オメガバース 悲しい運命なら僕はいらない

幾度目かの夏の日

◇◆◇◆◇


華月が眠り続けて数年の時が流れた。
あれから何度目かの、晩夏に差し掛かる季節になろうとしている。
「いらっしゃいませ」
繁華街の裏路地にある和を基調としたカフェの扉に設置された小さな鐘が、カランカラン、と小気味の良い音を立てて店内に響き渡り入り口が開く。着物姿の皇司が音の方へと顔を向けると、ジーパンにワイシャツ姿で疲労が色濃く顔に出ている帝一が店内へと入ってくる。すっかり定位置となった席へと腰を下ろすと、メニューも見ずにテーブルに突っ伏してしまった。
「なんでもいい、軽食とお茶」
「兄さん、また無理して徹夜したのか？　もう若くないんだから」
「もうすぐ新作発表会なのにトラブル続きでこっちも大変なんだ。つべこべ言わずに早くなんか出して」
「わかったよ。じゃあお茶漬けと奈良漬けでいいか？　昨日京都の田所さんが送ってくれたんだ」
「田所？　あの代議士のか？　仲良くなったもんだな」
田所とは、華月の新しい嫁ぎ先にと彼の両親が話を持ってきた相手だ。記憶が戻って数か月後、皇司は自らの足で彼へ断りの挨拶をしに京都に行ったのだが、田所は見た目はお堅いインテリ系ではあるが根はとても良い人だった。わざわざ皇司から挨拶に行ったことが良かったようで、会いに行ってその日に気に入られてしまったのだ。
それもあってか、ほんの雑談で独立して和風カフェを開きたいという話をしたとき、店の資金調達に是非協力させてほしいと名乗りを挙げてくれたのも田所だった。
「今じゃ、新鮮な京野菜も送ってくれるよ。実家の農家で作ってるって」
知り合い価格での仕入れで収まっているお陰で価格設定も安くできているし、ヘルシー志向の女性にもウケており固定客も徐々に増えつつあった。
「で、お前、茶道教室も始めたのか？」
くいっと親指でポスターを指さした帝一に、思わず苦笑いが零れた。
「あぁ……。俺のこと知ってる人がお客さんにいて、その人が広めたみたいで老人会の人たちが習いたいって」
一度はメディアに大きく取り上げられた皇司は、本人の知らないところでかなりの有名人だったようなのだ。テレビや雑誌の取材依頼も多くくるが、店があまり広くないことと、間接的にでも如月の名を使いたくないという理由ですべて断ってはいるが、インターネットの拡散力は物凄く、女性客からも習いたいという声が多く上がったため月に二回だけ茶道教室も始めていた。
オープンキッチンで軽食の準備をしながら帝一の質問に答えていると、彼はふと店内のカレンダーへと目を移した。
「――もうすぐ、華月が眠り続けて五年か……」
「…………」
「いつになったら目覚めるんだろうな……。今でも毎日見舞いに行ってるのか？」
「ああ。今日も昼からアルバイトの子が来るから、そのとき行く」
ふたりだけの店内に、皇司の声は虚しく響いた。
この五年間、皇司は一日も欠かさず彼の見舞いに行っているが、どんなに季節が巡っても、華月は一向に目覚める気配がない。
このまま一生目覚めないのではないか、という不安を抱いたことがないと言えば嘘になる。田所の紹介で色々な医師に診てもらったが、原因はまるでわからずじまいだ。皆、口をそろえて「目覚めてもおかしくはない状況だ」と言っては帰っていく。「もう諦めた方が」と残酷な診断を受けたこともある。
それでも皇司は待ち続けると決めているのだが、不安と隣り合わせなことには変わりがない。眠り続けているせいで華月の筋肉は弱り、この五年でかなり痩せ細ってしまった。抵抗力も低くなっているようで、何度か集中治療室に入ったこともある。その度、不安を掻き立てられるのだ。
このまま一生の別れになってしまうのではないか、と。
番と死別した帝一の手前、こんな不安を口に出すことはできないが、彼も同じことを考えているはずである。
まだ帝一の家に居候していた頃、一度だけ見たことがある。深夜のリビングで、死別したかつての番――悠の写真が飾られた写真立てに顔を押し付け「華月を連れて行かないでくれ」と懇願している姿を――。
「――もしかしたら今日、目が覚めるかもしれないだろ。俺が信じてやらなかったら誰が華月の目覚めを待つんだよ」
それは自分にも言い聞かせている言葉ではあるが、兄の前では気丈な台詞を口にするようにしている。
「ほら、出来たよ。それ食って、早く仕事しろよ」
帝一の前にドンッとお茶漬けと奈良漬けが乗ったお盆を出す。
「あぁ、ありがとう」
黙って出されたものを機械的に口に運ぶ兄の姿を横目に、皇司はタイミングよく立て続けに入ってきた客の接客に入ったのだった。



昼過ぎにアルバイトの女の子たちがシフトに入り、皇司は昼の休憩時間を使って、華月が入院している総合病院へと訪れた。
手には小さなひまわりの花束を抱えている。子どもの頃はよく華月に庭にあった植物を贈ったものだ。その度に彼はとても嬉しそうに微笑んでいた。そのときの思い出も呼び起こされたからか、皇司は毎日日替わりで新しい花を持ってきていた。
今日は何の話をしようか、と病室の個室の扉を開けた時、皇司はその中に有り得ない人物の訪れを見止め、一瞬動きを止めてしまった。
「……陽一さん」
華月の寝顔を少し遠くの位置から見つめていたのは、彼の実兄である陽一だ。その隣には高崎も控えている。
「お久しぶりでございます。皇司様」
礼儀正しく頭を下げる高崎とは違い、陽一はこちらに目を向けようともしない。
「何しに来たんですか」
そう声をかけると、ようやく陽一の視線が皇司に向けられた。
「……久しぶりだな。皇司くん。元気そうでなによりだ」
「えぇ……。お陰様で」
皇司はこの人が好きではなかった。
華月は何も言わなかったが、陽一が華月にしてきたことを知らないわけではない。実の弟をオメガということで虐げ、迫害してきた人が、今更一体何の用なのか。
自然と視線が険しくなるが、陽一はあの頃とは少し雰囲気が変わっており、微苦笑を浮かべて椅子から立ち上がった。
「君がずっと弟の面倒を診てくれていたことは知っている。感謝するよ」
「……何の真似ですか？」
「――……娘が生まれたんだ。小夏こなつと言って、今年で三つになるが、とても可愛い」
「それは……おめでとうございます」
ありがとう、と陽一は父親の顔で笑う。
「おかしい話だが子どもができて、ようやく気付いたんだ。自分が華月にしてきたことがいかに卑劣だったかを。父さんや母さんは今でも華月を毛嫌いしているが、実の子どもに対しての態度じゃない。――私の娘はね、オメガなんだ」
「…………ッ！」
　皇司たちが生まれた頃とは違い、現在では第二の性の検査は生まれて二年後にはできるようになっているのだという。そこで陽一の娘がオメガだと発覚したそうだ。
「それでも可愛いと思う。どうして両親が華月にあんな仕打ちができたのか、理解できないほど、愛おしいんだ……」
ぽつぽつと、陽一は当時のことを語り始めた。あの頃はまだ子どもで、華月への迫害が普通だと思い込んでいたこと。オメガは穢らわしく、卑しい存在だと信じ込んでいたこと。だが自分の娘がオメガだと知り、嫌悪どころか愛おしさが増したことを――。
「華月にはすまないことをしてきた……。まだ眠り続けていると知って、今日はここに来たんだ。皇司くんと幸せに暮らしているのであれば、そっとしておこうと連絡すら取らなかったんだが……。今までのこと、どうか許してほしい……」
プライドが高く人に頭を下げることすら知らないと思っていた男が、皇司に深々と頭を下げた。
思わず目を見開いてしまったが、すぐに表情を戻し、小さく息を吐く。
「その言葉は、俺ではなく華月に言ってやってください。俺は自分の意思で華月の傍にいるだけであって、あなたたちからの謝罪や感謝がしてほしいわけじゃない」
「――そう、だよな……」
寂しそうに笑う陽一は、スッと一枚の紙切れを渡してくる。
「私の連絡先だ。華月が目覚めたら渡してほしい……。弟は私に会いたくはないだろうが、謝罪をさせてほしいと伝えてくれ」
「…………わかりました」
紙を受け取ると、陽一は少しだけ安心したように肩を撫でた。
「今日は帰るよ。お邪魔したね」
すっと横切る陽一に続き、高崎も一礼して部屋を後にした。
パタン、と扉が閉まってから、皇司は小さく溜め息を吐いてから、気を取り直してベッドの横にあるテーブルの花瓶にひまわりの花を挿した。
季節折々、様々な花が咲く。
春なら桜、夏ならひまわり、秋なら金木犀、冬ならクロッカス。この五年間、華月のために花屋に度々顔を出すようになって、知らなかった花の名前を覚えた。
「このひまわり、小夏って言うんだって。小さいのに凛としている姿が、華月みたいだなって思ったんだけど……」
まさか陽一の娘の名と同じ名前だとは思わなかった。
「なぁ……、華月が眠り続けている間に、色々変わったよ。そろそろ……起きてもいいんじゃないのか？」
　静かに、愛する青年に語り掛ける。
　彼が眠りについてから、彼を取り巻く辛い現状は徐々に良い方向に向かい始めている。
　皇司が記憶を取り戻したのはもちろん、氷見はオメガの娘を持つ陽一が当主となった。オメガであっても娘を愛しているのだというのであれば、あの家はこれから変わることができるだろう。
「俺だって、もう立派な大人になった。華月が知ってる中学生の俺じゃない、大人の男にだって、なったんだ」
　あの頃はただ傍にいるだけしかできなかったが、今では経済力だってある。これから先の未来についてだって、二人で語り合える。
「大人になっても、まだ華月が……、いや、あの頃以上に、華月が好きだ。時間が過ぎていく度、華月を想う気持ちが大きくなっていくよ」
　早く目覚めてほしい。
　陽一ではないが、そのときには謝らせてほしい。
　たくさんたくさん、辛い思いをさせた。帝一と番になるという決断までさせてしまった。
　今更許してもらえないかもしれないが、どんなに詰なじられても手放してやれないほど、彼を想う気持ちの方が日増しに強くなっていくのを自覚している。
「華月……」
　点滴を付けていない方の手を持ち上げ、そっとその手の平に唇を寄せた。
　皇司が中学の頃、華月はいつも「大人になっても僕のことが好きだったら、番になろう」と寂しそうに言っていた。
　どんなに言葉を紡いでも、華月はいつも不安そうで、やっと言葉を捻り出させても、まだ不安そうだった。
　だから毎日抱いたし、キスだってたくさんした。
　この気持ちを知ってほしくて、気づいてほしくて、それでも伝わらないことが歯がゆかった。
「――俺のこと、怒ってるのか？」
　それは何度も問いかけた問いだった。
　記憶を失って、皇司は華月を傷つけた。
　あの頃、何故あんなにもオメガを嫌っていたのかはわからない。記憶が戻ってからも、好きで好きで仕方がない華月を拒絶した理由がわからなかった。
　ただ、彼を遠ざけなければ、という思いがあったことは覚えている。
　それが自分のためなのか、深層心理の中で華月を守ろうとしてそう思い込んでいたのかはわからない。
「――もうすぐ、秋が来るよ」
　六回目の秋も、こうしてただひたすら彼が目覚めるのを待ち続けるのだろうか。
　華月の記憶を失ったのは秋から冬になる直前だった。あの時の華月の辛い日々を思い知らされる。夏から秋に移り変わるこの季節は物寂しく、眠っている彼の顔を見るのも辛くなってくる。
　窓の外から見える景色が夕焼け色に染まる頃、そろそろ店に戻らなければと、腰を浮かしかけたときだった。
「……ぁ……」
「――華月……？」
ほんのわずかだが、華月の睫毛が震え、身じろぎしたように見えた。
そして次の瞬間、華月の瞼が開き、薄茶色の瞳が皇司を映す。
目覚めたばかりで状況が理解できていないのか、それともまだ覚醒できていないのか、華月はぼんやりと皇司を見つめていた。
「華……月……？」
顔を近づけ、そっと呼びかけてみる。
「…………」
唇は震えるものの、華月から声が発せられることはなかった。
「俺がわかるか？　皇司だ」
真っ白い頬に手を添えてみる。すると僅かだが、彼の唇が皇司の名を繰り返した。そうだ、と何度も頷いて、華月の手を握りしめる。
「この寝坊助。ずっと、お前の目が覚めるの、待ってたんだぞ」
溢れそうになる涙を堪えながら、奥歯を噛みしめて華月の細くなった体を抱きしめようとした。だが、次に聞こえてきた言葉に皇司は硬直する。
「――どうして君がいるの？　皇司くん」
皇司を見上げる目は、どこか冷ややかなものだった。
「華月……？」
「帝ちゃん……帝ちゃんはどこ……？」
急に暴れはじめた華月は帝一の姿を探し求めて泣き喚き、大声を張り上げ続けるその声を聞きつけた看護師たちに鎮静剤を打たれて再び眠りにつくまで、華月は皇司のことなど一切見ていなかった。
帝一が病院に駆け付けたのは、そんな騒動から数時間経った後だった。