃えたぎっている。
――はるちゃんを守れるだけの力をつけて、必ず彼女を迎えに行く。
伊吹は榛名との再会を励みに、それだけを支えにして生きてきた。
だが、そろそろ現実との折り合いをつけなければならない。
ある時、秘書の東城に命じて、『由比榛名の現状』についての調査を開始した。
調査の結果、わかったことはいくつかある。
思いのほか、近くに住んでいることを知り、伊吹は驚いた。
(日本橋浜町……目と鼻の先じゃないか。よくこれまでばったり出くわさなかったものだな)
新卒で入社したE&Eトラベルで、順調にキャリアを積み重ねていること。
優しく思いやりに溢れた性格は健在で、周囲からの信頼も厚いこと。
そして肝心の「男の影は無し」――という報告があった。
E&Eトラベルとは少ないながらも取引がある。伊吹は行動を開始した。
再会した榛名は強くたくましくなっていた。
(今のはるちゃんなら大丈夫だ)
同じく今ではビジネスの世界で渡り合えるほどに成長した伊吹と共にやっていけると確信した。
そして、伊吹との別れがもたらした傷を乗り越えたというよりも、抱えて生きてきたのが痛いほど伝わってきた。
拒否されることを恐れたゆえの契約結婚という手段を使ったが、それも入籍するまでのこと。
入籍さえしてしまえば、後はトロトロに甘やかして、たっぷりと愛情を注ぎ、今度こそ幸せにしたい。この手でーー
伊吹は心から誓ったのだった。
祖父の言う「シビアなビジネスの世界」「政財界」、これまで無縁だった世界だ。
だが、今回とある業界のパーティーに出席した結果、伊吹は自分の甘さ、ふがいなさ、無力さを思い知らされた。
別段、何かをされたわけではない。それにある程度の想定はしていた。
だが、微笑んで穏やかそうに見えても、腹の底の読めぬ大人たち。抜け目のない視線。隙を見せたら、あっという間に餌食にされそうだ。たった1つの失敗が命取りになる。
そういった世界に、たとえ若宮柳之介という後ろ盾はあろうとも、何の権力も財力も持たない、ただのしがない貧乏学生である自分は足を踏み入れたのだ。
そして自分はそんな学生の身において、ホテルの再興などという前人未到のことを成し遂げようとしている。
礼儀作法と業界マナーの師である宝生寺鞠花がトレーナーとして付き添い、伊吹の粗を適宜忠告して矯正してくれたおかげで何とか形にはなっていた。
(だが、こんな俺では、はるちゃんをエスコートすることも、守ることもできない)
伊吹にそれらの術が身に着くまでには、あと数年はかかるだろう。
認めたくはなかったが、祖父の言う通りだと認めざるを得なかった。
祖父が伝えたかったのは、「榛名に非があるのではない。今の伊吹が無力なのだ」という事実だった。
由比榛名。だれよりも大事で大切で、愛おしい恋人。
会えば恋しくなる。誰のものにもしたくない、自分のものでいて欲しい。
だが、榛名の幸せを考えたら――
このまま交際を続けても、数年間は時間が取れず会えないかもしれない。
会うことはできる――伊吹の仕事に巻き込んでしまえば。だがそれは結果として彼女を傷つけることになる。
就職して東京での生活を始め、仕事を覚えなければならない大事な時期だ。
それなのに、伊吹のために、他にもあれやこれやと学ばされては身がもたないだろう。
(はるちゃんには笑っていて欲しい。普通の生活を送って、のほほんとしているのが彼女には似合っている)
――伊吹の出した答えは『別離』だった。
この5年、多くの出会いがあったが、誰一人として伊吹の心が動くことはなかった。
彼の心を動かせるのは、記憶の中にいる榛名だけだった。
「はるちゃん、今日も行ってくるよ」
大学生時代、榛名から京都のお土産としてもらった猫のぬいぐるみ。
これを常日頃から鞄の中に潜ませて1人になった時に話しかけていた。
ホテルロイヤルヴィリジアンの9階シングルルームに住み始めてからは、ベッドのヘッドボードに置いて、榛名との日々を思い返しながら眺めていた。
自分から手を離したのだ。榛名のことは諦めなければならない。
すでに結婚しているかもしれない。そうでなくても恋人はいるだろう。彼女の幸せを壊すようなことはあってはならない。
それなのに……伊吹の心の中では、榛名への想いが今でもマグマのように燃えたぎっている。
――はるちゃんを守れるだけの力をつけて、必ず彼女を迎えに行く。
伊吹は榛名との再会を励みに、それだけを支えにして生きてきた。
だが、そろそろ現実との折り合いをつけなければならない。
ある時、秘書の東城に命じて、『由比榛名の現状』についての調査を開始した。
調査の結果、わかったことはいくつかある。
思いのほか、近くに住んでいることを知り、伊吹は驚いた。
(日本橋浜町……目と鼻の先じゃないか。よくこれまでばったり出くわさなかったものだな)
新卒で入社したE&Eトラベルで、順調にキャリアを積み重ねていること。
優しく思いやりに溢れた性格は健在で、周囲からの信頼も厚いこと。
そして肝心の「男の影は無し」――という報告があった。
E&Eトラベルとは少ないながらも取引がある。伊吹は行動を開始した。
再会した榛名は強くたくましくなっていた。
(今のはるちゃんなら大丈夫だ)
同じく今ではビジネスの世界で渡り合えるほどに成長した伊吹と共にやっていけると確信した。
そして、伊吹との別れがもたらした傷を乗り越えたというよりも、抱えて生きてきたのが痛いほど伝わってきた。
拒否されることを恐れたゆえの契約結婚という手段を使ったが、それも入籍するまでのこと。
入籍さえしてしまえば、後はトロトロに甘やかして、たっぷりと愛情を注ぎ、今度こそ幸せにしたい。この手でーー
伊吹は心から誓ったのだった。
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登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。